第2話(前編)――「銭も兵である」
386年8月上旬。
南鄭の郡府には、仕官を求める者が毎日のように訪れていた。前秦で兵を率いていた者、主人を失った武人、地方豪族の一族、役人を辞めた者など経歴はさまざまで、中には数人から数十人の部下を引き連れ、自分たちをまとめて雇ってほしいと申し出る者もいた。
7月から始めた人集めが軌道に乗ったことで、田朔が志願者全員と会う必要はなくなっている。兵を率いた経験がある者は段烈たちが確かめ、騎兵を扱える者は賀蘭真に回し、役人として使えそうな者は陸文昭が経歴を調べる。その選別を通った者だけを田朔が見る形に変えたのである。
漢中を取るまでの田家は、何をするにも田朔が中心だった。自分で兵を集め、自分で命令を出し、自分で戦場へ出れば済んでいたが、兵が5,000人、1万人と増えて領地まで広がれば、1人で何もかも動かすことなどできない。将を集め始めたのは、そのやり方から抜け出すためでもあった。
その日の朝、田朔が郡府へ入ると、陸文昭が地図を広げて待っていた。漢中だけでなく周辺まで描かれた地図の脇には何枚もの木簡が置かれており、仕官者の選別について話すつもりではないことは、その準備を見ただけでも分かった。
「今日は人集めとは別の相談か?」
田朔が席につくと、陸文昭は頷いた。
「仕官を望む者については段烈殿たちに任せています。それより田様には、これからかなりの銭を使っていただきたいのです。兵を増やすためだけではありません。田様ほどの資金を持ちながら、戦が始まってから兵糧や武器を買うだけでは、銭の使い方としてあまりにも惜しい」
陸文昭は地図の外側へ指を滑らせながら、軍を出す半年も前から戦は始められると話した。
まず必要なのは、周辺の城や勢力について継続して情報を集める仕組みだった。商人や職人、旅人など、土地を行き来しても不自然ではない者を使い、兵数だけでなく城門の開閉、井戸や兵糧庫の場所、馬の数、兵への給金、将同士の関係まで調べる。
「兵が何人いるかだけ分かっても、その全員が主人のために死ぬ気で戦うとは限りません。守将と副将が憎み合っているなら片方へ近づけばよいですし、給金を何か月も受け取っていない兵が多ければ、田家へ降った後の待遇を知らせるだけでも揺れます。借金を抱えた門番がいれば、銭で動くかもしれません」
「なるほどな。自分の兵を増やすためだけじゃなく、敵の兵を減らすためにも銭を使うわけか」
田朔には理解しやすい話だった。
商売をしていた頃から、人によって欲しがる物が違うことは嫌というほど見てきた。銭で動く者もいれば、地位を欲しがる者もいる。今の主人に恨みを持つ者なら、条件さえ整えば銭を積まなくても動くかもしれない。
陸文昭も、誰でも買収できると考えているわけではなかった。相手が何を欲し、何を恐れ、誰を嫌っているのかを先に調べ、それに合わせて手を打つのである。
「敵城に1,000人いても、田家の軍が着く頃には100人が寝返るつもりで、200人が主人に不満を持ち、門番までこちらと通じていれば、最初から1,000人全員を相手にする必要はありません。銭にも地位にも動かされない者は、最初から敵として数えておけばよいのです」
「面白い。やってみろ。城へ着いてから1,000人を相手にするより、着く前に700人へ減らせるなら、その方が兵も死なずに済む」
田朔がすぐに賛成すると、陸文昭はさらに話を進めた。
こちらが敵を調べる以上、敵も田家を探ろうとする。その間者を捕らえて殺すだけではなく、利用できる者なら偽りの情報を持ち帰らせる。田家が東へ向かうという噂を流して敵兵をそちらへ集めさせ、実際には西へ進む。兵糧が不足していると思わせて敵を城外へ誘い出すこともできる。
