第10話(後編)――「王になる道」
翌朝、田朔は約束どおり蘭英の部屋で目を覚ました。昼の投壺で勝った蘭英が、その夜の田朔を独占したのである。
寝台を出て衣を着ていると、戸の外から月華の声がした。
「田様、起きておられますか」
「朝から何をしているの」
蘭英が呆れている間に戸が開き、月華が顔を出した。
「お母様だけずるいと思いまして」
「賭けに負けたのはあなたでしょう」
「昨日の話です。今日は今日です」
田朔は笑った。
「お前たち、本当に張り合うようになったな」
月華は部屋へ入るなり田朔の腕を取った。
「だって田様が、お母様を気に入りすぎるのですもの」
「月華も気に入ってるぞ」
「どちらが一番です?」
答えずにいると、蘭英まで田朔を見る。
「田様?」
「なんで俺が朝からそんな危ない質問に答えなきゃならないんだ」
母娘は顔を見合わせ、先に月華が笑うと蘭英もつられて笑った。田朔は2人をまとめて抱き寄せる。
「2人とも気に入ってる。それじゃ駄目なのか」
「今はそれで我慢します」
月華が答えると、蘭英も田朔へ身体を寄せた。
「私は月華ほど欲張りではございません」
「昨日の夜はそうでもなかったぞ」
「田様」
蘭英が田朔の胸を叩くと、月華がすぐに食いついた。
「何をしたのです?」
「お前には教えない」
「お母様!」
朝から母娘が騒いでいるのを聞きながら、田朔は自分の暮らしが大きく変わったことを改めて感じていた。最初に欲しかったのは、腹いっぱい飯を食い、欲しい物を買い、誰にも頭を下げずに暮らせるだけの金だった。そのために商売を始め、商売を守るために人を雇い、人を守るために兵を集めた。兵を養うためにさらに大きな金を動かすようになり、ついには城まで取った。その結果として、今では大きな屋敷で美しい母娘が自分を取り合っている。戦や商売ばかりに追われ、この暮らしを楽しまない方がどうかしていた。
田朔はその朝も2人としばらく過ごしたため、郡府へ着いた時にはいつもよりかなり遅くなっていた。先に来ていた段烈が田朔の顔を見る。
「今日はまた遅かったですね」
「俺が何時に来ようがいいだろ」
「昨日の宴で飲みすぎたのかと思いました」
「酒じゃない」
段烈は何か察したようだったが、それ以上は聞かなかった。
「何だ、その顔は」
「何も言ってませんよ」
「言ってるのと同じだ」
田朔が席へ着くと、昨日の宴で勝手に酒を飲んでいた陸文昭も待っていた。
「お前、今日も飯を食いに来たのか」
「今日は田様に話があって参りました」
「昨日話せばよかっただろ」
「昨日は酒を飲む日でしたので」
「今日は?」
「仕事の話をする日です」
田朔はこの男がますます気に入った。陸文昭は卓の上に広げられた地図へ目を向け、次にどこを攻めるつもりなのかと尋ねてきた。
「それを考えている」
「攻めない方がよろしいでしょう」
段烈の表情が変わったが、田朔は怒らず理由を尋ねた。
「田様は戦に勝ちすぎました。南鄭を取り、褒中を取り、周辺の豪族まで従わせた。今ここでさらに外へ兵を出せば、漢中の外にいる者たちは田様を敵として見るでしょう」
「いずれ敵になる」
「いずれと今では違います」
陸文昭は地図の南鄭を指し、そこから周囲へ指を滑らせた。
「今は取った土地を固め、人を集める時です。田様には兵があります。しかし2,000人を率いるのと、5,000人、1万人を率いるのは違う。段将軍1人にすべてを任せるわけにはいきません」
田朔が段烈を見ると、段烈も否定しなかった。
「俺1人で1万人を見るのは無理です」
「では何が要る」
田朔が尋ねると、陸文昭は迷わず答えた。
「将です」
「段烈がいる。趙嶽もいる」
「足りません。田様が本当に漢中の外へ出るなら、1,000人、2,000人を任せても勝って帰ってくる男が何人も必要になります。田様ご自身が毎回出陣していては、取れる土地にも限りがあります」
田朔は黙って地図を見た。これまでの戦では自分が兵を率いて出ることが多く、それで勝ってきた。しかし漢中の外まで領地を広げれば、自分が西へ出ている間に東で戦が起きることもある。北と南で同時に兵を動かさなければならない時も来るだろう。
