第9話(後編)――「勝った夜」
386年5月下旬。
褒中から南鄭へ戻った田朔を、崔玉容が屋敷で迎えた。その後ろには、ひと足先に送られていた杜蘭英と杜月華もいる。
褒中で会った時とは違い、母娘は髪をきれいに結い直し、新しい衣をまとっていた。月華は田朔の姿を見ると嬉しそうに前へ出た。
「お帰りなさいませ。思っていたより早く戻られましたね」
「褒中の後始末は朱昭たちに任せた。2人とも、もうこっちには慣れたか」
「玉容様によくしていただいております。お母様も、こちらの暮らしを気に入っておりますよ」
月華に話を振られた蘭英も笑った。
「立派なお屋敷ですし、何不自由なく過ごさせていただいております」
田朔が玉容を見ると、玉容は少し呆れた顔をした。
「今度は母娘2人を一緒に連れてくるのですから、あなたには驚かされます」
「2人とも美人だったからな」
「本当に分かりやすい方ですね。2人の部屋はこちらで決めました。家の中のことは私が見ますから、あなたは余計な心配をなさらなくて結構です」
「最初から玉容に任せるつもりだった。俺が部屋割りまで考えていたら、郡府へ行く暇がなくなる」
玉容もそれ以上は何も言わず、田朔を屋敷へ入れた。
その日の夕方に郡府へ出ると、朱昭が各地から届いた書状を持って待っていた。褒中が落ちてから新たに3か所が田家へ従うと申し出ており、さらに返事を寄越していない土地にも動きがあるという。
「褒中を攻めたのが効いたようです。こちらから兵を出さなくても、使者を送ってくるところが増えています。このままなら、大半は戦わずに従わせられるでしょう」
「せっかく2,000人まで増やしたのに、使わずに終わるのもつまらんな」
「土地が増えて兵が減らないのですから、喜ぶところでしょう。段烈殿まで田様と同じことを言い始めたら困ります」
朱昭が笑うと、田朔も書状を受け取りながら笑った。
従ってきた土地への条件は変えなかった。これまで働いていた役人はそのまま残し、税は南鄭へ納めさせる。土地ごとに抱えている兵については人数と武器を報告させ、田家の許可なしに動かすことを禁じた。
だが、すべてが素直に従ったわけではない。
数日後、郡の北側にある塢を支配する豪族が、200人余りの兵を集めて田朔の使者を追い返したという知らせが入った。
「だったら今度は800人連れていく。相手が戦いたいなら、相手をしてやればいい」
田朔がすぐに出兵を決めると、段烈は笑った。
「先ほどまで、戦わずに土地が増えるのはつまらないと言っていたそうですね。ちょうど相手が見つかってよかったじゃないですか」
「俺が戦を探しているみたいに言うな。向こうから喧嘩を売ってきたんだ」
「はいはい。そういうことにしておきます」
「本当にそうだぞ」
翌朝、田朔は800人を率いて南鄭を出た。
相手が立て籠もっているのは川沿いに築かれた塢で、褒中ほど高い城壁はない。田家軍が昼過ぎに到着すると、田朔は兵を長く休ませる必要もないと判断し、その日のうちに攻撃を命じた。
弓兵が塢の壁へ矢を浴びせ、その間に盾兵と丸太を抱えた兵が門へ近づく。最初の一撃で門が大きく揺れ、2度目には門板へ亀裂が走った。
3度目の衝撃で門が内側へ傾くと、段烈が兵を突入させた。
200人余りの兵では、800人の田家軍を止めることはできなかった。門を破られた後は各所で戦列が崩れ、田朔も護衛とともに塢へ入った。
通りへ出たところで敵兵が槍を突き出してきたため、田朔は身体をかわして相手の胸へ槍を突き込んだ。さらに後ろから別の男が飛び出したが、今度は護衛が間へ入り、剣で斬り倒した。
田家軍が奥へ進むにつれて抵抗は弱まり、あちこちで敵兵が武器を捨て始めた。
「降った奴は殺すな。武器を取り上げて集めろ。まだ戦う奴だけ相手にしろ!」
田朔の命令が伝わると、降伏する者はさらに増えた。戦いは半刻ほどで終わり、田家軍は塢の倉、屋敷、武器庫を押さえた。
捕虜については段烈に使える者を選ばせ、朱昭の部下には倉と帳面を確認させた。
夕方になると、田朔は戦った兵へ酒と肉を出すよう命じた。
