第7話(後編)――「王になる準備」
386年3月中旬。
柳泉郷と石門郷を押さえてから、田朔は5日ほど現地に残った。朱昭と宋淮には郭泰の帳面や倉を調べさせ、段烈と趙嶽には捕虜となった兵を選別させた。
郭泰の蓄えは董衡とは桁が違っていた。
銅銭だけで9,842貫あり、銀も普段の取引値へ直せば3,400貫余りになる。絹、珠、金具、薬材、鉄器なども倉に残されており、兵糧倉には粟と麦が積まれていた。
賀蘭真が馬の確認を終えて報告に来た。
「戦場で取った分と郭泰の屋敷に残っていた分を合わせて118頭あります。騎馬としてすぐ使えるのは80頭ほどです。武器もかなり残っているので、槍と弓なら900人以上に持たせられます」
以前の田朔なら、まず銭の総額を聞いていただろう。
今回は違った。
「粟と麦で、兵1,000人をどのくらい養える?」
朱昭は帳面を確かめた。
「今ある分だけでも数か月は困りません。3郷の収穫を田家が押さえれば、次の冬までを考えても余裕が出ます」
「なら倉を空にして漢中へ運ぶな。それぞれの郷に残しておけ。兵を置く場所に兵糧もなければ意味がない」
田朔は地図を広げ、3郷を結ぶ道と倉の位置を書き込ませた。どこへ兵を置けば街道を押さえられるか、騎馬ならどれだけで隣の郷へ着けるか、谷や川を使えばどこを守りやすいかまで賀蘭真と段烈に確認していく。
段烈はその様子を見て笑った。
「郭泰から銭を1万貫近く取ったのに、旦那がまだ金額を聞きませんね」
「玉蓮と朱昭が後でまとめる。銭は逃げない。それより、取った土地を守れる形にしておく方が先だ」
「巴嶺郷を取った頃より、ずいぶん領主らしくなりましたね」
「3郷も取って、いつまでも荷車の数だけ見ていたら笑われるだろう」
捕虜の選別も終わった。
郭泰軍から降った620人余りのうち、郭泰の一族と深く結びついている者や、村人への略奪を繰り返していた者を外し、584人を田家の兵として残した。
田家は今回の戦で46人を失っていたため、常雇い兵は合計1,081人になった。
段烈が人数を報告すると、田朔は兵をさらに増やせとは言わなかった。
「これからは1,000人を一つの塊にするな。お前の下に趙嶽と何人かの指揮官を置き、300人、200人と分けても動けるようにしろ。俺が3郷を持った以上、全部の兵が同じ場所にいる方がおかしい」
「分かりました。巴嶺郷、柳泉郷、石門郷にそれぞれ兵を置き、必要な時に集められる形にします」
「それでいい。次の戦では、500人全員を連れて1つの塢へ突っ込むような真似はしない」
田朔は地図の3郷を眺めた。
半年前までは、商売の道を線として見ていた。今はその道の両側にある村、田、倉、兵まで自分が動かせる。
同じ地図でも、見えるものが変わっていた。
◇ ◇ ◇
郭泰の屋敷には一族の女たちも残っていた。
田朔は郭泰の正妻だった李麗華を呼ばせた。28歳で、郭泰とは10年以上連れ添っていたが、2人の間に子はいなかった。
夫を失ったばかりなので華美な装いはしていない。それでも姿勢や話し方には、長く豪族の正妻として屋敷を取り仕切ってきた女らしい落ち着きがあった。
「実家へ帰りたいなら止めない。身の回りの物も持たせる」
田朔がそう告げると、麗華はしばらく考えてから答えた。
「実家へ戻っても、私は郭泰の妻だった女です。兄たちが困るだけでしょう。それより、ここへ残ることをお許しください」
「残って何をするつもりだ?」
「柳泉郷と石門郷の有力な家はほとんど分かります。郭泰と近かった家、表向きは従っていただけの家、兵や馬を出せる家も知っています。新しく2郷を治めるのであれば、知らない者ばかりを使うより役に立つはずです」
田朔は麗華を改めて見た。
美しい女であることに加え、2郷の内情にも通じている。郭泰が死んだからといって、彼女まで追い出す理由はなかった。
「なら田家へ残れ。俺の妾になる気があるなら、その方が話は早い」
