第3話(前編)――「城は外から攻めるな」
386年9月上旬。
南鄭の郡府へ、夜明け前から1人の商人が訪れていた。
田朔が奥の部屋へ入ると、陸文昭はすでに卓へ地図を広げていた。脇には昨夜届いた書状と何枚もの木札が置かれている。8月から接触を続けていた内応者が、城門を守る兵の交替、兵糧庫と厩の位置、守将の居所まで知らせてきたのである。
別に集めた情報とも大筋で一致していた。
陸文昭が問題にしたのは、書状の真偽ではなく、その先だった。城内では守将と折り合いの悪い将が複数おり、給金の遅れに不満を持つ兵も少なくない。前秦が崩れた後に今の主へ従っただけの者もおり、城内が一枚岩とは言い難かった。
田朔は人間関係をまとめた木札を順に読み、途中で地図へ目を移した。
「これなら、最初に通じてきた男だけに働かせる必要はないな。田家へ早く降れば家族と財産を守り、兵でも腕があれば使うと知らせてやれ。ただし、役目だけは先に約束するな。働きを見てから決める」
陸文昭も同じ考えだった。
昨日まで敵だったという理由だけで有能な者を捨てる必要はないが、寝返っただけで高い地位を与えれば、以前から田家に仕えてきた者との釣り合いが取れない。内応者には働きに応じた褒美を与え、その後に使える者だけを取り立てればよかった。
田朔は改めて城内の名前を眺めた。
以前なら、敵兵が何人いるかを真っ先に数えただろう。今は、その中の何人が最後まで敵として残るのかを見るようになっている。
「1,000人いるなら、1,000人と戦う必要はない。こっちが着くまでに半分にしておけ」
「そのつもりで進めています」
「だったら任せる。俺は兵を出す準備をする」
田朔はそれだけ言って立ち上がった。
◇ ◇ ◇
昼には段烈と賀蘭真が郡府へ呼ばれた。
田家軍はすぐには敵城へ向かわない。段烈には出陣できるところまで兵を整えさせ、賀蘭真の騎兵は少人数に分けて街道へ出す。敵兵が動けばすぐ南鄭へ知らせられるようにしたうえで、本隊は命令があるまで待機することになった。
その一方、南鄭では田家が西へ軍を出すという噂を流す。
軍器工房から攻城具の一部を運び出し、人目につく道を西へ向かわせれば、それだけでも十分だった。田家の動きを探っている者がいれば、勝手に見て、勝手に知らせてくれる。
段烈は一通り話を聞くと、地図の西側を指でなぞった。
「ここまで見せれば、向こうは西へ出ると思うでしょう。実際に軍を動かす時は、別の道を使います」
「任せる。俺が道まで決める必要はない。敵に気づかれず早く着ける道を選べ」
田朔は細かな進軍方法には口を出さなかった。
段烈には段烈の仕事があり、賀蘭真には賀蘭真の仕事がある。将を集めたのは、自分の命令をそのまま実行する人間を増やすためではない。軍を預ければ、自分で考えて勝てる人間を増やすためである。
賀蘭真も地図を見ながら、騎兵を何組かに分けて先に出すことを決めた。敵城へ近づくのではなく、周辺の街道を見張り、城から出る使者や兵の動きを拾う。田家軍が出る時には、先行して段烈へ情報を届ける役目も負う。
「それでいい。俺は南鄭にいる。何か変わったら知らせろ」
軍議は長引かなかった。
必要な役目を決めれば、後はそれぞれに任せればよい。
◇ ◇ ◇
数日後、南鄭では西への出兵が近いという噂が広まっていた。
攻城具を積んだ荷車が実際に西へ向かったため、商人の間でも噂を疑う者は少なかった。
本当の標的となる城には、青蘭につながる商人が普段通り出入りしていた。
南鄭で兵への給金が滞っていないことや、降った兵でも使える者は田家へ迎えられていることは、すでに商人たちの口から城内へ入っている。田家へ通じていた将も、自分の配下や親しい者へ少しずつ話を広げていた。
最初の書状から数日後、別の男が田家への内応を申し出た。
さらに2日後には3人目が現れた。
田朔は郡府へ届いた書状をまとめて読み、陸文昭へ返した。
「増えたな」
「守将が思っていたほど人望を持っていなかったのでしょう」
「なら、まだ増える。急いで軍を出す必要はないな」
田朔は城を取れるかどうかではなく、どこまで崩せるかを見ることにした。
早く降った者の安全は保証する。財産も勝手には奪わない。兵は武器を捨てれば受け入れ、使える者なら田家軍へ入れる。役人についても同じである。
ただし地位は約束しない。
その条件を変えずに流し続けた。
城内では、田家へ通じた者同士が少しずつつながり始めた。守将の命令を受けながら、裏では田家軍が来た後のことを考える者が増えていく。
田朔は兵を1人も失っていなかった。
それでも敵は減っていた。