そこまで聞いた田朔は、思わず笑った。
「俺は敵の人間を銭で買うくらいしか考えてなかったが、お前は敵が何を信じるかまでいじるつもりか。俺よりよほど悪党じゃないか」
「田様の下で働いておりますから、多少は似てきたのでしょう」
「俺のせいにするな」
笑いながら返したものの、田朔は陸文昭を軍師として迎えた意味を改めて感じていた。
自分なら、敵より多くの兵を揃え、十分な兵糧を持たせ、勝てる将に預けるところまでは考える。しかし陸文昭は、軍を出す前から敵の内側へ手を入れ、まともに戦わなければならない人数そのものを減らそうとしている。
銭を持っているだけでは、こういう使い方は思いつかない。
◇ ◇ ◇
昼を過ぎても話は終わらなかった。
敵を弱らせる一方で、田家自身も兵が増える前に仕組みを整えておく必要がある。陸文昭が次に持ち出したのは武器だった。
「今の兵数なら、戦が近づいてから弓や弩、槍、盾を買い集めても何とか間に合います。しかし兵が5,000人、1万人となれば、必要になってから集めるやり方では遅すぎます。南鄭へ鍛冶や木工、革細工、弓や弩を作る者、荷車を作る者まで集め、田家が常に雇っておくべきでしょう」
戦のない時にも職人へ給金を払うことになるが、田朔にはそれを続けられる資金がある。弩や矢も職人ごとに勝手な寸法で作らせるのではなく、できるだけ揃えておけば、壊れた時の修理が容易になり、部隊ごとに違う矢を用意する手間も減る。
さらに陸文昭は、攻城戦で使う雲梯や衝車についても、城へ着いてから周囲の木を切って一から作るやり方を改めたいと考えていた。南鄭で運べるところまで作り、荷車に積んで戦場へ運び、現地で組み立てればよい。
田朔はそこで、陸文昭が新しい武器を1つ作ろうとしているのではないと分かった。
必要な武器を、必要な時に、必要な数だけ用意できる仕組みそのものを作ろうとしているのである。
「戦がなくても職人を食わせるとなれば、かなり銭が出ていくな。だが、戦が始まるたびに腕のいい奴を探し回るよりはましか。俺たちにしかできないなら、なおさらやる価値がある」
「俺もそう考えています。資金の乏しい勢力なら、同じことをしたくても軍を出す前に耐えられなくなるでしょう」
金のかかる策だからこそ、田家の強みになる。
田朔はその考えを気に入った。
ところが、陸文昭がさらに重く見ていたのは武器ではなく兵糧だった。
2,000人なら南鄭から直接運ばせることもできるが、5,000人、1万人の軍が漢中から離れていけば、荷車を往復させるだけでも膨大な手間になる。そこで街道沿いに軍用の倉を設け、南鄭から中継の倉へ送り、そこからさらに前線近くの倉へ運ぶ。新しい城を取れば、そこにも倉を置いて次の遠征の足場にする。
兵糧を扱う者も将とは分ける。将には敵に勝つことを考えさせ、別の者に兵が何日食べられるのかを計算させれば、複数の軍を別々の方向へ動かしても兵糧の管理が混乱しにくい。
田朔は地図を眺めながら、陸文昭の話を頭の中で組み立て直した。
「分かったぞ。将を何人増やしても、全員が南鄭へ戻って兵糧を積まなきゃ動けないなら意味がない。取った土地へ倉を置いていけば、そこから次へ兵を出せる。将を増やすことと、兵糧を運ぶ仕組みを作ることは一緒にやらなきゃ駄目なんだな」
「その通りです。田様が自ら率いる軍とは別に、段烈殿たちへ軍を預けて同時に動かすのであれば、なおさら必要になります」
これまで田朔は、兵を増やすなら兵糧も増やせばよいと単純に考えていた。しかし問題は量だけではなく、それを必要な場所までどう運び続けるかにある。倉と荷車と、それを管理する人間まで揃って初めて、増やした兵を遠くまで連れていけるのである。