麗華は目を伏せた後、拒まなかった。
「分かりました。田朔様にお仕えします」
「後で崔玉容に会え。俺の屋敷では、女たちのことは正妻の玉容が見る」
「承知しました」
こうして郭泰が持っていた2郷、兵、軍資金、倉、馬、武器に加え、その正妻だった麗華まで田家へ入ることになった。
◇ ◇ ◇
漢中へ戻ると、玉容は田朔の顔より先に衣や手足を見て、怪我がないことを確かめた。
「今回は随分大きな戦だったと聞いたわ。あなたは無事だったのね」
「ああ。郭泰は段烈が斬った。俺は谷の上から全体を見ていた」
「それで柳泉郷と石門郷まで取ったの?」
「郭泰の主力が潰れた直後だったからな。翌日まで待つ理由がなかった」
田朔は兵が1,081人になったことや、郭泰の軍資金と倉を押さえたことも話した。玉容は以前なら驚いていたような数字を聞いても、今回はすぐ別のことを尋ねた。
「それだけではないでしょう。何か私に話すことがある顔をしているわ」
「郭泰の妻だった李麗華を妾にした。28歳だ」
玉容はしばらく黙って田朔を見た。
「綺麗な人?」
「綺麗だ。それに2郷の家々にも詳しい。置いておいた方が役に立つ」
「聞く前から両方答えるようになったのね」
「どうせ聞くだろう」
玉容は呆れながらも怒らなかった。
「正妻が誰か忘れていないでしょうね」
「お前だ。そこを変える気はない」
「それなら麗華とは私が話すわ。郭泰の妻だった女なら、いきなり普通の妾と同じ扱いにするより、屋敷の中での立場を決めておいた方がいいでしょう」
「任せる」
玉容の腹は、衣の上からでも以前より分かるようになっていた。田朔はその腹へ目をやり、3郷や1,000人の兵とは別のものが自分の家に増えつつあることを感じた。
◇ ◇ ◇
その2日後、田朔が帳場で新しく書き直した地図を見ていると、拓跋阿若が訪ねてきた。
阿若が自分から田朔の帳場へ来るのは珍しい。
「お話ししたいことがあります」
「座れ。ちょうど俺も北のことを聞きたかった」
阿若は向かいへ座ったが、北方の話をする前に田朔へ尋ねた。
「郭泰を破って2郷を取り、兵も1,000人を超えたそうですね。この先も土地を広げるつもりなのでしょう?」
「当然だ。郷を3つ取って終わるつもりなら、1,000人も兵はいらない」
「では、どこまで行くつもりですか」
田朔は以前なら、取れるところまで取ると答えたかもしれない。
今は地図を見ながら少し考えた。
「まだ王を名乗れるほどではない。だが、郷を1つずつ取って満足する気もなくなった。次は県、その次は郡だ。それを続けて、誰にも追い出されない土地と兵を持つ」
阿若はその答えを聞くと、田朔から目をそらさなかった。
「それなら、いずれ王を名乗るつもりですね」
「そこまで取れればな」
「取るのでしょう?」
田朔は笑った。
「お前も言うようになったな」
「私は王家で育ちました。国を失っても、代王家の血まで消えたわけではありません」
阿若はそこで姿勢を正した。
「私を田朔様の側室にしてください」
予想していなかった申し出に、田朔はさすがに驚いた。
「俺の側室になりたいのか」
「はい。正妻の座を望んでいるわけではありません。玉容様が正妻であることも承知しています」
「なぜ今なんだ?」
「巴嶺郷だけを持っていた時なら、まだ決めませんでした。ですが今の田朔様は3郷と1,000人を超える兵を持ち、倍の敵を作戦で破りました。これから県や郡まで取るというのであれば、私はその先を見てみたい」
阿若は自分の立場についても隠さなかった。
「私にも得があります。今の私には自分の国も兵もありませんが、代王拓跋什翼犍の孫娘という血筋は残っています。田朔様が将来王を名乗るなら、王家の女を側室に持つことは無駄にはなりません」
田朔は聞いているうちに、自然と笑みが広がった。
