第10話(前編)――「母と娘」
386年6月上旬。
南鄭へ戻ってから、田朔は珍しく戦へ出なかった。各地から届く書状には田家へ従うというものが増え、急いで兵を出さなければならない相手もいない。朝のうちに郡府へ顔を出して必要な指示を出せば、午後には屋敷へ戻れる日が続いていた。
それまでなら空いた時間を商売か兵の訓練に使ったところだが、今の田朔には別の楽しみがある。杜蘭英と杜月華である。褒中から連れてきた母娘は田家で暮らし始めて半月ほどしか経っていないが、月華はすっかり屋敷に慣れ、田朔が帰ってくる時刻になると自分から姿を見せるようになっていた。
その日も田朔が昼過ぎに戻ると、月華が庭で待っていた。
「今日はお早いのですね」
「俺が早く帰ってくると困るのか」
「逆です。昨日は夕食まで戻られませんでしたから、今日はいつ戻られるのかと思っていました」
「また待ってたのか」
「いけませんか」
月華は笑って田朔の腕を取った。18歳の月華は母親に似た顔立ちをしているが、性格はずっと明るい。褒中で初めて会った時には多少の戸惑いもあったものの、田朔が自分と2つしか歳の違わない20歳だと知ってからは、急に遠慮がなくなっていた。
そのまま2人で奥へ入ると、蘭英が部屋で衣を畳んでいた。
「田様、お帰りなさいませ」
「蘭英、お前までそんな堅い言い方をしなくていいぞ」
「そう言われましても、月華のようにはなかなか」
蘭英は30代の終わりである。娘と並べば母親であることは分かるものの、田朔は初めて会った時から、その落ち着いた美しさを気に入っていた。
田朔が卓の前へ座ると、月華は当然のように隣へ腰を下ろした。蘭英は向かい側へ座ろうとしたが、田朔が自分の反対側を指した。
「どうしてそっちなんだ。反対側が空いてるだろ」
「月華がおりますので」
「だから反対側だ」
蘭英は少し困った顔をしたものの、結局は田朔の反対側へ座った。母娘を左右に置いた田朔は満足して酒杯を手に取る。
「やっぱりこれがいいな」
「何がです?」
「お前たち2人を両側に置いておくのがだ」
「まあ」
月華は笑ったが、蘭英は娘の顔を見てから田朔へ視線を戻した。
「田様は本当に、母娘であることを気になさらないのですね」
「どうして俺が気にするんだ。お前も美人で、月華も美人だ。それで2人とも俺の女になった。それだけだろ」
蘭英が返事に困っていると、月華が母親を見て笑った。
「お母様、田様にそんなことを聞いても無駄ですよ。この方は気に入ったものを欲しいと言う時に、いちいち理由を考えたりなさいませんもの」
「お前、俺のことが分かってきたな」
「毎日見ていますから」
田朔が月華の肩を抱き寄せると、月華は素直に身体を預けた。それを見た蘭英がますます困った顔をしたので、今度は月華が母親を誘った。
「お母様もこちらへ来ればよろしいのに」
「月華」
「だって、お母様も田様の女でしょう。私だけこうしていたら、後で羨ましがるではありませんか」
「そんなことは言っていません」
「では、羨ましくないのですか」
蘭英は答えなかった。その様子がおかしくて田朔が笑う。
「月華の勝ちだな。蘭英、こっちへ来い」
今度は蘭英も断らなかった。田朔は母娘を左右に置き、酒を飲みながら何をするでもなく午後を過ごした。以前なら、こんな時間があれば銭を稼げるのに無駄にしたと思ったかもしれない。しかし今では、田朔が1日働かなくても商隊は動き、店では品物が売れ、貸した銭から利息が入り、田家の支配地からは税が集まってくる。それなら毎日働き続ける必要はない。稼いだ金で好きな女たちと暮らし、何もせず酒を飲む時間があってもよかった。
夕食には崔玉容と蘇瑶も加わった。玉容は田朔の左右を蘭英と月華が占めているのを見ると、すぐに事情を察した。
「この頃、その2人ばかりですね」
「気に入ってるからな」
田朔は隠そうともしなかった。月華は嬉しそうにする一方、蘭英は正妻である玉容に申し訳なさそうな顔をしたが、玉容は怒るどころか笑っていた。
「蘭英、そんな顔をしなくても大丈夫ですよ。この人が美人を気に入るのは今に始まったことではありませんから」
「玉容様はお嫌ではないのですか」
「嫌なら、とっくに疲れ果てています」
蘇瑶が吹き出したので、田朔は杯を置いた。
「お前たち、俺の前で好き勝手に言うようになったな」
