第2話(後編)――「王の学問」
386年8月下旬。
中旬に届いた内応の書状について、陸文昭はすぐには返事を送らなかった。
まず青蘭がつながりを持つ商人を通じて相手の素性を探らせ、別の経路からも同じ城の情報を集めた。数日かけて届いた話を照らし合わせると、書状の主が城内の兵を率いる将の1人である可能性は高く、示された兵糧庫や兵の配置も、田家が別に集めていた情報とおおむね一致していた。
さらに分かったのは、その男が単に田家から褒美を得ようとしているわけではないということだった。
現在仕えている主家では内部の争いが続き、男自身も遠からず兵権を奪われる恐れがある。しかも家族まで巻き込まれる可能性があり、田家へ通じようとした理由の大半は、自分の地位より妻や一族を守ることにあった。
報告を読み終えた田朔は、以前なら真っ先に考えたであろう買収額について一度も口にしなかった。
「家族を守りたいなら、その弱みは使える。ただし、俺たちが家族を人質に取るような真似をしたら、次から誰も信用しなくなる。本人には、こちらへ来るなら妻や一族の安全は保証する、その代わり城内の詳しい様子を知らせろと伝えてくれ。兵を連れて降るなら、その兵も食わせる。ただし、どんな役目を与えるかは俺が本人を見てから決める」
田朔がまとめて方針を示すと、陸文昭はその内容を確かめたうえで、もう1つ条件を加えた。
「では、城門を開けろとはまだ命じません。今ここで大きな働きを求めれば、露見した時点でせっかく作った道が消えます。まずこちらの間者と連絡できる道を確保させ、城内で田家へ降ってもよいと考える者を探させましょう。本人が本当に使える将なら、それだけでも何人かはついてくるはずです」
「それでいい。城1つを急いで取るより、次の城でも使えるやり方を覚えた方が得だ。俺たちも初めてやることだからな」
陸文昭は頷き、その日のうちに返書を用意した。
田家が兵を動かす気配は、まだどこにもなかった。
だが、漢中の外ではすでに1人の将が田家へ傾き、その周囲へ静かに手を伸ばし始めている。南鄭では軍器院が武器を作り、街道では軍用倉の準備が進み、敵地には商人に紛れた者たちが出入りする。
軍を出さずに戦を始めるという陸文昭の策は、ようやく形になり始めていた。
◇ ◇ ◇
その数日後、内応を申し出た将について、新しい報告が届いた。
田朔が興味を持ったのは本人のことだけではなかった。書状の主には妻がおり、その女について商人が妙に詳しい話を持ち帰っていたのである。
漢民族の女で、幼い頃から経書や史書を学び、詩を作り、琴にも通じる。書にも優れ、天文や暦、礼法にも明るいという。かつて王族につながる家に生まれたものの、戦乱の中で家は没落し、その後に現在の夫へ嫁いだらしい。
報告を読み上げていた陸文昭が、途中からわずかに笑っていることに田朔は気づいた。
「何がおかしいんだ。俺は敵将のことを調べろと言ったんだぞ。どうして嫁の学問まで調べてきた」
「俺が調べさせたわけではありません。商人が先方の家について探っているうちに分かったのです。ただ、田様にはちょうどよい話だと思いましてね。最近、屋敷で学問を始められたのでしょう」
「玉容から聞いたのか?」
「聞いておりません。田様が以前より人の話を最後まで聞くようになりましたので、何かあったのだろうと思っていました」
田朔は顔をしかめた。
「それじゃ、前の俺は人の話を聞かなかったみたいじゃないか」
「必要だと思った話は聞いておられました。ただ、必要だと思う範囲が狭かったのです。商い、兵、食糧、人の損得については驚くほど頭が回る一方、それ以外のことになると、役に立つかどうかを先に考えて切り捨ててしまうところがありました」
反論しかけた田朔だったが、思い当たるところがありすぎて黙った。
玉容から昔の王や皇帝について学び始めた時も、最初に考えたのは、それを覚えて戦や統治に何の役に立つのかということだった。詩や音楽に至っては、これまで自分から学ぼうと思ったことすらない。
そんな田朔を見ながら、陸文昭は話を続けた。
「国を治める者が、何もかも自分でできる必要はありません。しかし、自分が理解できないものをすべて無用だと思うようになるのは危険です。田様がこれから会うのは商人と武人だけではありません。学者もいれば名家の者もおり、土地によって習慣も違います。詩1つで人の心が動くこともあれば、礼を知らなかったために味方にできた者を怒らせることもあるでしょう」
そこまでまとめて言われると、田朔にも陸文昭の言いたいことは分かった。
