第1話(後編)「将を使う者」
386年7月下旬。
漢中北西の街道へ出していた田家の使者が襲われたという知らせが南鄭へ届いた。
田朔が漢中を押さえた後も、周辺には従っていない豪族が残っている。その1つが近隣の村から兵を集め、田家の使者と護衛を殺して荷を奪った。
「相手は何人だ」
田朔が尋ねた。
「300人ほどです。砦を持っており、さらに周辺から人を集めています」
段烈が地図を見た。
「俺が行きます。500人いれば十分でしょう」
「お前は行かなくていい」
「では趙嶽ですか?」
「馮岳を呼べ」
段烈が田朔を見た。
「もう使うのですか」
「使うために300人預けたんだろ」
陸文昭が笑った。
「随分早い試験になりましたね」
「ちょうどいい」
しばらくして馮岳が郡府へ入ってきた。
田朔は地図の一点を指した。
「ここに俺の使者を殺した奴がいる。兵は300ほどだ」
「はい」
「500人預ける」
馮岳の表情が変わった。
「500人を、私にですか」
「ああ」
「田様は?」
「行かない」
馮岳はしばらく田朔を見た。
「私だけにお任せになるのですか」
「そうだ。俺が一緒に行って、横から全部命令したら、お前を雇った意味がないだろ」
「私はまだ田様の下で功を立てておりません」
「だから立ててこい」
田朔は地図を指で叩いた。
「500人やる。砦を取ってこい。降る奴まで殺す必要はないが、俺の使者を殺すよう命じた奴は生かして連れてこい」
「承知しました」
「勝ったら次はもっと兵をやる」
馮岳は深く頭を下げた。
「必ず勝って戻ります」
翌朝、馮岳は500人を率いて南鄭を出た。
田朔は城門まで見送りに出たが、軍には加わらなかった。
遠ざかっていく兵の列を見ていると、どうにも落ち着かない。
「本当に行かなくていいのか?」
田朔が尋ねると、段烈が笑った。
「昨日ご自分で決めたでしょう」
「決めたけどな」
「馮岳に任せるのでは?」
「そうだ」
「なら待ってください。後から追いかけたら、いつもと同じです」
「自分で行く方が楽だな」
「これから将を何人も使うつもりなら、慣れてもらわないと困ります」
田朔はもう一度遠ざかる兵を見てから、南鄭へ戻った。
◇ ◇ ◇
その夜、屋敷へ戻っても田朔は落ち着かなかった。
「今頃どこまで行ったかな」
湯殿で田朔が言うと、背後から玉蓮に肩を押された。
「またその話?」
「気になるだろ」
「郡府でもずっと言っていたのでしょう?」
「どうして知ってる」
「陸文昭殿から聞いたわ」
「余計なことを言う奴だな」
「肩の力を抜いて」
玉蓮は湯の中で田朔の肩を揉んだ。
月華から始まった田朔の身体をいたわる競争は、いつの間にか側室全員へ広がっていた。
青蘭は香りのよい草を湯へ入れ、小玉は湯上がりの衣を用意する。蘇瑶は冷やした飲み物を作らせ、麗華は蘭英から身体を揉む方法を習い始めている。
蘭英は本当に鍼まで持ち出した。
最初に細い鍼を見た時、田朔はさすがに嫌な顔をした。
「本当に痛くないんだろうな」
「じっとしていてください」
「答えになってないぞ」
「動く方が危ないです」
結局、肩と腰へ鍼を打たれたが、終わってみると身体は軽くなっていた。
「どうです?」
「悔しいが楽だ」
「それなら明日も」
「毎日はいい」
阿若は按摩より身体を動かす方を好み、朝になると田朔を馬へ乗せた。春華と淑蘭は夜食や酒の量を気にし、小玉は疲れていると見ると黙って足を揉んだ。
誰かが田朔に喜ばれたと聞けば、ほかの女も別のことを考える。
料理、湯、按摩、鍼、馬、酒、衣。
田朔を元気にするという名目で、側室たちは競うように世話を焼いた。
「俺は病人じゃないぞ」
田朔が言うと、玉蓮が笑った。
「分かってるわ。元気でいてもらわないと困るからしているのよ」
「10人分か?」
「そうよ」
「それを言われると重いな」
「自分で10人迎えたのでしょう」
湯から上がると、今度は青蘭が待っていた。
「今夜は私よ」
「誰が決めた」
「昨日は麗華だったでしょう。その前は小玉。私、待っているのよ」
「お前たち、本当に数えてるのか」
「もちろん」
田朔は笑った。
誰か1人だけを特別扱いするつもりはなかった。
玉容は正妻であり、嫡男の母である。家の中での立場は揺るがないが、それと夜に誰を抱くかは別だった。
田朔は側室たちの部屋へなるべく偏りなく通った。
女たちもそれを分かっているから、誰かの夜を奪うより、自分の番を田朔が楽しみにするよう工夫する方へ熱心になっていた。
その夜は青蘭の部屋で過ごした。
翌朝、田朔が部屋を出ると、青蘭は満足そうな顔で見送った。
