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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第四章――「乱世を喰らう」

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第4話(後編)――「天下を狙う」

 386年10月下旬。


 馮岳が取った城は、そのまま馮岳に任されることになった。ただし、城を褒美として与えたわけではなく、1,000人の指揮を続けさせながら、降った兵の再編、周辺の村との交渉、街道の確保まで担当させる。南鄭からは鄭達を送り、城壁や門、倉、井戸などを調べさせた。


 攻めることを得意とする馮岳に、守りを得意とする鄭達を組み合わせ、その結果を見て次にどこまで任せるかを決める。9月に取った城では段烈が周辺の掌握を進めており、南鄭には田朔がいる。田家の軍は、田朔1人について動く集団から、複数の将がそれぞれの持ち場で動く軍へ変わり始めていた。


 だからといって、田朔が戦から離れたわけではない。


 むしろ自分が学ばなければならないことは、以前より増えていた。


 その朝、田朔は南鄭の城外で趙嶽と向かい合っていた。


 数百人の兵を敵味方に分け、田朔と趙嶽がそれぞれを指揮する。実戦ではないため武器を交えることはないが、旗と太鼓による命令は本番と同じものを使った。


 田朔はこれまで、自分が先頭に立つ戦には慣れていた。敵の様子を直接見て兵を進め、崩れた場所があれば自分で駆けつける。数百人を率いていた頃なら、それでも軍は動いた。


 ところが、自分から離れた場所にいる部隊まで同時に動かそうとすると、勝手が違った。


 田朔が左翼へ前進を命じると、旗手が合図を送り、それを見た部隊が動き始める。その間にも戦況は変わる。前へ出した左翼を戻そうとした頃には、趙嶽が薄くなった中央へ兵を寄せていた。


 田朔は中央を支えようと予備の兵を動かしたが、今度は別の場所が手薄になった。そこへ趙嶽が兵を回したため、田朔は立て直すことができず、訓練は趙嶽の勝ちで終わった。


 兵を元の位置へ戻した後も、田朔はしばらく地面に描いた配置を眺めていた。


「今までは崩れそうなところへ俺が走れば何とかなった。だが兵が増えれば、俺が左へ走っている間に右が崩れる。5,000人、1万人を率いるようになったら、なおさら自分の足では間に合わないな」


 趙嶽は田朔の隣へ来ると、先ほどまで両軍が向かい合っていた場所を示した。


「総大将が自分で戦えることは大きな強みです。兵も、主が同じ戦場にいれば奮い立つでしょう。しかし兵が増えれば、総大将が見る範囲も広くなります。目の前の敵を倒している間に別の部隊が崩れれば、せっかく田様が勝っても軍全体では負けます。これからは、ご自身が強いだけでは足りません」


 田朔は素直に頷いた。負けた以上、言い返しても仕方がない。


「明日も付き合ってくれ。今度は5,000人ずついるつもりでやる。伝令が走る時間も考えるし、予備の兵をどこへ置くかも俺が決める。天下を取ると言った奴が、自分の軍をまともに動かせないんじゃ話にならないからな」


 趙嶽は笑って承知した。


 田朔も笑ったが、訓練を遊びにするつもりはなかった。


 いつか秦嶺を越えて関中へ入れば、段烈や馮岳、賀蘭真らが率いる軍をまとめて動かす戦が来る。その時、田朔自身が総大将として何もできなければ、諸将に天下を取ると宣言した意味がない。


 ◇ ◇ ◇


 午後、郡府へ戻った田朔を待っていたのは陸文昭だった。


 床には漢中と関中の地図が広げられ、その上には味方と敵を示す木札だけでなく、兵糧を積んだ荷車や倉を示す札まで置かれている。


「今度は何をやらせるつもりだ。午前中は趙嶽に散々やられたぞ」


 田朔が地図の前へ座ると、陸文昭は笑いながら木札を渡した。


「趙嶽殿が教えたのは戦場で軍を動かす方法です。私がお教えするのは、その軍を戦場まで連れていく方法です。田様には南鄭に3,000人の兵がいるとして、そのうち2,000人を北へ出していただきます。ただし南鄭を空にすることはできませんし、出した兵には毎日食わせなければなりません。そこまで考えたうえで動かしてください」


