第2話(中編)――「王になるための学問」
386年8月中旬。
上旬に陸文昭へ命じた仕事は、田朔が予想していたより早く形になり始めていた。
南鄭では鍛冶、木工、革細工、弓や弩を作る職人が集められ、田家の軍で使う武器をまとめて作る場所が決まった。陸文昭はそこを軍器院として田家の管理下に置き、戦がない時にも職人へ仕事を与えることにした。
街道沿いでは軍用の倉を置く場所の調査が始まり、どの道なら荷車を通しやすいか、どこまでなら南鄭から無理なく兵糧を運べるかが調べられている。
青蘭が商人たちから集めた情報も、郡府へ届き始めていた。
青蘭自身が敵地へ入るわけではない。南鄭を訪れる商人や旅人と話しながら、彼らが使う街道、各地で不足している品、役人や将の評判などを聞き出し、使えそうな話だけを陸文昭へ渡している。
以前なら「あの城には兵が何人いる」という報告だけで終わっていたところが、その兵たちの給金は遅れていないか、どの将が部下に慕われ、誰と誰の仲が悪いのかというところまで分かり始めた。
田朔が郡府でそうした報告に目を通していると、陸文昭が軍器院から届いた木簡を持ってきた。
「職人たちが、田様に見ていただきたい物を作ったそうです。まったく新しい武器というわけではなく、今ある物へ手を加えたものだと聞いています」
「だったら見に行こう。作った奴が見せたいと言っているのに、ここで木簡だけ読んでいても仕方ない」
田朔は残っていた書類を置き、陸文昭とともに郡府を出た。
◇ ◇ ◇
軍器院へ近づくと、外まで鉄を打つ音が聞こえてきた。
中では鍛冶職人が鉄を打ち、木工職人が弩の部品や木台を削り、別の一角では矢が作られている。田朔が入ったことで手を止めた者もいたが、わざわざ作業を中断して出迎える必要はないと告げると、すぐに仕事へ戻った。
案内された奥の広場には、普通の弩より一回り大きなものが木台に据えられていた。
軍器院をまとめている職人によれば、特別な仕組みを新しく考え出したわけではない。兵が手で持つ弩を大型化し、木台へ固定して、複数人で弦を引けるようにしたものだった。
「まず撃ってみてくれ。それを見た方が早そうだ」
田朔が少し離れると、職人たちは太い矢を載せて弦を引いた。
合図とともに放たれた矢は、離れた場所に置かれた厚い木板へ鋭い音を立てて突き刺さった。田朔が近づいて確かめると、矢は深く食い込んでおり、手で引いただけでは簡単に抜けそうにない。
「城壁を壊すような物じゃないだろうが、上にいる兵へ撃ち込むなら使い道はありそうだな。これなら盾を持っていても嫌だろう」
「俺もそう考えています。ただ、威力だけを見て数を揃えるのはまだ早いでしょう」
陸文昭は大型弩そのものより、木台や弦を引く仕掛けを見ていた。
「どこまで飛ぶのか、何度撃てば壊れるのか、運ぶために何人必要なのか、戦場へ着いてから使える状態にするまでどれほど時間がかかるのか。それを調べなければ、実際に役立つ武器なのか分かりません」
田朔は、危うく何丁作れるのかと尋ねるところだったことに気づいた。
商売をしていた頃なら、よい品を見ればいくらで仕入れ、いくらで売れるかを考えればよかった。しかし軍で使う物は、威力があるだけでは足りない。運ぶために大勢の兵を取られたり、壊れるたびに職人が必要になったりするなら、数を増やしたところで扱いに困る。
「分かった。まず試せ。段烈や賀蘭真にも実物を見せて、使う側の意見を聞いた方がいい。職人だけで扱えても、兵が戦場で使えなければ意味がないからな」
田朔はそこで、説明していた職人へ目を向けた。
「それと、誰がどの改良をしたのか分かるようにしておけ。役に立つ物を作った奴には褒美を出す。俺には武器を作る腕はないんだから、作れる奴を大事にするしかない」
職人は思いがけない言葉だったらしく、一瞬返事が遅れた。それから深く頭を下げ、必ず記録を残すと答えた。
