第8話(前編)――「県城から兵を引きずり出す」
386年4月上旬。
田朔は南鄭へ使者を送り、巴嶺郷、柳泉郷、石門郷の3郷はすでに田家の支配下にあり、今後は南鄭へ税も兵も出さないと通告した。返還を願い出るための書状ではない。3郷を奪われたうえに税まで止められれば、南鄭の県令は黙っていられない。城内の兵を外へ引きずり出すことが、田朔の狙いだった。
朱昭が書き上げた文面を読み終えると、段烈が卓上の地図へ目を落とした。
「ここまで書けば、南鄭は討伐軍を出すでしょう。県令が何もしなければ、3郷を旦那へ渡したのと同じです」
「それでいい。南鄭には県衙だけでなく漢中郡府もあり、兵は1,600人を超えている。1,081人で城壁へ取り付くより、向こうから半分以上を外へ出してもらった方が早い」
田家の兵は第7話の戦を経て1,081人まで増えている。それでも、城壁と城門を備えた南鄭を正面から攻めれば相当な損害が出る。田朔は兵数の差だけではなく、どこで戦えば自分たちの人数を有利に使えるかを考えるようになっていた。
趙嶽も田朔の意図を察した。
「南鄭は城を空にはできない。討伐へ出せても1,000人前後でしょう。そいつらを外で潰して、そのまま城まで押し込むわけですか」
「県を取りに行くのに、城門の前だけ見ていても仕方がない。城を守る兵を減らせるなら、先に減らしておく」
南鄭から返書が届いたのは3日後だった。県令の盧文成は田朔を賊と断じ、奪った3郷をただちに返還し、武装した兵も解散するよう命じてきた。
田朔は書状を最後まで読むと朱昭へ返した。
「もう返事はいらん。次に来るのは兵だ」
翌朝、その言葉通り南鄭の城門が開いた。郡府で軍を預かる韓彪が約1,100人を率いて出陣し、城内には500人余りが残った。
田朔は斥候を走らせ、南鄭から巴嶺郷へ向かう道を改めて調べさせた。選んだ戦場は南鄭の南を流れる川で、春になって水量は増えているものの、浅瀬を選べば歩兵も馬も渡れる。ただし、1,000人を超える軍勢が隊列を保ったまま一気に渡ることはできない。
地図を囲んだ段烈、趙嶽、賀蘭真に、田朔は兵の配置を示した。
「段烈は400人を連れて南岸へ出ろ。敵が渡り始めてもすぐには動くな。韓彪の旗が南岸へ入るまで待つ。趙嶽は300人を川下へ隠し、俺の合図で浅瀬へ出て後続を止めろ。賀蘭真は騎馬を率いて上流から北岸へ回り、兵糧車と退路を押さえる」
残った兵は田朔が手元に置き、戦況を見ながら必要な場所へ送る。段烈は敵味方の動きを地図の上で追ってから、田朔へ確認した。
「韓彪本人と先頭の500人ほどを南岸へ入れ、後続と切り離すわけですね。こちらは渡り終えた兵だけを先に叩けばいい」
「ああ。1,100人いるからといって、1,100人全部を同時に相手にする必要はない。韓彪はそこで殺せ。大将が生き残れば、敗残兵をまとめて南鄭へ戻すだけだ」
段烈はそれ以上聞かなかった。田朔が欲しいのは韓彪の降伏ではなく、その先にある南鄭県城だと分かっていた。
◇ ◇ ◇
4月8日の昼前、韓彪軍が川へ到着した。
南岸には段烈の兵400人ほどしか見えず、韓彪は田家の主力が後方に残っていると判断した。先頭の300人を渡らせても段烈が動かなかったため、さらに兵を進め、自分も騎馬で浅瀬へ入った。
田朔は南岸から少し離れた林に陣を置き、斥候から続けて報告を受けていた。韓彪の旗が南岸へ渡り、500人ほどが続いたところで、残る兵はまだ北岸と川の中に長く伸びている。
「頃合いだ。趙嶽を出せ」
伝令が走ると、川下へ隠れていた趙嶽の300人が浅瀬へ進み、渡河中の韓彪軍へ弓を射かけた。前へ進もうとする兵と北岸へ戻ろうとする兵が川の中でぶつかり、後続の動きが止まる。
ほぼ同時に段烈の400人も前進した。韓彪は南岸へ渡った兵をまとめて迎え撃ったが、その間に北岸では賀蘭真の騎馬が兵糧車へ襲いかかり、荷車を守る兵を散らして馬と食糧を奪い始めていた。韓彪軍は戦いが始まって間もないうちに、後続と兵糧の両方を切り離された。
田朔は各部隊から届く報告を聞き、手元に残した兵のうち200人を段烈の左へ送った。
「韓彪は南岸にいる。段烈には正面から離させるな。趙嶽は後続を川から上げず、賀蘭真には北へ逃げる道を押さえさせろ」
韓彪も簡単には崩れなかった。自ら剣を抜き、旗の周囲へ100人ほどを集めて段烈の部隊へ正面から食い込んだ。大柄な身体に似合わず剣の扱いも速く、前へ出た田家兵を何人か倒して隊列を立て直そうとする。
段烈は韓彪の旗を見つけると、自分も前へ出た。
「韓彪をここから出すな!」
兵が入り乱れる中で2人の剣がぶつかった。韓彪は最初の一撃を受け流して斬り返し、段烈も身を引いてかわす。何度か打ち合ったものの、時間がたつほど韓彪の周囲から兵が減っていった。川から新しい兵は来ず、北岸の部隊も賀蘭真に崩されている。
韓彪が踏み込んで剣を振ったところで、段烈は身体を外して脇腹を斬った。韓彪は傷を負っても踏みとどまり、なおも剣を返したが、続く一撃を胸に受けると、その場へ膝をついた。
段烈が剣を引き抜くと、韓彪は前へ倒れた。
「韓彪は討った! 武器を捨てろ!」
大将を失った南岸の兵はほどなく崩れ、川の中にいた者も戦意を失った。北岸では賀蘭真に兵糧車を奪われ、南鄭へ逃げ始める兵が増えていく。
田朔は南鄭へ向かう者をすべて追わせることはせず、武器と馬だけを捨てさせて逃がした。段烈がその意図を尋ねると、田朔は南鄭の方角へ目を向けた。
「韓彪が死んだことを、俺たちより先に城へ知らせてもらう。負けた兵が何百人も逃げ帰れば、城内の500人も落ち着いてはいられない。その後から俺たちが行けばいい」
兵にはその場で食事を取らせ、負傷者を後方へ送った。休ませたのは半刻ほどで、日が落ちる前には再び南鄭へ向けて進軍を始めた。
韓彪を討つことは、この日の目的の半分にすぎない。
田朔が欲しいのは、南鄭そのものだった。