廊下の先では月華が待っていた。
「今夜は?」
「朝から聞くな」
「では明日の夜でもいいです」
「予約するな」
月華が笑い、田朔も笑った。
◇ ◇ ◇
玉容の身体も順調に戻っていた。
7月末になると、医者からも産後の経過に問題はないと言われた。
田朔が部屋へ行くと、玉容は息子を乳母へ預けたところだった。
「今日はどうした?」
「あなたと話があるの」
「何だ」
「私だけ、いつまで仲間外れなの?」
田朔は意味が分からず玉容を見た。
「何の話だ」
「夜の話よ」
「まだ身体を休めた方がいいだろ」
「もう大丈夫だと言われたわ」
「本当に?」
「あなた、私には随分慎重なのね」
「子を産んだばかりだからだろ」
「それは嬉しいけれど、玉蓮たちばかり可愛がられるのも面白くないわ」
玉容はそう言って田朔を見た。
「正妻だからといって、黙って待っているつもりはないわよ」
「お前まで競うのか?」
「当然でしょう」
「お前は嫡男を産んだんだぞ」
「だから何?」
「もう勝ってるようなものじゃないか」
「何に勝ったのよ」
田朔は答えられなかった。
玉容は笑った。
「あなたが本当に王になるなら、今のまま全部が続くとは限らないでしょう。私は正妻だから安心しているつもりはないわ」
「王になった後のことまで考えてるのか」
「あなたが毎日考えているからでしょう?」
田朔は笑った。
「分かった。無理はするなよ」
「それは私が決めるわ」
その夜、田朔は久しぶりに玉容の部屋へ泊まった。
玉容が出産して以来、2人きりで夜を過ごすのは初めてだった。
田朔は玉容の身体を気遣ったが、玉容の方がいつまでも遠慮するなと笑った。
翌朝、田朔が目を覚ますと、玉容は隣で眠っていた。
しばらくして目を開けた玉容が、田朔を見た。
「何を見てるの?」
「いや」
「変な人ね」
「満足したか?」
「そんなことを女に聞くものじゃないわ」
「聞かなきゃ分からんだろ」
玉容は田朔の胸を軽く叩いた。
「また来なさい」
「結局お前もそれか」
「正妻は遠慮しなくていいのよ」
田朔は声を上げて笑った。
◇ ◇ ◇
馮岳が出陣して2日目になった。
郡府へ入った田朔は、朝から何度も外を見た。
「まだ来ないのか」
「何がです?」
陸文昭が尋ねた。
「馮岳からの知らせだ」
「出てから2日ですよ」
「俺が行った方が早かったんじゃないか」
段烈が横から笑った。
「それでは将を集めた意味がありません」
「お前まで陸文昭と同じことを言うな」
「同じことを何度も言わせているのは田様です」
田朔は椅子へ座り直した。
「自分で行けば、今どうなってるか分かるからな」
陸文昭は地図を広げた。
「田様が1万の兵を持つようになれば、同じ日に何か所でも戦が起きます。そのすべてへ行くことはできません」
「分かってる」
「だから今、最初の1人を使っているのでしょう」
「分かってるって言ってるだろ」
田朔がそう答えたところへ、外から足音が近づいた。
伝令が広間へ入ってくる。
「田様、馮岳殿からの報告です!」
田朔は立ち上がった。
「どうなった?」
「勝ちました。敵の砦は落ち、首謀者も捕らえております」
「こっちの損害は?」
「死者11人、負傷27人です。敵兵の多くは逃亡または降伏しました」
「馮岳は?」
「無事です」
田朔は地図へ目を落とした。
自分は南鄭から一歩も出ていない。
それでも田家に逆らった豪族の砦が1つ落ちた。
「どうやって取った?」
「馮岳殿は100人を正面へ出し、敵が追ってくると退かせました。左右に伏せていた兵で挟み、南だけ逃げ道を残したそうです。敵が崩れると深追いせず、そのまま砦を取りました」
田朔は少し笑った。
「自分が昔やられた手を使ったのか」
「そのようです」
「面白い奴だな」
田朔は伝令へ命じた。
「馮岳に伝えろ。砦に100人残して戻ってこい。降った兵の中で田家に仕えたい奴がいれば連れてきていい」
「はい!」
伝令が出ていくと、段烈が田朔を見た。
「田様が行かなくても勝ったでしょう」
「ああ」
「これからは、それを増やせばいいのです」
陸文昭が続けた。
「馮岳が1か所、段烈殿が1か所、趙嶽殿が1か所、賀蘭真殿が騎兵を率いて別の場所へ出る。将が増えれば、田様は南鄭にいながら何本もの軍を動かせます」
田朔は地図を見た。
これまで自分が戦へ出れば、その間はほかの場所へ行けなかった。
だが、馮岳は田朔が南鄭にいる間に勝った。
将が10人いれば、10か所へ兵を出せる。
「これだな」
「何がです?」
「俺が欲しかったものだ」
田朔は笑った。
◇ ◇ ◇