田朔が軍器院を出る頃には、職人たちは次の試射について話し合っていた。
田家の銭を使って職人を集めれば、武器そのものだけではなく、そこへ改良を加える者まで育てられる。
上旬に陸文昭から聞いた話が、少しずつ現実になり始めていた。
◇ ◇ ◇
その日の夜、屋敷へ戻った田朔は、自分の部屋へ入ったところで足を止めた。
机の上には竹簡と木簡が積まれ、その横には筆まで用意されている。玉容だけでなく玉蓮と蘭英まで待っているのを見れば、誰のために用意されたものなのか聞くまでもなかった。
「先に言っておくが、俺は朝から郡府で仕事をして、軍器院まで見てきたんだぞ。帰ってからまで書類を読ませるつもりじゃないだろうな」
「書類ではないわ。あなたの勉強道具よ」
玉容は当然のことのように答えた。
「帳簿を読めて計算ができるのは知っているし、人を見る目がないとも思っていないわ。でも、あなたはもう店を大きくしようとしている商人ではないでしょう。漢中を治めて、その先まで取るつもりなら、知らなければならないことが増えているのよ」
田朔が玉蓮へ目を向けても、助け船は出なかった。
「私も玉容様に賛成よ。田様は損得を考えるのは得意だけれど、領地を治める時には、目の前の利益だけでは決められないこともあるでしょう」
玉蓮は机に置かれた木簡を手に取り、税を例にした。
「ある土地から今年は1,000石取れると報告されたら、田様なら去年はいくらだったか、人口や田畑が増えたのか、それとも税を重くしたのかを調べるでしょう。そこまでは商人としての考え方でも分かる。でも領主なら、その1,000石を取った後で、農民が来年も同じだけ作れるのかまで見なければならないわ」
今年の収入だけを増やそうとして税を取りすぎれば、農民が土地を捨てるかもしれない。店なら客を失うだけだが、領地では耕す者そのものがいなくなる。そうなれば翌年から取れる税まで減ってしまう。
田朔は、その説明なら自分にも分かると思った。
「要するに、今年1,000石取れるから全部取るんじゃなく、来年も再来年も取れるように考えろということだな。商売でも元手まで食ったら次がなくなる。それを領地全体で考えればいいわけか」
「最初はそれでいいと思うわ。ただし、領地では商売よりずっと多くの人間が関わるから、知っておくことも多いの」
玉容は田朔が天下を取るつもりなら、昔の王や皇帝がどうやって国を広げ、何をして国を失ったのかくらいは学んでおいた方がよいと考えていた。名前や年号を片端から暗記させるつもりはないが、昔の人間がすでに犯した失敗を、知らないという理由でもう一度繰り返す必要はない。
玉蓮は戸籍や租税、倉の管理について自分が知っていることを教え、蘭英は文章や礼法を手伝うことになった。
田朔は机に積まれた竹簡を見て、どうやら一晩で終わる話ではないと悟った。
「毎晩これをやらされたら、さすがに郡府から帰ってくるのが嫌になるぞ。仕事を増やすなら、その辺は加減してくれ」
「毎晩やるつもりはないわ。何日かに一度で十分よ。ただし、面倒だからと逃げるようなら回数を増やします」
玉容がそう言うと、玉蓮が面白そうに、逃げた日の罰も決めておいた方がいいと言い出した。
「だったら、その日は子作り競争から外せばいいんじゃない?」
玉容まで賛成したので、田朔は呆れて2人を見た。
「それは俺への罰なのか、お前たちへの罰なのか分からんぞ。だいたい、お前たちが子供を欲しがって始めた話だろう」
「それなら、なおさら逃げずに勉強すればいいのよ」
玉容は平然と竹簡を開いた。
田朔は完全に包囲されたことを悟り、仕方なく椅子へ座り直した。
◇ ◇ ◇
始めてみると、学ぶこと自体は田朔が想像していたほど退屈ではなかった。
玉容も王の名前や年号を並べて覚えさせるような教え方はせず、田朔がこれから実際に直面しそうな問題を昔の出来事と結びつけて話した。
