第1話(前編)――「天下の将を集めろ」
386年7月上旬。
田朔が漢中をほぼ手中に収めてから、1か月余りが過ぎていた。
南鄭には田家の兵が駐屯し、褒中にも守備兵が置かれている。漢中各地から税や戸籍の報告が郡府へ集まり、田家が抱える常備兵は約2,000人に達していた。
だが、田朔が朝から見ていたのは銭の帳面ではなかった。
郡府の広間に漢中と周辺の地図を広げ、陸文昭、段烈、趙嶽、賀蘭真を集めていた。
「漢中の中はどうだ」
田朔が尋ねると、段烈が答えた。
「大きな反乱はありません。南鄭と褒中を押さえていますから、今の2,000人で漢中を守るだけなら十分です」
「守るだけなら、だろ」
「はい」
田朔は地図へ目を落とした。
漢中を取るところまでは自分で兵を率いてきた。敵がいれば自分で出向き、段烈や趙嶽とともに戦えばよかった。
だが、この先も同じやり方では進めない。
「5,000人に増やしたらどうする」
田朔が尋ねた。
段烈は少し考えた。
「俺1人では無理です」
「1万なら?」
「もっと無理です」
田朔は笑った。
「はっきり言うな」
「兵は集められます。しかし1万の兵を1か所に固めておくわけではありません。南鄭、褒中、その先で取った城にも置くことになります。田様が全部の戦へ出ることもできません」
陸文昭が地図の北側を指した。
「必要なのは兵だけではありません。将です」
「将か」
「1,000人、2,000人を預ければ、自分で考えて動かせる男です。田様が命令を1つ出せば、後は城を取り、敵を破り、土地を押さえて戻ってくる。そういう男が何人も必要になります」
田朔は段烈を見た。
「お前みたいな奴を増やせということか」
「俺と同じでなくても構いません」
段烈が答えた。
「野戦が得意な者、城攻めが得意な者、守城が得意な者、騎兵を扱える者。それぞれ使い道があります」
賀蘭真も頷いた。
「騎兵だけでも、俺1人では足りなくなる。馬が増えれば部隊を分ける必要がある」
田朔は地図から顔を上げた。
「どこにいる?」
「何がです?」
「その将だ。使える奴が必要なのは分かった。どこへ行けば手に入る」
陸文昭が笑った。
「乱世ですから、いくらでもいますよ」
「本当か?」
「主を失った将、戦に負けて逃げた将、今の主人に使われていない者、家柄がないため兵を預けてもらえない者、山に入って賊になっている者までいます」
「賊も入れるのか」
趙嶽が尋ねた。
「使えるなら構わん」
田朔はすぐに答えた。
「俺のところへ来てから盗みをやめればいい」
「昔の敵でもですか」
「それも構わん。俺と戦ったことがあるから使わないなんて言ってたら、人が減るだけだろ」
段烈が笑った。
「田様らしいですね」
「ただし、俺の兵を預けた後で裏切ったら殺す」
「それも田様らしい」
田朔は陸文昭へ向き直った。
「家柄はいらん。どこの出でもいい。戦に負けた奴でも、賊でも、異民族でも構わん。兵を預けて勝てる奴を探せ」
「文官はどうします?」
「いる。城を取った後に治める奴も必要だ。兵糧を運べる奴もいるし、敵を騙せる奴も欲しい」
「随分欲張りますね」
「漢中の外へ出るんだ。足りないより余った方がいい」
田朔は趙嶽を見た。
「お前は前秦の軍にいた奴を探せ。昔の知り合いでも何でもいい」
「分かりました」
「賀蘭真は騎兵を使える奴だ。馬に乗れるだけじゃ駄目だぞ。何十騎、何百騎をまとめられる奴を探せ」
「ああ」
「段烈は今いる兵を組み直せ。新しい将が来た時に、すぐ100人でも300人でも預けられるようにしておいてくれ」
「承知しました」
最後に陸文昭を見ると、軍師はすでに何人か心当たりがあるらしく、口元に笑みを浮かべていた。
「俺は広く探せばいいのですね」
「そうだ。天下の使える男を探せ。俺はそいつらを使って、漢中の外へ出る」
田朔がそう言うと、4人はそれぞれ動き始めた。
◇ ◇ ◇
郡府での話を終えて屋敷へ戻ると、田朔は真っ先に崔玉容の部屋へ向かった。
玉容は6月に男児を産んだばかりである。
産後の身体はまだ完全には戻っていなかったが、顔色はかなり良くなっていた。寝台のそばには乳母がおり、田朔の息子が眠っている。
「起きてるか?」
「今、寝たところよ」
玉容は小声で答えた。
田朔は息子の顔を覗き込んだ。
「毎日見てるのに、まだ小さいな」
「1か月も経っていないもの。急に大きくなったら怖いわよ」
「早く歩かないかな」
「気が早すぎるわ」
玉容は呆れたように笑った。
田朔にとって初めての子であり、田家にとっては嫡子である。生まれた時には家臣だけでなく兵にも酒と肉を出し、南鄭の屋敷は数日間祝いが続いた。
だが田朔自身にとっては、跡継ぎという言葉だけでは片づけられなかった。