 田朔は地図を見ながら兵を分けた。


 当初は前線へできるだけ多く出そうとしたものの、陸文昭は南鄭の守備が薄くなったところへ敵軍の札を置いた。慌てて兵を戻せば、今度は前線の数が足りなくなる。


 さらに橋が壊れて荷車が遅れたことにされ、味方のはずだった豪族からも兵が来ない。ようやく前線へ兵を集めた頃には、予定していた兵糧まで不足していた。


 田朔は何度か配置をやり直した末、陸文昭を睨んだ。


「俺を負かすために、都合の悪いことばかり起こしてないか。敵が来るだけならともかく、橋まで壊れたぞ」


「実際の戦なら、こちらに都合のよいことだけ起きる方が珍しいでしょう。大軍を率いるなら、予定どおり進まなかった時にどうするかまで考えておかなければなりません。戦場へ着いてから兵糧が足りないと気づいても、敵は待ってくれませんから」


「分かった。だったら最初から橋が使えない場合の道も用意するし、兵糧も1か所だけに置かない。南鄭の守備兵も、最後になって慌てて残すんじゃなく、最初から動かさない兵を決めておく」


 田朔は木札をすべて元へ戻し、最初からやり直した。


 今度は敵軍の数だけを見なかった。兵を通す道、その道を荷車が進めるかどうか、途中で食糧を補給できる場所、南鄭へ戻る道まで考えてから兵を配置した。


 陸文昭が新しい問題を出すたびに配置は崩れたが、何度も繰り返すうちに、田朔は戦場だけを見るのをやめていった。


 夕刻近くになって訓練を終えると、田朔は地図の前で大きく伸びをした。


「少し分かってきた。俺が戦場へ行くことと、俺が先頭で敵を斬ることは同じじゃない。田家の命運を決めるような戦なら俺自身が行くが、その時に俺が見るべきなのは目の前の敵だけじゃないんだな」


「それでよいと思います。田様が戦場にいるだけで兵の士気が上がることはあるでしょうし、総大将自身が危険を負うからこそ将が従うこともあります。ただし、その田様が全軍を見失えば意味がありません」


 田朔は長安へ続く道を見ながら、今までの自分とこれからの自分の違いを考えた。


 段烈や馮岳へ戦を任せるのは、自分が戦わなくて済むようにするためではない。小さな戦を任せられる将を増やし、自分はさらに大きな軍を率いる準備をするためである。


「俺はまだ王でも何でもない。だったら、今から覚えればいい。次に大きな戦をやる時には、俺自身が全軍を動かす。そのためなら何度負けても、ここでなら兵は死なないからな」


 陸文昭は笑った。


「では明日も続きをいたしましょう」


「趙嶽も同じことを言うだろうな。天下を取ると言った途端、先生が増えすぎだ」


 文句を言いながらも、田朔は翌日の訓練を断らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、賀蘭真の騎兵に案内され、北から来た前秦の一団が南鄭へ入った。


 武装を解いた者たちを趙嶽が迎え、まず指揮を執っていた男から事情を聞いた。彼らは前秦軍に属していたものの、相次ぐ戦で指揮系統が崩れ、この先どこへ従うべきか分からなくなっていた。北へ戻って別の勢力に吸収されるより、漢中で新しい主を探す道を選んだという。


 郡府で田朔と対面した男は、その若さを見て驚きを隠せなかった。


 田朔はそれを気にせず、前秦で何をしていたのか、どれほどの兵を率いた経験があるのか、どの土地で戦ったことがあるのかを順に聞いた。以前なら兵を連れてきたというだけで喜んだかもしれないが、今は誰の下で何をさせられる人間なのかまで考えている。


 話を聞き終えると、田朔は自分が漢中だけで終わるつもりはなく、いずれ秦嶺を越えて関中へ出るつもりであることを伝えた。


「俺は前秦の皇族でも名門の出でもないから、昔の肩書だけで人を使うつもりはない。ここで働けるなら使うし、働いた奴には次の仕事を任せる。趙嶽も馮岳もそうして兵を預けた。お前も俺についてくるなら、前秦で何者だったかより、これから何ができるかを見せてくれ」


 趙嶽からも、自分が田家へ来てから実際に兵を預けられるようになった経緯を聞き、男は田朔に従うことを決めた。


 連れてきた兵は、そのまま1つの部隊として残さず、田家の兵と混ぜて再編する。武器と兵糧を与える代わりに軍律へ従わせ、指揮を執っていた者についても働きを見たうえで役目を決めることになった。


 田朔は細かな再編を趙嶽と賀蘭真に任せた。


 前秦と後秦の争いが続けば、同じように主を失った兵や将がさらに南へ流れてくる可能性がある。1人来るたびに田朔が直接面倒を見るのではなく、受け入れて調べ、軍へ組み込む仕組みそのものを作る必要があった。