その夜に取り上げたのは、敵だった人間を家臣として使う場合だった。
「あなたなら、敵として戦った男でも、使えると思えば重く用いるでしょう。それ自体は悪いことではないと思うわ。でも、その男を昔からあなたについてきた家臣より上へ置く時は、本人の能力だけを見て決めてはいけないのよ」
田朔は、段烈や趙嶽を思い浮かべた。
能力のある者を取り立てることには迷いがない。敵だったというだけで役に立つ人間を捨てるのは、田朔には無駄としか思えなかった。
しかし新しく入った者ばかりが重く用いられれば、これまで命を懸けてついてきた者が面白く思わないこともある。
「能力がある奴を使うのは間違ってないが、そいつを上げたせいで昔からいる奴らが腐ったら、別のところで損をするわけか。新しく入った奴だけを見て決めるなということだな」
「そういうことよ。人を1人動かせば、その周りの人も動くの。誰かを取り立てれば喜ぶ人もいれば、不満を持つ人もいる。罰する時だって同じでしょう」
田朔は昼間に陸文昭が集めさせている情報を思い出した。
敵将が何人いるかだけでなく、誰と誰の仲が悪いのかまで調べるのも同じ考え方だった。1人の将を寝返らせた時に、その配下まで一緒についてくるのか、逆に周囲が反発するのかまで分からなければ、本当に敵が弱くなるとは限らない。
「陸文昭も似たようなことを考えてたな。あいつは敵を崩すために人間関係を調べて、お前は俺が家臣を使う時に同じことを考えろと言ってるわけだ」
「軍師だけが分かっていても仕方ないでしょう。最後に誰を使い、誰を罰し、どこを攻めるのか決めるのはあなたなんだから」
それには田朔も反論できなかった。
そこへ月華が顔を出した。
「玉容様、そろそろ終わりにしてもらえませんか。今夜は私のところへ来てもらうことになっているんです」
「お前、ずっと外で待ってたのか?」
「まさか。そろそろ終わる頃だと思って来ただけです。それより、田様はちゃんと勉強したんでしょうね?」
「お前まで俺の先生になるな。今日は逃げずに最後まで聞いたぞ」
玉容が今日のところは十分だと言うと、月華は嬉しそうに田朔の腕を取った。
「それなら行きましょう。勉強した後は頭も休ませないといけませんから」
「どう考えても、お前が俺を連れていきたいだけだろ」
「それもあります」
悪びれずに答える月華に引かれながら、田朔も笑った。
妻たちは子供を欲しがっているだけではなかった。玉蓮は商いと家の運営を支え、青蘭は商人から情報を集め、阿若は馬について詳しい。玉容は正妻として女たちをまとめながら、田朔自身にも足りないものを覚えさせようとしている。
田朔の立場が変われば、妻たちが田家の中で果たす役目も変わっていくのである。
◇ ◇ ◇
8月中旬も半ばを過ぎた頃、軍器院で大型弩の試験が行われた。
広場には田朔と陸文昭のほか、実際に軍を率いる段烈や賀蘭真も呼ばれている。前回の試射を受けて職人たちは木台へ手を加えており、以前より動かしやすくなっていた。
田朔は大型弩の前へ立つと、今回は何丁作れるかとは聞かず、まず段烈たちに実戦で使う側から見てもらった。
段烈は威力そのものを認めたものの、野戦で軍と一緒に動かすにはまだ重く、城を攻める時や陣を構えて敵を待つ時の方が使いやすいと判断した。賀蘭真も騎兵とともに動かす武器には向かないが、敵騎兵が突撃してくる場所を限れるなら、あらかじめ置いて待つ使い方は考えられるという。
2人の意見を聞いた田朔は、今度は職人から運搬に必要な人数や弦を引くまでの時間、故障した場合の修理について説明を受けた。
それを見ていた陸文昭が笑った。
「田様も変わりましたね。前回は木板に矢が刺さるのを見るなり、何丁作れるかと聞いておられたのに、今日は使い道から確かめている」
「お前に言われたことくらい覚えてる。威力があっても運ぶだけで兵を大勢取られるなら困るし、1度撃つたびに壊れるような物を100丁作っても銭の無駄だろ」