「どこから連れてくる」
「漢中だけを見る必要はありません」
「なら、どこを見る」
「天下です」
田朔が顔を上げても、陸文昭は平然としていた。
「前秦は崩れ、各地で主を失った兵や将が出ています。戦に敗れて行き場をなくした者もいるでしょう。主君と折り合いが悪い者、功を立てても認められない者、家柄がないため上へ行けない者もいる。そういう男を探して田様のところへ呼べばよいのです」
「来ると思うか」
「兵を預け、功を立てれば上へ行けると分かれば来ます。田様ご自身が家柄も官位もないところからここまで来たのでしょう。ならば同じような男を使えばよい」
田朔は笑った。
「いいな、それ」
「ただし、使えない者まで集めてはいけません」
「当たり前だ」
「ですから私が調べます。どこにどんな男がいるのか、誰が今の主に不満を持っているのか、誰が兵から慕われているのか。田様は会って、使うかどうか決めてください」
「分かった。天下の使える男を探せ。将でも役人でも構わん。俺のところへ来れば上へ行けると思わせろ」
陸文昭が初めて満足そうに笑った。
「それなら、かなり面白い仕事になりそうです」
「俺が王になると言ったことを知ってるのか」
「南鄭では有名ですよ」
「誰が喋った」
「田様があちこちで言っておられるのでしょう」
段烈が笑いをこらえている。
「笑うな」
「申し訳ありません」
田朔は陸文昭へ向き直った。
「お前なら俺を王にできるのか」
「私1人では無理です」
「じゃあ何が要る」
「兵、土地、将、役人、それに運です」
「お前は?」
「それをどう使えば最も大きくなるか考えます」
田朔はしばらく陸文昭を見た。兵を率いる男はすでにいる。屋敷と金を任せられる女もいれば、帳簿を見られる者も城を守らせられる者もいる。だが、田朔が漢中を越えてどこまで行けるのか、そのために何が必要なのかを考える者はいなかった。
「俺のところへ来い」
「給金はいくらでしょう」
段烈が思わず笑った。
「そこを最初に聞くのか」
「働く者が給金を聞いて何がおかしいのです」
「その通りだ」
田朔はすぐ金額を決めた。
「それでいいなら今日から働け。ただし役に立たなかったら追い出す」
「十分です」
「役目は俺が決める。俺が王になる方法を考えろ。それがお前の仕事だ」
陸文昭は笑った。
「では、随分長い仕事になりそうです」
「長くても構わん。俺はまだ20だ」
「それが一番恐ろしいところです」
◇ ◇ ◇
それから数日後の夜、田朔は戸を激しく叩く音で目を覚ました。
「田様、田様!」
女の声に身体を起こして返事をすると、戸の外から「玉容様が」と聞こえた。その一言で眠気が消え、田朔が戸を開けると、玉容付きの侍女が息を切らして立っていた。
「お腹の痛みが強くなっております。産婆が、もう始まっていると」
「いつからだ」
「少し前からです」
「どうしてすぐ俺を起こさなかった」
「玉容様が、まだ起こすなと」
「あいつは何を考えてるんだ」
田朔は衣を引っかけると、そのまま玉容の部屋へ向かった。部屋の前には侍女が何人も集まり、湯を入れた桶や布が次々と運び込まれている。蘇瑶も来ており、田朔を見ると立ち上がった。
「中へ入るなと言われました」
「誰に」
「産婆にです」
「俺の屋敷だぞ」
「お産には関係ありません」
戸の向こうから、普段の玉容なら決して出さない苦しそうな声が聞こえてくる。田朔が思わず戸へ手をかけると、蘇瑶が腕をつかんだ。
「邪魔になります」
「何もしない」
「何もしないなら、ここにいてください」
田朔は仕方なく廊下へ座った。戦場なら敵を斬ればよく、城を攻めるなら兵を動かせばよい。商売なら銭を積めば片がつくことも多い。しかし今は、田朔がどれほど兵や金を持っていても玉容の代わりにはなれず、自分では何一つできないことが腹立たしかった。
「医者は呼んであるのか。産婆は2人で足りるのか。湯や薬はどうなってる」
「全部用意してあります。必要なことは産婆と医者に任せてください」