「要するに、俺は知らないものが多すぎるから、何が役に立つのか判断するところまで行ってないってことか。それなら覚えるしかないな。王になるつもりの男が、商売と戦しか知りませんじゃ格好がつかん」
陸文昭は満足そうに頷いたものの、田朔はそこで念を押した。
「ただし、その女は敵将の妻なんだろう。夫を裏切らせて、そのついでに嫁まで俺がもらうような話にするなよ。本人たちがどうなるかも決まってないんだからな」
「当然です。俺もそこまで気の早い話はしておりません」
「お前、さっきから笑ってただろ」
「田様の屋敷には先生が何人いても足りそうにありませんから」
陸文昭が平然と返したので、田朔は木簡を丸めて投げる真似をした。
◇ ◇ ◇
屋敷では、田朔の勉強が続いていた。
玉容が昔の王や国について教え、玉蓮は租税や戸籍、倉の管理を田家の実情と結びつけて説明する。蘭英は文章や礼法を受け持っていたが、田朔が苦手なのは文字を読むことではなく、文章の裏にある意味を考えることだった。
その夜、蘭英が用意したのは昔の詩だった。
田朔は読み終えるなり、戦にも統治にも関係がなさそうだと言いかけたが、玉容に見られていることに気づいて口を閉じた。
「今、何か言おうとしたでしょう」
「いや、何でもない。最後まで聞くことにしたんだよ」
田朔が先回りして答えると、同席していた女たちが笑った。
蘭英は詩を暗記させたいわけではないと断ったうえで、宴席や書状のやり取りでは、直接言えば角が立つことを詩へ託すこともあると説明した。相手がどの詩を引き、どの言葉を選んだのか分からなければ、表面だけ読んで本当の意図を取り違えることさえある。
「田様が自分で立派な詩を作れるようになる必要はないと思います。でも、相手が何を伝えようとしているのかくらいは分かった方がいいでしょう。知らなければ、褒められているのか嫌味を言われているのかも分からないかもしれませんよ」
蘭英が穏やかに言うと、田朔は嫌そうな顔をしながら竹簡を取り直した。
「それは困るな。俺の目の前で悪口を言われて、俺だけ分からないのは腹が立つ。そういうことなら覚える」
「結局そこなのね」
玉蓮が笑った。
それでも、田朔が自分から竹簡へ目を戻したことは大きな変化だった。
少し前までなら、自分に分からない話は詳しい者へ任せればよいと考えていた。しかし陸文昭にも玉容にも、自分が最後に決める立場だからこそ、何を知らないのかくらいは知っておかなければならないと言われている。
蘭英の説明が一段落すると、今度は瑶が琴を持ってきた。
「待て。今日は詩だけじゃなかったのか」
「詩をやったなら、次は音でしょう。田様は宴で琴を聞いても、上手いのか下手なのか分かっていないでしょう?」
瑶はそう言って田朔の返事を待たず、静かに弦を鳴らした。
田朔にも心地よい音かどうかくらいは分かるが、何がどう優れているのかまでは説明できない。瑶は曲を途中まで弾くと、今度はわざと調子を外して同じところを弾いた。
さすがの田朔にも違いは分かった。
「今のは俺でも変だと分かるぞ」
「それで十分です。最初から全部分かる人なんていません。田様は今まで、分からないものを分からないまま放っていただけでしょう」
瑶が笑うと、田朔は思わず玉容を見た。
「お前、こいつら全員と相談したのか?」
玉容は否定しなかった。
「あなたが天下を取りたいと言ったのよ。だったら私たちも、できることをするだけでしょう。玉蓮は商いや家のことを教えられるし、蘭英は文章や礼を知っている。瑶は琴を弾けるし、阿若なら馬のことを教えられる。あなたは正妻1人と側室10人もいるんだから、夜を過ごす相手が11人いるだけだと思ったら大間違いよ」
田朔はしばらく何も言えなかった。
それから声を上げて笑った。
「分かった。俺が悪かった。今までお前たちを甘く見てたらしい。俺1人で知らないことを全部覚えるより、知ってる奴から教わった方が早い。先生が11人いると思えば贅沢な話だな」
「全員が先生になったら、勉強するだけで夜が終わりますよ」
小玉が横から口を挟むと、今度は女たちの方から不満の声が上がった。
学問を始めたからといって、子作り競争をやめるつもりは誰にもないらしい。
玉蓮は、田朔が勉強を理由に女たちの部屋へ行かなくなれば本末転倒だと言い、月華は学問の日と自分たちの番を最初から分けてしまえばよいと言い出した。阿若などは、朝に馬、昼に政務、夜に勉強、その後で側室の部屋へ行けば全部できると簡単に言ってのけた。
「お前が言ってるのは、俺を朝から晩まで働かせる予定じゃないか。天下を取る前に俺が倒れるぞ」