屋敷の庭へ大鍋が運び込まれ、潰した羊の肉が次々と煮込まれた。倉から見つかった酒樽も出され、戦を終えた兵たちが庭へ集まってくる。
「今日は飲んでいい。ただし、明日の朝に起きられないほど飲んだ奴は、ここへ置いていくからな」
田朔が告げると、兵たちから笑い声が上がった。
田朔自身も庭へ座り、段烈から酒を注いでもらった。
「田様も飲むんですか。明日起きられなくなっても置いていきますよ」
「俺を置いて誰が帰るんだ。それより、お前の方が戦より酒を楽しみにしていたんじゃないか」
「田様にだけは言われたくありません。私は朝から働いていました」
「俺だって働いただろう。敵を1人倒したぞ」
「大将の仕事ではありませんけどね」
2人は笑いながら杯を合わせた。
田朔が酒を飲むと、喉を焼くような辛さが残った。
「この酒、あまりうまくないな」
「奪った酒に文句を言わないでください。兵は喜んで飲んでいますよ」
周囲では肉を頬張りながら戦の話をする者、仲間と杯を交わす者、今日倒した敵の数を大げさに話して笑われている者もいた。死傷者が出た戦ではあったが、勝った軍には勝った軍の夜がある。
田朔も何杯か飲み、羊肉を食べながら庭を見渡した。
数百人の男たちが、自分の勝利を祝って飲み食いしている。長安で父親と荷車を引いていた頃には想像もしなかった光景だった。
「こういうのも悪くないな。金庫に銭を積んで眺めているより面白い」
「ようやく分かりましたか。だったら、次も勝たないといけませんね」
「当然だ。まだ漢中郡全部を取ったわけじゃない」
田朔は空になった杯を段烈へ差し出した。
「もう1杯注げ。明日の朝はちゃんと起きる」
「その言葉、覚えておきますよ」
段烈が酒を注ぎ、2人は再び杯を合わせた。
◇ ◇ ◇
南鄭へ戻った夜、田朔は風呂で戦場の埃を落としてから自宅の部屋へ入った。
卓には鶏肉、川魚、青菜、それに酒が用意され、玉容、蘭英、月華の3人が待っていた。田朔が席につくと、蘭英が杯へ酒を注いだ。
「お疲れでしょう。月華から、田様はご自分でも戦われると聞きました」
「今回も少し戦ったが、相手は200人ほどだったからすぐ終わった。こっちは800人連れていったからな」
月華は田朔の身体を見回した。
「お怪我はありませんでしたか。褒中でも城門まで出られたと聞きましたから、今度もそうではないかと思っておりました」
「怪我はない。護衛もいるし、俺だって何も考えずに敵の中へ飛び込んでいるわけじゃない」
「それなら安心しました。田様が戦へ行かれると聞くと、帰ってこられるまで気になります」
月華がそう言うと、玉容が笑った。
「月華はあなたが帰るまで何度も、今日は戻られるでしょうかと聞いていましたよ」
「お前、そんなに心配してたのか」
「だって、せっかく田様のところへ来たばかりなのに、すぐ死なれては困ります」
田朔は思わず笑った。
「それは俺も困る。まだ欲しいものがいくらでもあるからな」
田朔が月華を隣へ呼ぶと、月華は嬉しそうに席を移った。蘭英も反対側へ座り、田朔の杯へ酒を注ぐ。
玉容はその様子を見ながら、呆れたように笑った。
「戦から帰ったその日に母娘2人を両側へ座らせるのですから、本当に遠慮のない方ですね」
「俺の家で遠慮してどうする。それに2人とも俺の妾だろう」
「それはそうですが、私までいることを忘れないでくださいね」
「忘れてない。玉容もこっちへ来ればいい」
「仕方のない人ですね」
玉容も席を近づけた。
田朔は蘭英に酒を注がせ、月華には今日の戦の様子を話した。朝から役人を相手に帳面や税の話をしているだけでは、何のために城を取ったのか分からない。戦に勝った夜くらいは、うまい物を食べ、美しい女たちと酒を飲んで過ごしたかった。
長安で銭だけを追っていた頃にはできなかったことが、兵と土地を持つようになって次々とできるようになっている。
田朔はその変化を気に入っていた。
◇ ◇ ◇
5月末になると、南鄭の郡府には各地から税と報告が集まり始めた。
