第8話(後編)――「10万貫と2,000人」
386年4月中旬。
南鄭を取った翌朝から、県衙と漢中郡府では田家の者と残った役人が一緒になり、帳簿と倉の確認を始めた。県令の盧文成は死んだが、戸籍や田地、税、倉の管理を知る役人まで追い出しては城が動かなくなる。朱昭が彼らをまとめ、これまでの記録と実際の在庫を照合していった。
田朔が確認させたのは県庫だけではなかった。南鄭には漢中郡府も置かれているため、各地から集められた税や軍資金、兵糧も保管されている。戦の最中に逃亡した有力者については屋敷や倉を封じ、戻る見込みのない者の財物も合わせて調べさせた。
作業には3日かかった。
4月18日の夜、許玉蓮が朱昭と宋淮の集計をまとめ、田朔の前へ帳面を置いた。
「田家が以前から持っていた金に、郭泰から取った財産、南鄭の県庫と郡庫、軍資金、銀やすぐ換金できる財物を加えると、自由に動かせる分だけで10万貫を超えるわ。兵糧や武器、馬、建物、田畑はこの中に入れていないから、田家が持つ財産そのものはもっと大きい」
田朔は帳面を読み、金額を確かめた。
「5万貫は別に置け。戦が続いても兵の給金を止めないための金にする。残りは南鄭の城と軍、それから商売へ回せばいい」
玉蓮は、以前なら大金を手にするたび何度も帳面を眺めていた田朔が、10万貫という額にも長く見入らないことに気づいた。
「10万貫まで来たのに、前ほど銭だけを見なくなったわね」
「金が要らなくなったわけじゃない。ただ、箱へ入れて置いておくだけでは次の城は取れない。兵と土地を増やすために使った方がいい」
田朔は、南鄭を取る前に広げていた漢中郡の地図へ視線を移した。草鞋を売っていた頃には、100銭を失うだけでも痛かった。それが今は10万貫を持ち、その金をどこへ投入すれば次の領土につながるかを考えている。
◇ ◇ ◇
軍の再編も進んでいた。
南鄭攻めの前に1,081人いた田家軍は、川の戦いと城攻めで63人を失い、1,018人になった。一方、韓彪軍や南鄭の守備兵から降った者は1,300人近くに達している。
段烈と趙嶽はその全員を兵として残さず、軍務に耐えない者や、これまで略奪を繰り返していた者、命令を守れない者を外した。その結果、982人が田家軍へ組み入れられ、常雇いの兵はちょうど2,000人になった。
報告を受けた田朔は、2,000人を南鄭だけへ集めるのではなく、自分が支配する土地全体へ配置するよう命じた。
「南鄭には700人を残し、巴嶺郷へ300人、柳泉郷と石門郷へは合わせて300人を置く。漢中の倉、山中の砦、商隊の護衛に200人を回し、残る500人は段烈と趙嶽の指示ですぐ動けるようにしておけ。3郷と県城を持った以上、兵も土地に合わせて置いた方がいい」
趙嶽には当面の南鄭守備を任せ、段烈は田家軍全体を統括する。賀蘭真には、これまで田家が持っていた馬に郭泰や南鄭から奪った馬を加え、騎馬兵の数を増やさせた。
南鄭を取った効果は兵数だけではなかった。城内には鍛冶屋や弓職人、馬具職人、車大工が住んでおり、武器庫には槍や弓、矢、盾の在庫も残っている。
田朔は職人たちの仕事をまとめる者を呼び、今後は軍で使う武器や馬具を優先して修理し、新しく作れる物は南鄭で用意するよう命じた。
「兵が2,000人になれば、槍が折れるたびに市場を探しているわけにはいかない。矢も馬具も荷車も同じだ。材料と銭は田家が出すから、必要な物をここで揃えられるようにしてくれ」
商人だった頃の田家は、武器や馬を必要になるたび買っていた。今は城と職人、兵糧倉まで自分の支配下にある。2,000人の兵を集めただけではなく、その軍を継続して動かすための土台まで南鄭から手に入れたことになる。
◇ ◇ ◇
蘇瑶は数日後、漢中の田家へ送られた。