田朔が呆れると、玉容が皆をなだめた。
「無理をさせて身体を壊したら子供どころではないでしょう。勉強も毎日する必要はないし、夜だって田様が疲れている日は休ませます。その代わり、元気な日に逃げるのはなし。それでいいでしょう」
正妻が決めると、側室たちもそれなら構わないと納得した。
田朔には誰も自分の意見を聞いていないような気がしたが、食事から休息、学問に至るまで女たちが本気で自分の身体と将来を考えていることも分かっていた。
「まあいい。俺も子供は多い方が嬉しいからな。ただし順番で喧嘩だけはするなよ。そんなことで屋敷の中まで戦場にされたらたまらん」
田朔がそう言うと、玉容は自分が見ているから心配はいらないと笑った。
その日の勉強はそこで終わった。
夜をともにしたのは瑶だった。
琴を教えていた時には落ち着いていた瑶も、2人きりになれば少し様子が変わった。玉容が子を産んでから自分も欲しいと思うようになったことを素直に話し、田朔も笑って彼女を抱き寄せた。
妻たちから学び、その妻たちとの間に子を残す。
どちらも、今の田朔にとっては田家を大きくしていくことの一部になっていた。
◇ ◇ ◇
8月も終わりに近づいた頃、内応を申し出た将から2度目の書状が届いた。
今度の書状には、前回とは比べものにならないほど詳しい情報が記されていた。城門を守る部隊の交代、兵糧庫の位置、城内の兵数だけでなく、守将と折り合いの悪い者や、田家が攻めてきた場合には無理に戦いたくないと考えている者まで挙げられている。
陸文昭は田家が別に集めた情報と照らし合わせ、かなりの部分が一致していることを確かめた。
「ここまで出してくるなら、少なくとも田家へ近づきたいという意思は本物でしょう。しかも本人だけではありません。配下にも話を通し始めています。今すぐ城門を開かせるより、このまま中で仲間を増やさせた方が使えます」
田朔も同意した。
ただし、そこで兵を出すことはしなかった。
敵がこちらの思惑に気づいて内応者を処刑すれば、ここまで作った道がすべて消える。今は急いで城を1つ取るより、相手に気づかれないまま内部へ根を伸ばした方がよい。
「まだ待つぞ。こいつには自分の身を守らせながら仲間を増やしてもらう。こっちはその間に軍器院と兵糧の準備を進める。城を取った後に入れる役人も決めておけ。門が開いてから誰を置くか考えていたら遅い」
田朔がそこまで一息に命じると、陸文昭は目を細めた。
「上旬に俺が申し上げたことを、随分使いこなすようになられましたね」
「毎日誰かに教えられてるんだ。これで何も変わらなかったら、俺の頭が悪すぎるだろ。それにな、最近ちょっと分かってきた。俺が全部知ってる必要はないが、知らないことを知らないままにしておくのは駄目なんだろう」
陸文昭は何も言わずに笑った。
田朔はその顔が気に入らず、また何か言われる前に話を戻した。
「それより、この将についてはもっと調べておけ。本人だけじゃない。家族もだ。妻はかなり学問があるらしいが、それだけじゃ何も分からん。どんな女で、夫との仲はどうなのか、田家へ降ることを本人も承知しているのか。その辺まで分からなきゃ、家族ごと受け入れる時に揉める」
「承知しました。ただ、田様がそこまで妻君に興味を持たれるとは思いませんでした」
「変な意味じゃないぞ。俺は敵将の嫁を片っ端から側室にするつもりなんかない」
「まだ何も申しておりませんが」
「顔に書いてあるんだよ」
田朔は笑いながら木簡を陸文昭へ返した。
しかし、女について興味を持ったこと自体は否定できなかった。
玉容たちから学び始めたことで、田朔はこれまで自分が知らなかった世界が想像以上に広いことに気づき始めている。詩を作り、琴を奏で、歴史や礼法を知り、天文や暦まで学んできた女がどのような人間なのか、純粋に会って話してみたいと思った。
その女が田家へ来るかどうかは、まだ分からない。
まして田朔の妻になるなど、この時点では誰にも分からないことである。
ただ1つ確かなのは、以前の田朔なら、敵将について調べる時にその妻が何を知っているのかなど気にも留めなかったということだった。
商いから始まった田朔は、兵を持ち、領地を持ち、漢中を治めるところまで来た。
その先へ進むなら、自分自身も変わらなければならない。
8月が終わろうとする南鄭では、将を集める仕事も、軍器を整える仕事も、敵地へ間者を入れる仕事も止まっていなかった。屋敷へ戻れば妻たちとの賑やかな暮らしがあり、学問と子作りまで待っている。
田朔は忙しくなった。
だが、退屈だけはしそうになかった。