次々に尋ねる田朔へ蘇瑶が答えていると、玉蓮もやって来た。
「旦那、どうなんだ」
「俺が聞きたい」
「まだ生まれてないのか」
「見れば分かるだろ」
「私に怒ってどうするんだ」
「怒ってない」
玉蓮は蘇瑶と顔を見合わせた。しばらくすると蘭英と月華まで現れ、寝間着の上へ衣を羽織っただけの月華が玉容の様子を尋ねた。
「まだだ」
「大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫だ」
「田様が一番心配そうな顔をしていますよ」
「うるさい」
それからは待つしかなかった。田朔は何度も立ち上がって中へ入ろうとし、そのたびに止められた。そうしているうちに空が白み始め、やがて玉容の声が途切れた。
「どうした」
田朔が立ち上がった直後、部屋の中から甲高い泣き声が響いた。赤子の声だと気づいた田朔が動きを止めると、もう一度、今度は先ほどより力強い泣き声が聞こえた。
戸が開き、産婆が笑顔で顔を出した。
「旦那様」
「玉容は」
「ご無事です」
田朔は大きく息を吐いた。
「子は?」
「男のお子です。元気な男児でございます」
田朔は一瞬言葉を失ったが、後ろでは月華が声を上げ、蘭英も笑い、蘇瑶は胸の前で手を合わせていた。玉蓮が田朔の肩を叩く。
「旦那、跡継ぎだぞ」
「分かってる」
「顔が笑ってる」
「うるさい」
産婆の許しを得て部屋へ入ると、湯と血の匂いがまだ残っていた。玉容は疲れ切った顔で寝台に横になり、その隣には小さな赤子がいる。田朔は寝台のそばまで行ったものの、どうすればいいのか分からず立ったまま見下ろした。
「そんなところに立っていないで、こちらへ来てください」
玉容が薄く目を開けた。
「大丈夫なのか」
「疲れました」
「どこか痛むのか」
「子を産んだのですから、痛いに決まっているでしょう」
「医者を呼ぶ」
「もう診てもらいました」
疲れていても言うことはいつもの玉容だった。田朔はようやく寝台の横へ腰を下ろし、赤子の顔を覗き込んだ。
「男だってな」
「ええ」
「小さいな」
「生まれたばかりなのですから」
田朔は赤子へ手を伸ばしかけたものの、途中で止めた。
「触っていいのか」
「あなたの子ですよ」
「壊れそうだ」
「壊れません」
恐る恐る差し出した田朔の指を、赤子の小さな手が握った。力などほとんどないはずなのに、その感触ははっきり伝わってくる。田朔はしばらく黙って自分の指を握る小さな手を見つめていた。
「俺の子か」
「今さら何を言っているのです」
「ずっと腹にいるのは分かってた。でも、こうして見るのとは違うな」
玉容はしばらく田朔を見てから、静かに尋ねた。
「嬉しいですか」
「ああ。すごく嬉しい」
田朔は迷わず答え、再び赤子へ目を向けた。長安で草鞋を売っていた頃には、自分が城を持ち、2,000人の兵を従え、漢中を押さえることなど考えたこともなかった。まして自分の子が生まれることなど、想像する余裕さえなかった。
「こいつには腹を空かせたくないな。欲しい物も買わせてやる。大きくなったら馬も剣もやる」
「まだ生まれたばかりですよ。今から甘やかさないでください」
「土地だってやるぞ」
「あなた」
玉容は呆れたが、田朔は赤子を見ながら笑っていた。
「足りなきゃ俺がもっと取ればいい。こいつだけじゃない。お前も、屋敷にいる女たちも、これから生まれる子も全部だ。俺の家族が増えるなら、それだけ大きな家にすればいい」
「本当に欲張りですね」
「今さらだろ」
玉容は笑いながら目を閉じた。
「少し眠ります」
「ああ、寝ろ」
「あなたも休んでください。一晩中、廊下にいたのでしょう」
「俺は何もしてないから疲れてない」
「そういう問題ではありません」
田朔は玉容が眠るまでそばにいた。
部屋を出ると、廊下にはまだ玉蓮、蘇瑶、蘭英、月華が待っていた。別の部屋には青蘭や小玉、麗華、阿若もいる。その中心にいる正妻の玉容が、今朝、田朔の最初の子を産んだのである。田朔はそこで初めて、自分が作っているものが単なる店や軍ではなく、すでに大きな家になり始めていることを実感した。