数日後、馮岳が南鄭へ戻った。
出陣した兵だけでなく、降伏した者の中から田家への仕官を望んだ男たちも連れている。
郡府へ報告に来た馮岳へ、田朔は最初に尋ねた。
「500人はどうだった?」
「十分な兵でした」
「じゃあ次は700人だ」
馮岳が目を見開いた。
「増やしていただけるのですか」
「勝っただろ」
「はい」
「勝った奴に何もやらなかったら、次に誰も本気で働かなくなる。今度は700人預ける」
「ありがとうございます」
「また勝ったら1,000人だ」
「1,000人……」
「嫌か?」
「まさか」
馮岳は笑った。
「必ず1,000人を預けていただきます」
「そのくらい言え」
馮岳が敗軍の将だったことは、もう問題ではなかった。
田家へ来て兵を預かり、勝って戻った。
田朔にとって必要なのは、それだけだった。
その話は南鄭の外へも広がった。
前秦で敗れた将でも兵を預けてもらえる。家柄がなくても構わない。勝てばさらに兵が増える。
昔の主人が誰だったかより、田家へ来て何ができるかで扱いが決まる。
乱世で主を失った武将や、今の主人の下では上へ行けない男たちにとって、田朔のやり方は分かりやすかった。
8月上旬になると、南鄭の郡府前には仕官を求める者が集まるようになった。
古びた鎧を着た男もいれば、馬を連れてきた者もいる。数人の部下を連れてきた者までいた。
田朔が郡府へ入ると、陸文昭が木簡の束を抱えて待っていた。
「また増えました」
「何人だ?」
「将として兵を預かりたいという者だけで23人です。そのほかにも城を守った経験がある者、兵糧を扱える者、役人だった者が来ています」
「23人か」
「どうします?」
「全部会う」
「全員ですか?」
「使える奴が1人でも混じってるなら、会わない方が損だろ」
陸文昭は笑った。
「本当に天下から集めるつもりですね」
「最初にそう言っただろ」
田朔は木簡を1つ取った。
「1人目を入れろ」
「承知しました」
その日の夕方、田朔が屋敷へ戻ると、今度は阿若が待っていた。
「今夜は私だ」
「いきなり何だ」
「馮岳が勝った祝いだ。酒も用意した」
「勝ったのは馮岳だぞ」
「主人が将を使って勝たせたのだろう?」
阿若は田朔の腕を取った。
「それに昨日は玉蓮だった。今日は私でいい」
「お前たち、本当に全部覚えてるな」
「忘れるわけがない」
奥へ入ると、玉容たちもすでに食事を始めるところだった。
馮岳の勝利を聞いたらしく、月華が田朔を見るなり尋ねた。
「田様は戦へ行かなかったのに、本当に砦を取ったんですか?」
「ああ」
「では、これから田様は家にいることが増えるのですか?」
「何で嬉しそうなんだ」
「だって、家にいれば夜も帰ってくるでしょう?」
女たちが笑った。
玉容も笑いながら息子を乳母へ預けた。
「それは私も賛成ね。将をたくさん集めなさい」
「お前までそう言うのか」
「あなたが毎回戦へ行くよりいいもの」
「俺が家にいると、お前たちに休ませてもらえない気がするぞ」
「漢中を取った男が何を弱気なことを言っているのよ」
玉蓮が酒を注いだ。
「昼は将を使って領土を増やして、夜は私たちの相手をすればいいでしょう」
「簡単に言うな」
「王になるのでしょう?」
春華が笑った。
「それくらいできないと困るわ」
「王になったらもっと忙しくなるぞ」
「それなら今から慣れておけばいいのよ」
田朔は杯を受け取り、女たちを見回した。
正妻が1人、側室が10人、その向こうには自分の息子がいる。
外では新しい将が次々と南鄭へ集まり始めていた。
漢中を取るまでは、自分が先頭に立って勝てばよかった。しかし、ここから先は違う。自分の代わりに戦う将を集め、その将へ兵を預け、勝った者にはさらに多くの兵を与える。そうして軍を何本にも増やせば、田朔自身が1か所にいても田家の領土は広げられる。
田朔は阿若が差し出した酒を飲んだ。
「明日は23人か」
「何が?」
玉容が尋ねた。
「将になりたい奴が23人来てる」
「全部会うの?」
「ああ」
「また増えるのね」
「使える奴ならな」
玉容は少し考えた後、笑った。
「将も増えて、女も増えて、そのうち南鄭の屋敷では足りなくなるんじゃない?」
「女は今のところ増やす予定はないぞ」
「今のところ、ね」
玉容が言うと、女たちから笑い声が上がった。
田朔も笑った。
漢中を取って終わりではない。
2,000人の兵も、集まり始めた将たちも、田家にできた嫡男も、正妻と10人の側室が暮らすこの家も、田朔にとってはここから先へ進むための力になっていた。
次に狙うのは、漢中の外である。