◇ ◇ ◇
夜、屋敷へ戻ると、田朔の部屋には史書が置かれていた。
玉容が待っていたので、田朔は諦めて席についた。
最近はこれが数日に一度の習慣になっている。
その夜は玉蓮と蘭英も加わり、昔の君主が降将をどう扱ったかという話になった。玉容は史書に書かれた出来事を読み上げるだけでなく、降った者を重用したことで勢力を広げた例と、その一方で古参の家臣に不満を抱かせた例を並べて説明した。
田朔には昼間の話と重なるところが多かった。
「ちょうど今、敵城から寝返る奴が増えている。命と財産は守るが、役目は先に約束しないことにした。使える奴なら取り立てるが、寝返っただけで古参の上には置かない」
玉容は史書を閉じ、満足そうに田朔を見た。
「それなら、今夜は私が教えることが少なくなったわね。陸文昭殿だけでなく、ちゃんと自分でも考えるようになったじゃない」
「毎晩お前たちに囲まれて勉強させられたら、嫌でも覚える。それより、今夜はこれで終わりにしよう。昼も夜も頭を使っていたら身がもたん」
蘭英が笑い、玉蓮もそれ以上は引き留めなかった。
ところが田朔が立ち上がろうとすると、玉容が別の竹簡を差し出した。
「最後にこれだけ」
「まだあるのか」
「短いわよ」
田朔は渋々受け取った。
そこには詩が書かれていた。
読めない文字はない。それでも何を言いたいのか分からず、しばらく眺めた末に田朔は竹簡を置いた。
「駄目だ。さっぱり分からん」
蘭英が笑った。
「田様は、こういうものだけは本当に苦手ですね」
「兵糧が何石あるとか、敵が何人いるとかなら分かるんだ。どうして言いたいことをそのまま書かない」
「それでは詩になりません」
「面倒だな」
女たちが笑った。
田朔も笑いながら竹簡を取り直した。
知らないままでも困らなかった頃とは違う。これから名家や豪族を従え、さらに外へ領土を広げるなら、相手が当然のように知っているものを自分だけ知らない場面も増える。
玉容たちから学べることは、まだ多かった。
◇ ◇ ◇
9月上旬も終わりに近づいた頃、敵城から急報が届いた。
守将が城内の異変に気づき、疑わしい者を捕らえ始めたのである。
田家へ最初に通じた将はまだ無事だったが、時間を置けば誰かが捕まり、そこから他の者まで露見する可能性が高かった。
田朔は報告を読み終えると、すぐに段烈と賀蘭真を呼ばせた。
ここまで崩した以上、待つ理由はない。
「出るぞ。内応している奴らには、俺たちの合図があるまで余計なことをするなと伝えろ。門を開けようとして先に捕まったら意味がない」
陸文昭も同意した。
守将は城内の誰を信用してよいのか分からなくなっている。そこへ予想していなかった方向から田家軍が現れれば、兵をまとめるだけでも手間取る。
段烈には本隊を預け、賀蘭真の騎兵は先行して敵の動きを探る。
田朔自身は南鄭に残る。
今回の戦で確かめたいのは、田朔がいなくても将たちが城を取れるかどうかだった。
軍議が終わりかけたところで、陸文昭が守将について新しく集まった木札を田朔へ渡した。
家族や屋敷の者についても調べが進んでいる。
その中に、守将の妻についての記録があった。
田朔の目が止まった。
漢人の名家に生まれ、家はすでに衰えているものの、祖先は王族につながっていた。幼い頃から経書と史書を学び、詩歌、書、琴にも通じている。
田朔は木札をもう一度読んだ。
「随分と学問のある女だな」
「名家の娘ですから」
「玉容たちに毎晩教わってる俺より、よほど物を知ってそうだ」
田朔は笑って木札を戻した。
それ以上は何も言わなかった。
敵将の屋敷に誰がいるかまで把握しておけば十分である。元王族の女が守将の屋敷にいる。今は、それだけ分かっていればよかった。
元王族の女がその中にいる。
今は、それだけ分かっていればよかった。
翌朝、南鄭の門が開いた。
段烈の軍が静かに城外へ出て、その後を兵糧を積んだ荷車が続いた。賀蘭真の騎兵はすでに別の道から先行している。
敵の間者が見張っていた西への道には向かわない。
軍勢は別の街道へ入り、やがて南鄭から姿を消した。
田朔は城門の上からそれを見送った。
これまでなら自分も馬に乗り、先頭近くにいた。
今回は違う。
段烈に軍を預け、賀蘭真に目と耳を任せ、陸文昭が仕込んだ内応者を城内で動かす。城を取った後に入れる人間まで、すでに準備してある。
田朔がいなくても勝てるなら、次は2つの軍を同時に動かせる。
さらに将が育てば3つにもできる。
田朔は遠ざかる軍旗をしばらく眺めてから、城壁を降りた。
「段烈なら取るだろう。俺たちは取った後の準備をするぞ」
9月上旬が終わった。