「今日は祝いだ」
「この前、3日も祭りをやったばかりだろ」
玉蓮が呆れると、田朔は首を振った。
「あれは戦に勝った祝いだ。今日は俺の子が生まれた祝いだ。兵にも酒と肉を出せ」
「2,000人いるんだぞ」
「知ってる」
「本当に使う時は迷わないな」
「俺の跡継ぎが生まれたんだ。けちってどうする。今日は飲ませろ」
その日の南鄭では、田家の正妻が男児を産んだという知らせが兵たちにも伝わった。田朔は2,000人の兵へ酒と肉を出し、屋敷で働く者には銭まで配った。戦勝祝いが終わったばかりだというのに、また酒が飲めると兵たちは大喜びした。
田順も知らせを聞いて屋敷へ駆けつけた。赤子を見た父はしばらく何も言わなかったので、田朔が声をかけた。
「親父、どうした」
「お前が生まれた時のことを思い出した」
「俺もこんなに小さかったのか」
「もっとやかましかった」
「嘘つけ」
「本当だ」
田順は笑った。
「俺は荷車を引いて、お前を食わせるだけで精一杯だった。それが今じゃ、お前の息子が城のある家で生まれた」
「まだ城は増やすぞ」
「孫が大きくなる頃には、いくつになってるんだろうな」
「数えられないくらいにする」
「お前なら本当にやりそうだから困る」
父と息子は顔を見合わせて笑った。
◇ ◇ ◇
数日後、玉容はまだ寝所で身体を休めていたが、母子ともに問題はなかった。田朔は郡府へ行く前に必ず玉容の部屋へ寄るようになり、最初の日には触ることさえ怖がっていた赤子も、今では侍女から受け取って抱けるようになっていた。
「また来たのですか。昨日は3回来ましたよ」
「俺の屋敷だぞ。来たら悪いのか」
「仕事をしてください」
「してる」
田朔は腕の中の息子を眺めた。
「少し重くなったな」
「数日でそんなに変わりません。あなたが慣れただけですよ」
「そうか?」
しばらく息子の顔を眺めていた田朔は、ふと思いついたように言った。
「こいつが大きくなる頃、俺は何をしてるかな」
「王になるのでしょう?」
玉容が当然のように答えたので、田朔は笑った。
「そうだったな」
「忘れたのですか」
「忘れてない。だったら、こいつが物心つく頃には、親父が何者なのか分かるくらいにはなっておかないとな」
「十分有名だと思いますけれど」
「漢中だけで有名でも仕方ない」
玉容は何も言わず田朔を見た。その目は、田朔が初めて王になると言い出した頃とは少し違っている。あの頃なら若者の大言壮語と半ば呆れて聞くこともできたが、今の田朔には南鄭と褒中があり、2,000人の兵と将がいる。田家へ従う土地から税と穀物が入り、軍師まで加わったうえ、正妻との間には嫡子まで生まれた。もはや田朔の言葉を、ただの大言壮語として笑う者は屋敷の中にはいなかった。
田朔は息子を侍女へ返して立ち上がった。
「行ってくる」
「今日は早く帰ってください」
「何かあるのか」
「何もありません。でも、あなたは父親になったばかりでしょう」
田朔は少し笑った。
「分かった。早く帰る」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、田朔は約束どおり早く屋敷へ戻った。玉容はまだ自室で休んでいるため、食卓には蘇瑶、蘭英、月華が揃っていた。玉蓮は帳場の仕事が残っているらしく、少し遅れて来るという。
「今日は本当にお早いのですね」
「玉容に言われた」
「玉容様には素直なのですね」
「俺だっていつも逆らってるわけじゃない」
「そうでしょうか」
蘇瑶が笑ったので、田朔は「お前まで何だ」と言いながら酒を注がせた。そのまま昼間に決めたことを話し、陸文昭を正式に軍師として抱えることにしたと女たちへ告げた。
「先日の宴に勝手に入ってきた方ですか」
「ああ」
「まだ数日しか話していないのでしょう。大丈夫なのですか」
「数日話せば、馬鹿かどうかくらい分かる。あいつは使える」
蘭英が感心したように聞いている横から、月華が田朔の袖を引いた。