田朔は職人たちへ、城攻めと陣地での防御の両方を想定して試験を続け、実際の兵にも扱わせるよう命じた。改良についても、将の言う通りに作るだけではなく、職人自身が使いやすくする方法を考えてよいと伝えた。
その話をしているところへ、郡府から使いが駆け込んできた。
「田様、陸殿。青蘭様が紹介した商人の1人が戻りました。敵方の者から預かった書状があり、田家へ内応したいという話だそうです」
上旬に始めたばかりの策が、早くも形になって戻ってきた。
田朔は大型弩の試験を段烈たちへ任せ、陸文昭とともに郡府へ戻った。
◇ ◇ ◇
書状には差出人の名前がなかった。
自分が誰なのかを最初から明かすほど、相手も愚かではないらしい。ただ、書かれている内容は具体的で、田家が近くまで兵を進めた場合には条件次第で城内から協力する、その代わり自分と家族の安全を保証し、現在の地位も失わないようにしてほしいとあった。
陸文昭は書状を何度か読み返してから、本物であれば利用する価値はあるが、田家の軍を誘い出すための罠である可能性も捨てられないと判断した。
田朔も、書状が届いたというだけで兵を動かす気にはならなかった。
「こいつが本当に内応するつもりでも、1人で城を渡せるとは限らない。門を守る兵を動かせるのか、配下が何人いるのか、城の中で誰とつながっているのかを先に調べよう。こいつだけ信用できると分かっても、周りが動かなければ門は開かないからな」
陸文昭は少し意外そうに田朔を見た。
「数日前の田様なら、まず相手がいくら欲しがっているのかを考えたと思いますが、随分変わりましたね」
「家で勉強させられてるんだよ。玉容に、1人だけ見て人を使うなって教えられた。敵の中でも同じだろう」
「玉容様でしたか。それなら、俺から付け加えることはありません」
「お前まで嬉しそうにするな。昼も夜も教師だらけになってきたぞ」
田朔は文句を言いながらも、書状の相手が何を求めているのかを改めて考えた。
欲しいのは銭ではない。
自分と家族の安全、それに現在の地位である。
ならば、こちらも相手が本当にそれだけの価値を持っているのか確かめてから条件を決めればよい。
「返事は出す。ただし、地位まで今すぐ約束する必要はない。まず城内の兵の配置や兵糧庫、それに門を守る者について情報を出させよう。こっちで集めた話と合えば、本当に城内へ通じている人間だと分かる」
「家族の安全についてはいかがしますか?」
「そこは約束していい。俺たちが約束を守らないと思われたら、次に内応しようとする奴まで出てこなくなる。ただ、今の地位をそのまま与えるかは本人を見てからだ。使える奴なら使うし、使えないなら城を渡した褒美は出しても役目までは約束しない」
陸文昭も、その条件なら問題ないと認めた。
さらに、相手が本物だと確認できても、すぐに軍を出すつもりはなかった。せっかく城内へ足掛かりができたのだから、その者を通じてさらに協力者を増やし、門を開ける者、兵を動かせる者、守将に不満を持つ者へとつなげた方がよい。
「結局、1人釣れたから喜ぶんじゃなく、そいつを使って2人、3人と増やすわけか。やっぱりお前は俺より悪党だな」
「田様も同じことを考えておられたでしょう」
「今はな。少し前なら、いくら払えば門を開けるかしか考えなかったかもしれん」
田朔は笑いながら地図へ目を落とした。
まだ軍を出す必要はない。
城の内側では田家へ通じる者を増やし、外では軍器院に武器を作らせ、街道には兵糧を送る仕組みを整える。城を取った後のことまで考えるなら、田朔自身も統治や人の使い方を学んでおかなければならない。
以前の田朔なら、軍を率いて敵の前へ出てから、どう勝つかを考えていた。
これからは違う。
兵が城門の前へ着く頃には、できる限り勝ちやすい状態を作っておけばよいのである。