眠っている息子の手へ指を近づけると、小さな手が指先を握った。
「力があるぞ」
「赤子はみんな握るのよ」
「こいつは強い」
「はいはい」
玉容が笑った。
田朔はしばらく息子を見た後、玉容の隣へ座った。
「身体はどうだ?」
「だいぶ楽になったわ。まだ前と同じには動けないけれど」
「無理するなよ」
「分かってるわ」
玉容は田朔の顔を見た。
「それより、また何か始めるのでしょう?」
「どうして分かった」
「朝から段烈たちを集めていたもの。あなたが何もしないわけがないでしょう」
「将を集めることにした」
「将?」
「俺の代わりに兵を率いて勝てる奴だ。漢中の外へ出るなら何人もいる」
玉容は息子へ目を向けた。
「この子が生まれたばかりなのに、もう次の戦を考えているのね」
「すぐ俺が戦に行くとは言ってないぞ」
「それなら少しは安心できるわ」
「俺が行かなくても勝てるようにするために将を集めるんだ」
「本当にできるの?」
「できる奴を探す」
玉容は少し笑った。
「あなた、商人だった頃から変わらないわね。自分でできないことがあれば、できる人間を買ってくるのだから」
「将は買うとは言わんだろ」
「給金を払うのでしょう?」
「払う」
「同じじゃない」
田朔も笑った。
◇ ◇ ◇
その日の夕食には、玉容のほか、田朔の女たちも顔を揃えた。
許玉蓮、蘇青蘭、何小玉、李麗華、拓跋阿若、蘇瑶、杜蘭英、杜月華、周春華、韓淑蘭である。
これまで事情の違いから扱いに差があった女たちも、田朔はこの機会にすべて正式な側室として迎えていた。
正妻は玉容である。
その下に10人の側室がいる。
玉容が嫡男を産み、田家が漢中を支配する家となった以上、奥の立場も曖昧なままにはしておけなかった。
「本当に私たち全員を側室にするとは思わなかったわ」
春華が酒を注ぎながら言った。
「嫌なのか?」
「まさか。嬉しいから言っているのよ」
淑蘭も頷いた。
「これで人に聞かれても、田様の女だとはっきり言えます」
「今までだって俺の女だっただろ」
「田様がそう思っているのと、家の中で立場が決まるのは違います」
玉蓮が横から口を挟んだ。
「そこは女にしか分からないわよ」
「そういうものか」
「そういうものよ」
玉容は上座から女たちを見回した。
「側室になったからといって、好き勝手をしていいわけではないわよ。田家の奥は私が預かります」
「分かっています」
阿若が答えた。
「私は最初から玉容様を正妻として立てると言っています」
「私も異存はありません」
蘭英も続いた。
ほかの女たちも頷いた。
田朔は酒を飲みながら、その様子を眺めていた。
「随分まとまってるな」
「あなたが余計なことをしなければね」
玉容が言った。
「俺が何をするんだ」
「女を増やすとか」
広間のあちこちから笑い声が上がった。
「もう増やさないとは言わんぞ」
「そこは否定しないのね」
「嘘を言っても仕方ないだろ」
玉容は呆れた顔をしたが、本気で怒ってはいなかった。
月華が田朔の杯へ酒を注いだ。
「それなら、今いる私たちのことも忘れないでくださいね」
「忘れるわけないだろ」
「玉容様には若様が生まれました。私も田様の子が欲しいです」
月華がそう言うと、小玉がすぐに頷いた。
「私も欲しい」
「私だって欲しいわよ」
青蘭も笑った。
「ちょっと待て」
田朔は女たちを見回した。
「全員一度に言うな」
玉蓮が楽しそうに笑った。
「玉容様が男の子を産んだでしょう。次は自分も、と思うのは当然よ」
「10人いるんだぞ」
「田様なら頑張ればいいじゃない」
麗華が平然と言った。
「他人事だと思ってるだろ」
「私もその10人の中に入っています」
田朔が言葉に詰まると、女たちの笑い声がまた広がった。
玉容まで笑っている。
「俺は昼は将を集めて、夜はお前たちの相手か」
「忙しくて結構じゃない」
玉容が答えた。
「漢中の主なのでしょう?」
「主も楽じゃないな」
そう言いながらも、田朔は嫌ではなかった。
漢中を取るために戦い続けていた頃には、屋敷へ戻っても翌日の兵や兵糧を考えていた。今も戦は終わっていないが、家へ戻れば妻と側室たちがおり、隣の部屋には息子が眠っている。
その夜、田朔は玉蓮の部屋で過ごした。
玉容はまだ身体を休める必要がある。だからといって、ほかの女たちまで遠ざける理由はなかった。
翌朝、玉蓮の部屋から出てきた田朔を青蘭が見つけた。
「昨夜は玉蓮だったのね」
「そうだ」
「今夜は?」
「もう決めるのか?」
「早い者勝ちでしょう」
「勝手に決めるな」
青蘭は笑いながら去っていった。
田朔はその背中を見送り、自分の家が随分賑やかになったと思った。
昼になれば、陸文昭から最初の知らせが届いた。
将になりそうな男が、すでに3人見つかったという。