「そこまで自分から言うなら、俺が断る理由はないな。前から綺麗な女だとは思っていたし、王族の娘が自分から側室にしてくれと言ってくるなら、俺としては大歓迎だ」
阿若は少し呆れた顔になった。
「私は真面目に将来の話をしているのですが」
「俺も真面目だ。政治に役立つうえ、女としても気に入っている。両方ならなおさらいい」
「田朔様らしい答えですね」
「嫌になったか?」
「それくらいで嫌になるなら、最初から申し出ません」
阿若はすでに玉容にも話を通していた。正妻を無視して田朔へ直接頼むのは筋が違うと考えたらしい。
「玉容様からは、田朔様なら喜んで受け入れるでしょうと言われました」
「俺のことをよく分かっている」
田朔は笑いながら立ち上がった。
「なら決まりだ。今日から客ではなく、田家の女として暮らせ」
阿若も立ち上がり、田朔へ頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は玉容の部屋で阿若の話をした。
「お前は先に聞いていたそうだな」
「ええ。阿若の方から来たわ。私を押しのける気はない、側室として田家へ入りたいと、きちんと話してくれた」
「止めなかったんだな」
「止める理由がないもの。代王家の孫娘でしょう。あなたが本当に県や郡まで取るつもりなら、いずれ北との縁が必要になるかもしれない。それに、あなた自身が随分嬉しそうではないの」
「嬉しいぞ」
田朔が素直に認めると、玉容は笑った。
「そこは隠さないのね」
「阿若も知っている。今さら格好をつけても仕方ない」
しばらくして、玉容は田朔が地図の話をしている時から気になっていたことを尋ねた。
「本当に王になるつもりなの?」
田朔は以前のように笑って流さなかった。
「なる。今すぐ名乗るつもりはないが、そのための土地と兵を取っていく」
「随分はっきり言うようになったわね」
「巴嶺郷を取って、郭泰の1,000人を破って分かった。金を持っているだけでは足りないし、兵を持っているだけでも足りない。土地を取って、その土地で兵を養い、さらに次を取れる形にする。そこまでやるなら、最後に王を名乗っても同じだ」
玉容は腹へ手を添えた。
「では、この子は王になる男の最初の子になるかもしれないのね」
「そのつもりで大きくする」
「生まれる前から勝手に決めないで」
「俺の子だ。小さく育てる理由はない」
玉容は笑いながら、田朔の手を自分の腹へ重ねた。
◇ ◇ ◇
3月末、玉蓮と朱昭が郭泰から奪った財産と田家全体の収支をまとめた。
軍資金、銀、売却した財物、商隊から入った利益を合わせ、戦死者への支払い、負傷者の治療、1,081人となった兵の給金を差し引いても、すぐ動かせる現金は2万4,000貫を超えていた。
それ以上に大きいのは、田朔が直接命令を通せる土地が巴嶺郷、柳泉郷、石門郷の3郷へ増えたことだった。各地に兵糧倉があり、馬も武器も増え、1,000人を超える兵を複数の場所へ置けるようになった。
田順は新しく書き直された地図をしばらく眺めていた。
「お前がどこまで行くのか、俺にはもう分からんな。巴嶺郷を取った時でも驚いたのに、1か月もしないうちに3郷になった」
「俺にも最初は分からなかった」
田朔は父の隣に座り、地図を見た。
「今は分かる。郷を増やすだけでは遅い」
「では、次は何を取るんだ?」
田朔は南鄭の位置へ指を置いた。
「県を取る」
田順は息子の横顔を見た。
「その先は?」
「郡だ。それでも足りなければ、もっと取る」
「最後には何になるつもりなんだ」
田朔は今度は迷わなかった。
「王になる」
草鞋20足を抱えて南門へ向かっていた頃なら、父も笑っただろう。
今の田朔には3郷があり、兵は1,081人いる。代王家の孫娘まで自ら側室に入りたいと言ってきた。
田順は笑わなかった。
「そうか。なら生きてそこまで行け」
「ああ。そのつもりだ」
田朔は南鄭の名がある場所から指を離さなかった。
386年3月が終わった。