許玉蓮の前には、商売や貸付の帳面だけでなく、各地の戸数、田畑、穀物、税を記した帳面まで積まれている。これまで店の金を見てきた玉蓮も、さすがに量の多さには呆れていた。
「店の帳面と郡の帳面では勝手が違うわ。同じ穀物でも土地によって納め方が違うし、倉にある量と帳面が合わないところまである。これを全部、私に見ろというの?」
「全部を1人で見る必要はない。人を使えばいい。玉蓮は入ってくる金と出ていく金が分かるようにしてくれればいい」
「あなたは簡単に言うけれど、それだけでも大仕事よ。それに宋淮からは、南鄭を取って街道を通る商人が増えたから、商隊の護衛を増やしたいと連絡が来ているわ」
「だったら増やせ。兵はいるし、街道が安全になって商人が増えるなら、その方がこっちも儲かる」
玉蓮は田朔の顔を見て笑った。
「郡を取って税が入るようになっても、まだ商売を続けるのね」
「当たり前だろう。税も取るし、商売でも儲ける。貸した銭から利息も取る。使える稼ぎ口を、わざわざ捨てる理由がない」
「本当に欲張りね。何か1つ手に入れたら満足するということがないの?」
「いらないものまで欲しがっているわけじゃない。欲しいものが多いだけだ」
「それを欲張りと言うのよ」
玉蓮に笑われても、田朔は気にしなかった。
城を取れば倉と土地が手に入り、土地から税が入れば兵を養える。兵を養えれば次の土地を取りに行けるうえ、街道を守らせれば商人も増え、自分の商隊も安全に動かせる。
最初は金で兵を買った。
その兵が今度は、さらに金を生む土地を取ってくるようになったのである。
田朔には、このやり方が性に合っていた。
その日の午後、父の田順が郡府へやって来た。
役人に案内されて部屋へ入った田順は、卓に広げられた地図と、息子へ頭を下げて出ていく役人を交互に見た。
「ずいぶん偉くなったものだな。漢中郡を取ったと聞いたから見に来たが、本当に役人までお前に頭を下げている」
「まだ全部じゃない。従っていないところが残ってる」
「またそれか。3郷を取った時も、まだ足りないと言っていた。南鄭を取って、褒中を取って、それでもまだ足りんのか」
「漢中郡全部を取ると言っただろ。途中でやめたら気持ちが悪い」
田順は地図を覗き込み、漢中郡の外まで目を移した。
「では、漢中郡を全部取ったらどうする。そこでようやく満足するのか」
「外へ行く。王になるなら漢中郡1つで終わるわけにはいかないだろう」
田順は息子の顔をしばらく見ていたが、やがて笑った。
「本当にやるつもりなんだな。まあ、お前がそう言うなら好きにしろ。ただし、土地だけでなく女まで増やしすぎて、玉容に追い出されるなよ」
「なんで父さんまで知ってるんだ」
「20の若造が城を落として、逃げた県令の美人母娘を2人とも妾にしたんだ。兵も使用人もいるのに、隠せるわけがないだろう」
「別に隠してない。2人とも美人だったから妾にしただけだ」
「そういうことを平気な顔で言うようになったか。長安で36銭を握っていた頃のお前に聞かせてやりたいな」
田順が笑うと、田朔も昔を思い出して笑った。
「今は36銭じゃないからな。次の城に何があるかも、行ってみないと分からん」
「城だけ持って帰ってこい」
「それは約束できない」
「玉容に言っておくぞ」
「もう知ってるよ」
親子の笑い声が部屋に響いた。
長安で父親の荷車を押していた頃、田朔が欲しかったものは何よりも銭だった。銭さえあれば人に頭を下げずに済み、欲しい物も買えると思っていた。
今でも銭は欲しい。
だが、それだけではなくなった。
兵を増やし、土地を取り、城を手に入れ、美しい女がいれば自分の家へ迎え、戦に勝った夜には部下たちと酒を飲む。欲しいものが増えた分だけ仕事も増えたが、田朔は以前より今の暮らしを面白いと思っていた。
漢中郡には、まだ田家の旗が立っていない土地が残っている。
まずはそこを全部取る。
その後は、漢中の外へ出ればいい。
田朔は卓の地図へ手を伸ばし、漢中郡の境からさらに外側へ指を滑らせた。
386年5月が終わった。