崔玉容には南鄭で盧文成が討たれ、その正妻だった蘇瑶を田朔の妾として迎えることを先に知らせてある。
蘇瑶が部屋へ通されると、玉容は目の前の女を見た。25歳という年齢より落ち着いて見え、夫を失ったばかりだけに華やかな装いはしていないが、県令夫人だった頃の品のある立ち居振る舞いは残っていた。
「あなたが蘇瑶ね。事情は聞いているわ。今日から田家では田朔の妾として暮らしてもらう。屋敷の女や使用人については私が見ているから、必要なことがあれば侍女を通して知らせなさい」
「承知しました」
玉容はそれ以上、盧文成について尋ねなかった。蘇瑶には部屋と侍女を与え、田家での暮らしに必要な物を揃えさせた。
数日後、田朔が漢中へ戻ると、夕食の席で玉容が蘇瑶の話を出した。
「南鄭の城だけでなく、また綺麗な女まで持ち帰ったのね。郭泰の妻だった麗華が28歳で、今度は25歳の県令夫人でしょう。阿若も側室に入ったし、あなたの家も急に大きくなったわ」
「土地も兵も増えたんだから、家だけ昔のままというわけにもいかんだろう」
「それと女が増えることを一緒にしないでほしいけれど、今さら言っても仕方ないわね。正妻が誰なのかは覚えているでしょう?」
「お前だ。そこを変えるつもりはない」
田朔が即答すると、玉容はそれ以上責めなかった。
「なら蘇瑶のことも私が見るわ。県令の正妻だった女なら、屋敷の中でもそれなりの扱いをした方がいいでしょう」
「任せる。俺は外の方を片づける」
田朔にとって、家の中を玉容へ任せられることも以前とは違っていた。自分が扱う土地や兵が増えるほど、すべてを自分1人で決めることはできなくなっている。
◇ ◇ ◇
4月末、田朔は南鄭の城門の上から城下を見下ろしていた。
戦の直後には閉まっていた市場もすでに開き、県衙と郡府では朱昭の下で役人が働いている。倉には兵糧と武器が保管され、城門や街路では田家の兵が交代で警備に就いていた。
段烈が城壁へ上がり、軍の配置が一通り終わったことを報告した。
「南鄭には趙嶽を残します。700人いれば城の守りには十分です。賀蘭真も南鄭で手に入れた馬を調べているので、騎馬兵は今までよりかなり増やせます」
「分かった。俺も当分は漢中と南鄭を行き来する。商売は玉蓮や宋淮に任せられるが、これから軍を動かす時の中心は南鄭になる」
段烈は城下の向こうへ続く道を眺めた。
「少し前まで巴嶺郷1つだったのに、今度は県城です。2,000人も抱えることになりました。ここでしばらく固めますか」
「南鄭を固める仕事は趙嶽と朱昭に任せる。俺たちは次を調べる」
田朔は持ってこさせた漢中郡の地図を城壁の上へ広げた。南鄭には郡府が置かれているが、郡内にはまだ田家の支配が届いていない土地が残っている。
「郡府を取っただけで漢中郡全部を取ったことにはならない。だったら残りも取ればいい。どこにどれだけ兵がいて、どの城を先に落とせば次が楽になるのか、朱昭と斥候に調べさせる」
段烈は地図を覗き込んだ。
「今度は2,000人を動かす戦になりますね」
「必要ならさらに増やす。10万貫あれば、兵を増やしてもすぐには困らん。それに今は金だけで兵を養っているわけでもない。3郷と南鄭の田、倉、税がある」
巴嶺郷を取った時には500人だった田家軍が、2か月後には2,000人になった。現金も1万貫余りから10万貫へ増え、南鄭という城と漢中郡府まで手中にある。
田朔が次に欲しいのは、もう1つの村や郷ではなかった。
「次は漢中郡を全部取る」
段烈は笑った。
「王になる話が、だんだん冗談ではなくなってきましたね」
「最初から冗談で終わらせるつもりはない」
田朔は地図の上で、まだ自分のものになっていない土地へ目を向けた。
386年4月が終わった。