話を聞き終えた田朔は、間者を使う仕組み、職人を集める工房、街道沿いの軍用倉について、すべて準備を始めるよう命じた。
陸文昭はそこで初めて費用に触れた。
「最初の準備だけでも数千貫は必要になるでしょう。その後も間者には継続して銭を渡し、職人を常雇いして、倉へ兵糧を蓄えなければなりません。始めれば毎月のように銭が出ていきます」
「それで城を力攻めする回数が減るなら安い。何百人も死なせたら、そいつらに使った銭も、それまで訓練した時間も全部なくなるんだからな。生き残った兵なら次の戦でも使える」
陸文昭は、田朔が費用そのものではなく、そこから得られる結果で判断したことに満足したらしい。
「だからこそ田様へ勧められるのです。普通の勢力なら、兵を養うだけで余裕がなくなります」
「だったら遠慮するな。必要なところには使え。ただし、いくら銭があるからといって無駄遣いまで許す気はない。誰にいくら渡し、何を作り、どこへ運んだのかは残しておけ」
「もちろんです。それが分からなければ、次に同じことをする時の目安にもなりません」
田朔は改めて地図を見た。
これまでは、銭があれば兵を増やせると思っていた。だが、陸文昭のやり方なら、敵の情報を集め、人を寝返らせ、偽りの情報を信じ込ませ、武器を揃え、兵糧を前へ運ぶところまで銭で早めることができる。
兵が戦うのは戦場だが、銭はその前から働かせられる。
「銭も兵のうちだな。こいつなら戦場へ出す前に死ぬこともない」
「盗まれれば失いますので、その辺りは兵より頼りないかもしれません」
「縁起でもないことを言うな」
2人は笑った。
朝から続いた話がようやくまとまった頃には、窓から入る光も弱くなっていた。
それでも陸文昭は残った木簡へ手を伸ばしたが、田朔は今日はここまでにすると言って席を立った。
「珍しいですね。田様なら、続きを聞いてから帰ると思っていました」
「俺だって帰る時は帰る。最近、夜まで郡府にいると女たちに怒られるんだよ。正妻1人に側室10人もいると、戦や政だけやっていればいいというわけにはいかんらしい」
陸文昭はしばらく考えた末、さすがに自分には策を出せないと言った。
「出されても困る。天下を取る策だけ考えてろ」
田朔は笑いながら郡府を出た。
◇ ◇ ◇
屋敷へ戻ると、夕食の席には玉容と側室たちが揃っていた。玉容の産後の身体はすっかり落ち着いており、乳母に抱かれた息子をあやしていたが、田朔がいつもより早く戻ったことに気づくと、満足そうに迎えた。
「今日はまともな時間に帰ってきたのね。最近は暗くなってから帰ってくることが多かったから、また陸文昭殿に捕まっているのかと思っていたわ」
「捕まってたのは間違いない。朝から銭の使い道を延々と聞かされてた」
田朔が席につくと、玉蓮が料理を置きながら昼餉をほとんど残したことを咎めた。郡府へ届けた膳がそのまま戻ってきたので、隠しても無駄である。
「兵を1万人食べさせる方法を考えるのも結構だけど、その前に田様が食べなければ駄目でしょう。仕事に夢中になると食事まで忘れるのは、商いをしていた頃から変わらないんだから」
「陸文昭の話を聞いていたら、いつの間にか昼が過ぎてたんだよ。これからは兵糧を運ぶ倉まで作ることになった」
「それなら、その倉に田様の昼餉も入れておいた方がよさそうね」
玉蓮の言葉に女たちが笑い、田朔も言い返すのを諦めて箸を取った。
食事が進むうち、月華が今夜は誰の部屋へ行くつもりなのかと尋ねた。食事中に持ち出す話ではないと田朔が呆れると、月華だけでなく小玉や麗華まで顔を見合わせ、玉蓮が事情を明かした。