「その方が大事なのは分かりましたけれど、今夜までその方のお話をなさるつもりですか」
「何だ。嫉妬してるのか」
「男の方に嫉妬するほど暇ではありません。この前はお母様が勝った日でしたから、今日は私の日でしょう?」
「いつ決まったの」
「今決めました」
「勝手な子ね」
「お母様だって随分楽しんだのでしょう」
「月華」
また母娘が始めたので、田朔は笑って杯を置いた。
「今夜は勝ち負けなしだ。2人とも来い」
月華は嬉しそうに田朔へ寄り、蘭英も今度はためらわず反対側へ身体を寄せた。蘇瑶はそんな3人を見て呆れたように笑った。
「田様は本当にお忙しい方ですね。昼は軍師と天下の話をして、夜は女の相手をするのでしょう」
「両方やればいいだろ」
「そのうち身体が足りなくなりますよ」
「その時に考える」
月華が笑った。
「では、子供もたくさん作らなくてはいけませんね」
「作るぞ」
田朔が即答すると、蘭英が少し驚いて顔を上げた。
「玉容様がお子を産まれたばかりなのに、もう次のお話ですか」
「玉容だけに産ませるつもりはない。お前たちも産めばいい。蘇瑶も、ほかの女たちもだ」
「私までですか」
蘇瑶が目を丸くする。
「俺の女だろ」
「そうですけれど」
「だったら何もおかしくない」
月華は嬉しそうに笑った。
「では私も、田様のお子を産みます」
「月華」
「お母様もでしょう?」
突然話を振られた蘭英は困った顔をしたが、以前のように強く否定はせず、「授かるものなら、私も嬉しいです」と答えた。
玉容が最初の子を産んだからといって、それで終わりではない。田朔には女たちを養えるだけの力があり、これから生まれる子供たちも食わせていける。家族が増えれば、それを守るために今より大きな力が必要になるが、田朔にとって答えは難しくなかった。土地が足りなければ取り、兵が足りなければ増やし、家族を守れるだけ自分が強くなればよい。
その夜、田朔は母娘と寝所へ入った。月華が甘えれば蘭英も負けずに田朔へ寄り、蘭英が田朔を独占すれば今度は月華が割って入る。最初の夜にあった遠慮はすっかり薄れ、3人で笑う声が夜更けまで途切れなかった。
眠りにつく前、月華が田朔へ尋ねた。
「田様、本当に王様になるのですか」
「ああ」
「では私は王様の側室になるのですね」
「俺が王になればな」
反対側にいた蘭英が笑った。
「その頃には月華に子がいるかもしれませんよ」
「お母様にだっているかもしれないでしょう」
月華に言い返され、今度は蘭英が黙った。
「それなら2人とも産めばいい」
「田様は簡単におっしゃいますね」
「もう1人産まれたんだ。2人でも3人でも同じだ」
「全然同じではありませんよ」
蘭英が笑うと、田朔は2人を抱き寄せた。
「俺にとっては同じだ。食わせられるし、守れる。だから遠慮するな」
翌朝、田朔は母娘より先に目を覚ました。左右では蘭英と月華がまだ眠っている。2人を起こさないよう寝台を出て衣を着けると、そのまま玉容の部屋へ向かった。
赤子も玉容もまだ眠っていた。田朔は戸口に立ったまま、しばらく2人を眺めた。
自分が王になると言い出した頃、田朔はただ大きなものが欲しかった。ところが今は、欲しいものだけでなく、手放したくないものまで増えている。正妻がいて、側室たちがいて、初めての息子が生まれた。2,000人の兵と城と土地を手にし、戦場を任せられる将もいる。さらに王になる道を考える軍師まで手に入れた。
これだけのものを手にした以上、誰かに奪われるつもりはなかった。そのためには今の漢中だけで満足するわけにはいかない。もっと強い将を集め、もっと大きな軍を作り、田家そのものを簡単には潰せない勢力へ変えていく必要がある。
田朔は眠っている玉容と息子をもう一度見てから、静かに戸を閉めた。
郡府へ行けば陸文昭が待っている。これから集めるべきものは、もはや銭だけではない。1,000、2,000の兵を預けても勝って帰ってくる将と、奪った土地を治められる人間が必要になる。
田朔が次に目を向ける場所は、漢中の外だった。
386年6月が終わった。




