第5話(中編)――「未払いを全部払う」
386年1月中旬。
朱昭は、趙嶽が持ってきた帳面を3日かけて調べた。
紙が足りなかった時期には木札へ書いた記録もあり、5か月の途中で死んだ者、逃げた者、怪我で役目を変えた者まで混じっている。朱昭は趙嶽側の古参兵にも確認しながら、現在田家へ移る286人だけを抜き出した。
帳場には、田朔、許玉蓮、崔玉容、段烈、趙嶽が集まった。
朱昭が最後の数字を示した。
「普通の兵が270人で、月600銭。組を預かっていた者が15人で月800銭。趙嶽殿の分を合わせても、5か月分の未払いは880貫ほどです」
玉蓮が帳面を覗き込んだ。
「思っていたより少ないわね」
趙嶽は苦笑した。
「払ってもらう側からすれば、十分大金だ」
田朔は朱昭へ尋ねた。
「兵糧はどのくらい必要になる」
「田家へ移るまでの食事だけなら大した額ではありません。ただ、家族を抱えている兵へ当面の食糧を渡すなら200貫以上は見ておいた方がいいでしょう。冬衣の足りない者も多いです」
段烈も付け加えた。
「槍や弓は使えますが、直した方がいい物がかなりあります。弦、矢、革具も要ります」
玉蓮は別の紙へ数字を書き始めた。
「未払い給金が880貫。家族分を含む食糧が260貫。衣や靴が132貫ほど。武器の修理と不足分で100貫くらい見ればいいかしら」
朱昭が確認してから答えた。
「余裕を見て、そのくらいでしょう」
「全部で1,372貫ね」
玉蓮が田朔を見た。
「今月の通常の給金は別よ」
「分かっている」
「一度に出すのね」
「ああ」
玉蓮は反対しなかったが、数字をもう一度見た。
「兵286人を買うというより、5か月分の借金ごと引き受けるようなものね」
「その借金を消せば、こいつらが俺の兵になる」
趙嶽が口を挟んだ。
「俺の分は後でいい。まず兵へ払ってくれ」
「後にはしない」
「なぜだ」
「お前だけもらわないと、部下も気を遣うだろう。それに、俺は払うと決めた分を残したくない」
趙嶽は黙った。
玉容が帳面から顔を上げた。
「これだけ払えば、兵は約500人になるのね」
「今の200人と合わせて486人だ」
「屋敷と砦だけで抱える人数ではなくなってきたわ」
「それは俺も考えている」
「考えているだけでは困るわよ。兵には家族もいるでしょう」
田朔は玉容の言うことが正しいと分かっていた。
兵だけなら砦や仮の宿舎へ置ける。しかし500人近くなれば、妻子を含めた人数はその何倍にもなる。
「まず兵を取る。住む場所は次に考える」
「順番が逆ではないの?」
「住む場所を先に用意して、兵が来なかったら無駄になる」
玉容は呆れた。
「その理屈なら、今度は土地まで買いそうね」
田朔は返事をしなかった。
その言葉は頭に残った。
◇ ◇ ◇
1月15日。
趙嶽の286人は、田家が用意した広場へ集められた。
全員を屋敷裏へ入れるには狭いため、漢中の外にある広い空き地を借りている。
朱昭の前には帳面が置かれ、その横には銭箱が何列も並べられていた。
田家の荷車8台で運んだ。
兵たちは銭箱を見ながらも、まだ信じ切れていない様子だった。
田朔は前へ出た。
「趙嶽から、5か月分の給金が残っていると聞いた。帳面も調べた。今日、全部払う」
兵の列からざわめきが起きた。
「半分ではない。5か月分全部だ。今日までの未払いは、ここで終わりにする」
前列の男が思わず声を上げた。
「本当に全部ですか」
「全部だ」
「残りは来月という話ではなく?」
「そんなことをするなら、前の主人と同じだろう」
笑いが起こった。
緊張していた兵たちの顔が変わった。
田朔は続けた。
「ただし、ただで渡す銭ではない。受け取った者は今日から田家の兵だ。軍のことは段烈、その下で今まで通り趙嶽の命令を聞け。田家の兵になったからといって、村から勝手に食糧を取ることは許さん。必要な物は俺が買う」
朱昭が最初の名前を呼んだ。
兵が前へ出る。
5か月分の3貫が渡された。
次の兵も3貫。
その次も同じだった。
組を預かる男には4貫。
名を呼ばれるたびに銭が減っていく。
しかし、空になった箱が増えるほど、田朔の兵は増えていった。
5か月も待たされた男たちにとって、3貫は単なる給金ではなかった。
家族へ食糧を買える。
売った道具を買い戻せる。
借りた銭を返せる。
冬を越せる。
列の中には、銭を受け取ると何度も数え直す男もいた。
途中で趙嶽の番が来た。
朱昭が額を読み上げようとすると、趙嶽が手を上げた。
「俺の分は最後でいい」
田朔が横から言った。
「順番を変えるな。名前が呼ばれたなら受け取れ」
趙嶽は田朔を見た後、銭を受け取った。
「俺まで本当に払うとは思わなかった」
「お前も5か月働いただろう」
「払った主人は別だ」
「今日から俺だ」
趙嶽は銭を腰の袋へ入れた。
「分かった」
最後の兵まで支払いが終わった。
朱昭が帳面を閉じた。
「未払い分、すべて支払い済みです」
田朔は286人を見た。
「今日までは前秦の兵だった奴も、趙嶽だけの兵だった奴もいるだろう。明日からは田家から飯を食え。来月15日の給金も俺が払う」
列の中から声が上がった。
「旦那!」
誰か1人が呼んだだけだった。
それに続いて何人かが同じように呼んだ。
田朔は手を上げて止めた。
「礼は要らん。働け」
兵たちが笑った。
段烈も横で笑っている。
「旦那らしいですね」
「働かない兵に880貫も払ったと思いたくないからな」
◇ ◇ ◇
その日の夕方には、食糧と冬衣の配布も始まった。
妻子のいる者には家族の人数を確認し、当面の粟や麦を渡した。田家で仕事のない家族については、すぐ全員を抱え込まず、漢中にいる親族や以前の住まいを使える者はそこへ戻した。
住む場所のない家族だけは、空いている家や倉を借りた。
玉蓮は夜まで帳場を離れられなかった。
田朔が戻ると、机の上には今日だけで使った銭の記録が何枚も積まれていた。
「兵を買うのは、品物を買うより面倒ね」
「品物は飯を食わないからな」
「家族もいるわ。冬衣もいる。薬もいる。今日だけで1,300貫を超えているのよ」
「兵は286人増えた」
「その言い方をすると思った」
玉蓮は帳面を閉じた。
「現金が減るのを見ていると、私の方が心配になるわ」
「また稼ぐ」
「簡単に言うわね」
「12月もそうした」
玉蓮は否定できなかった。
「今度は500人近い兵を使って稼ぐつもりなのね」
「使わないなら買わない」
田朔は机に積まれた帳面を見た。
銭は減った。
その代わり、田家の兵は一日で200人から486人になった。