 天下を狙うと決めたことで、田朔の目には、前秦の崩壊さえ田家を大きくする機会として見え始めていた。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、屋敷へ戻った田朔には、華英との勉強が待っていた。


 玉容も同席し、昼間まで行っていた指揮訓練の話を聞くと、華英は戦術について口を挟む代わりに、史書から君主自身が軍を率いた例と、将へ任せた例を取り上げた。


「田様がすべての戦へ出る必要はないと思います。ただ、ご自身で軍を率いなければならない時は必ず来るでしょう。将へ任せられることと、田様ご自身にはできないことでは意味が違います。人に任せるためにも、その仕事がどういうものか知っておく必要があります」


 田朔は昼間の訓練を思い出しながら頷いた。


「それは俺も分かってきた。今まで自分で戦えるから軍も動かせると思っていたが、数百人の先頭に立つのと、何千人もの兵を同時に動かすのは別物だった。だから段烈や馮岳に任せるところは任せるが、俺自身も覚える。田家の命運を賭ける戦まで人任せにするつもりはない」


 玉容は安心したように笑った。


「それなら田様らしいと思います。今まで田様が危険なところへご自分で出てきたから、昔からいる方々もついてきたのでしょう。何でも自分でする必要はありませんけれど、大事な時まで屋敷から命令するだけの方になったら、皆も戸惑うと思います」


「心配するな。ここぞという時には俺が出る。ただ、その時は昔みたいに俺1人で前へ飛び出すんじゃない。段烈も馮岳も賀蘭真もまとめて動かして勝つ。そのために趙嶽から指揮を習い、陸文昭から兵糧や道の使い方を習う。華英からは国を持った後のことまで教わる。考えてみれば、随分贅沢な勉強だな」


「でしたら、無駄になさらないでくださいませ」


 華英が新しい竹簡を出すと、田朔は嫌そうな顔をしながらも受け取った。


 天下を狙うと決めたからといって、翌日から天下人になれるわけではない。


 今の田朔は南鄭を持つ新興勢力の主にすぎず、知らないことの方が多かった。それでも、知らないまま勢力だけを大きくするより、領地を広げながら自分自身も成長すればよい。


 田朔はそう考えるようになっていた。


 ◇ ◇ ◇


 10月末、段烈と馮岳から相次いで報告が届いた。


 段烈が任された城では降兵の再編が進み、周辺から田家へ従いたいという申し出も出始めている。馮岳の城でも大きな混乱はなく、鄭達が守備を確認した後は、馮岳自身が街道を押さえながら兵をまとめていた。


 賀蘭真からは秦嶺方面の道について新しい報告が届き、趙嶽は前秦時代の人脈を使って、ほかにも田家へ来る可能性のある将へ声をかけていた。


 田朔はそれらの報告を持って郡府の大広間へ入り、陸文昭や諸将を集めて天下図を広げさせた。


 月の初めにこの地図を見た時、田朔の目には長安ばかりが大きく映っていた。しかし今は、その長安へ至るまでに何をしなければならないのかが、少しずつ見えるようになっている。


「今月、俺は長安へ戻るだけじゃなく、その先まで行くと決めた。ただ、俺たちはまだ漢中すら全部取ったわけじゃないし、俺自身も大軍を率いたことがない。だから急に王を名乗るつもりもない。まず漢中を固めながら兵と将を増やし、北へ出る道を調べる。前秦と後秦が争っている間は、そこからこぼれてくる人間も土地もできるだけ田家へ取り込む」


 田朔はそこで一度言葉を切り、集まった将たちを見渡した。


「これから小さな戦まで全部俺が指図するつもりはない。段烈も馮岳も、自分の兵を持って自分で勝てる将になってくれ。その代わり、田家の命運を決める戦になれば俺も出る。俺が総大将として全軍を率い、お前たちをまとめて動かす。その日のために、俺も今から戦を学ぶ」


 段烈たちは黙って聞いていた。


 田朔はまだ王ではない。


 皇帝でもない。


 長安すら持っていない。


 だから今は、王を名乗る時ではなく、王になれるだけの土地と兵と力を手に入れる時だった。


 田朔は地図の漢中から長安へ指を進め、その先に広がる土地まで目を向けた。


「長安は途中だ。俺はそこで止まらない。お前たちも、そのつもりでついてきてくれ」


 諸将が応じるのを待ってから、田朔は笑った。


「天下を狙うぞ」


 386年10月が終わった。

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