「もう気づいているでしょう。玉容様が若様を産んでから、みんな自分も田様の子が欲しいと思っているのよ。嫡男が誰かで争うつもりはないけれど、自分の子を抱きたいという気持ちは別だから」
青蘭も杯へ酒を注ぎながら頷き、小玉は少し恥ずかしそうにしながらも自分も欲しいとはっきり口にした。
田朔が自分の都合は考えてくれないのかとぼやくと、蘭英は笑いながら、無理をさせるつもりはないから食事や休息にまで気を配っているのだと答えた。月華は自分が食事を考えると言い、阿若は食わせてばかりでは身体が鈍るから馬に乗せた方がいいと言い出す。
「毎朝お前につき合って馬に乗っていたら、それだけで疲れるだろ」
「その程度で疲れていて、どうやって天下を取るつもりだ」
「天下を取る話と子作りを同じところへ持ってくるな」
また笑いが起きた。
田朔は助けを求めて玉容を見たが、正妻は味方をするどころか、皆が田家の子を産みたいと思っているのだから止める理由はないと言った。
「お前はもう産んだから余裕があるんだろ」
「そうでもないわよ。私だって、この子に弟か妹がいてもいいと思っているもの。1人産んだから私は終わり、というつもりはないわ」
これには側室たちも驚いた。
田朔だけでなく、玉容まで競争へ加わることになったからである。
「正妻まで一緒になったら、俺の休む日はどうなるんだ」
「嫌なら断ればいいでしょう」
玉蓮が笑いながら言った。
「断ったら、お前たちはどうするんだ?」
「みんな悲しむでしょうね」
「それを聞いて断れると思ってるのか」
「断れないと思っているから、こうして相談しているのよ」
どうやら最初から逃げ道はなかったらしい。
女たちは田朔を毎晩引っ張り回して仕事へ差し支えるのは困る、疲れている日は休ませるべきだと話し合いながら、その一方で自分のところへ来てほしいという主張だけは誰も引っ込めなかった。
正妻と10人の側室が自分の夜について真面目に相談している光景を眺めているうちに、田朔は口を挟むのを諦めた。
「昼は陸文昭に銭の使い道を決められて、夜はお前たちに俺の使い道を決められるのか。漢中を取ったら、前より自由がなくなった気がするぞ」
「それだけ必要とされているんだから、喜んでおけばいいのよ」
玉蓮にそう返されると、田朔も笑うしかなかった。
その夜は小玉の部屋へ行った。
夕食の席では皆と一緒になって話していた小玉も、2人きりになるとさすがに照れたらしく、先ほどまでの勢いはなくなっていた。
「みんなの前なら言えたんですけど、こうして田様と2人になると、やっぱり恥ずかしいです。でも、無理をして競っているわけではないんです。玉容様が若様を抱いているのを見るたびに、私も田様との子を抱けたらと思うようになりました」
その言葉を聞いて、田朔は夕食の席で笑いながら競っていた女たちも、根にある気持ちは同じなのだろうと思った。
玉容の産んだ子が嫡男であることは、皆が受け入れている。それを奪い合うためではなく、自分も田朔との子を持ちたいから競争のようになっているだけだった。
「それなら俺も頑張る。ただ、昼の仕事ができなくなるほど無茶をするのは勘弁してくれよ。その辺はお前からも皆に言っておいてくれ」
「それは田様が自分で言ってください。田様の身体なんですから」
「俺が言ったら、さっきみたいに丸め込まれるだろ」
小玉は楽しそうに笑った。
田朔もつられて笑い、その夜は小玉の部屋で過ごした。
漢中を取る前なら、兵を集めて戦に勝ち、銭を増やすことだけを考えていればよかった。しかし領地が広がり、将が増え、家族まで増えれば、考えなければならないことも増えていく。
それでも田朔は、今さら以前の暮らしへ戻りたいとは思わなかった。