「あなたが好き勝手にするからでしょう」
玉容に言い返され、月華まで笑った。
その日の食卓は遅くまで続いた。ただし、腹の大きくなった玉容には酒を飲ませなかった。予定の日が近づいていると医者から言われており、産婆もいつ呼ばれてもよいよう屋敷の近くへ移してある。田朔は何度となく玉容の腹へ目を向けていたが、とうとう我慢できずに尋ねた。
「本当に大丈夫なのか」
「今日だけで何度目ですか」
「聞くくらいいいだろ」
「大丈夫です。少し重いくらいですよ」
「痛くなったらすぐ言え」
「あなたに言う前に産婆を呼びます」
「俺にも言え」
「分かりました」
玉容は呆れながらも笑っていた。
夜が深くなったところで、玉容は蘇瑶を連れて先に休むことにした。
「よろしいのですか」
蘇瑶が田朔を見ると、玉容は母娘へ目を向けた。
「今夜はあの2人から取り上げると恨まれそうですから」
「玉容様、そのようなつもりでは」
月華が慌てると、玉容は「冗談ですよ」と笑って蘇瑶を連れて出ていった。残された月華は頬を赤くし、蘭英も玉容が何を察して席を外したのか理解していた。しばらく母娘は互いに相手の顔を見ていたが、田朔だけは普段と変わらず酒を飲んでいる。
「お母様は、どうなさいます?」
「どうするとは?」
「分かっているでしょう」
「あなたが田様のお相手をすればよいでしょう」
「お母様は?」
蘭英が答えないので、田朔は笑った。
「さっきから何を譲り合ってるんだ」
「だって、母娘で同じ殿方と夜を過ごすなんて、今まで考えたこともありませんでしたもの」
「俺だって母娘2人を一緒に迎えたのは初めてだ」
「普通は何度もありません」
月華の返事に田朔が声を上げて笑い、その笑いにつられて蘭英も笑ったことで、それまで漂っていた妙な緊張がようやく薄れた。
「嫌なら無理に一緒にいる必要はないぞ」
「嫌だとは言っていません」
月華はすぐに答えた。蘭英も娘を見た後で田朔へ向き直り、少し恥ずかしいだけだと認めた。
「だったら決まりだな」
田朔が立ち上がると月華も続き、蘭英は一瞬ためらったものの、結局は2人の後について寝所へ入った。
その夜、田朔は母娘と初めて同じ寝所で夜を過ごした。最初は蘭英も月華も互いを気にしていたが、田朔が片方だけを特別扱いせず、2人と話し、抱き寄せ、口づけを交わしているうちに、先に遠慮を捨てたのは月華だった。
「田様、今は私の方を見てください」
「さっきまで見てただろ」
「今もです」
月華が田朔を自分の方へ引き寄せると、蘭英が呆れた。
「月華、少しは慎みなさい」
「お母様だって、さっきから田様のそばを離れないではありませんか」
「私はあなたのように張り合ってはいません」
「本当に?」
月華が笑うと、蘭英は言い返せなくなった。田朔はそんな母娘のやり取りまで楽しんだ。やがて蘭英も遠慮をやめ、田朔が月華ばかり構っていると自分から近づくようになり、そうなれば今度は月華が黙っていない。母娘で同じ男と夜を過ごすことへの戸惑いは残っていたものの、それ以上に2人とも田朔から可愛がられることを喜び、互いに少しでも自分へ振り向かせようと張り合うようになった。
翌朝、田朔が目を覚ますと、月華は隣でまだ眠っており、反対側では蘭英が先に目を覚ましていた。
「おはようございます」
「おはよう。月華はまだ寝てるのか」
「昨夜、あれだけ田様を独り占めしようとしたのですから、疲れたのでしょう」
すると眠っているはずの月華が身体を動かした。
「聞こえていますよ」
「起きているではないの」
月華は目を開けると、すぐ母親へ言い返した。
「お母様こそ、最後には私より田様に甘えていたではありませんか」
「何を言っているの」
昨日まで互いに遠慮していた母娘が、一晩で田朔を取り合って言い争うようになっている。田朔は寝台の上で笑いながら2人を見た。
「お前たち、これから毎晩競争する気か」
月華が田朔の腕を抱いた。
「田様が決めればよろしいでしょう」
すると蘭英も負けずに身体を寄せた。
「月華ばかり甘やかしてはいけませんよ」
「お母様!」
田朔はますます2人が気に入った。戦に勝つことも、銭が増えることも面白いが、勝って手に入れた屋敷で美しい母娘に左右から取り合われる朝には、また別の楽しさがある。その日、田朔が郡府へ向かったのは、いつもよりかなり遅い時刻になった。




