第5話(前編)――「300人まとめて来い」
386年1月上旬。
正月が明けても、漢中の朝は冷え込んでいた。
田家の屋敷裏では、200人の兵が組ごとに分かれて稽古をしている。槍の穂先が並び、地面を踏む音が朝から続いていた。
田朔が帳場で商隊の出入りを見ていると、賀蘭真が段烈と一緒に入ってきた。
賀蘭真が自分から帳場へ来ることは少ない。田朔は筆を置いた。
「北にいる知り合いから知らせが来た。前秦の兵だった一隊が、漢中の北で動けなくなっている」
賀蘭真はそう話し、段烈へ目を向けた。
段烈が続きを引き取った。
「兵は300人近くいます。ばらばらになった敗残兵ではなく、今も1人の隊長がまとめています。武器もかなり残っているそうです」
「給金は出ているのか」
「5か月出ていません。兵糧も残り少ないようです。この冬を越せなければ、解散するしかないでしょう」
田朔はそこまで聞くと、人数をもう一度確かめた。
「300人近くというのは、実際には何人だ」
「286人です。怪我人もいますが、ほとんどは戦えます」
「隊長は何者だ」
賀蘭真が答えた。
「趙嶽という男だ。40歳くらいで、前秦では下級の軍官だった。大将ではないが、部下を置いて逃げるような男ではない」
「だから5か月も食わせているのか」
「持っていた銭や家畜を売ってな。だが、もう限界らしい」
田朔は卓上の帳面へ目を落とした。
手元の現金は1万2,184貫ある。
286人を増やしても、すぐに銭が尽きる額ではない。
「会う」
段烈が田朔の顔を見た。
「286人全員を雇うつもりですか」
「まず隊長を見る。話はそれからだ」
◇ ◇ ◇
2日後、田朔は段烈、賀蘭真、それに護衛50人を連れて漢中を出た。
趙嶽たちがいるのは、使われなくなった荘園だった。塀はところどころ崩れ、屋根の落ちた建物もある。広い庭には粗末な幕舎が並び、兵たちは薪を割ったり、傷んだ武器を直したりしていた。
人数が多い割に、騒ぐ者はいなかった。
田朔は馬を降りると、まず周囲を見た。
槍は古い。
衣も破れている。
それでも武器をまとめて置く場所が決められ、見張りも立っている。
「まだ軍隊だな」
田朔が言うと、段烈も同じところを見ていた。
「5か月給金がなくて、この状態なら上出来です」
趙嶽は母屋として使っている建物から出てきた。
背は段烈より少し低いが、肩幅があり、左の頬には古い傷が残っている。衣は部下と大して変わらず、腰の剣も飾り気のないものだった。
「田家の旦那か」
「田朔だ」
「噂は聞いている。兵に銭を払う商人だそうだな」
「商人が兵に銭を払うのは珍しいらしい」
趙嶽は笑わなかった。
「俺のところから何人欲しい」
「まだ決めていない。先に話を聞かせてくれ」
建物の中へ入ると、趙嶽のほかに3人の男が同席した。いずれも組をまとめる立場らしい。
田朔は、どこで戦っていたか、何人死んだかといった昔話を長々と聞く気はなかった。
「今いる286人のうち、戦えないほどの怪我人は何人だ」
「8人だ。ただし6人は治れば戻れる。残る2人も荷の管理くらいならできる」
「家族持ちは多いのか」
「半分ほどだ。妻子はこの辺りや漢中周辺へ逃がしている者が多い」
「給金は5か月分が未払いだと聞いた。月にどのくらいだった」
「普通の兵は600銭。組を預かる者は800銭ほどだ。俺の分も残っているが、それはどうでもいい」
「兵糧はあと何日もつ」
趙嶽は隣の男を見た。
「今の量なら12日だ。それより先は、また何か売らないと食わせられん」
「何を売る」
「俺の馬がまだ1頭ある」
賀蘭真が眉を寄せた。
「それを売ったら、お前まで歩兵になるぞ」
「腹が減れば馬には乗れん」
趙嶽はそれだけ言った。
田朔は男の顔を見た。
「ほかから誘いは来ているのか」
「来ている。俺と、使える者を50人ほど連れて来いと言う話が2つある」
「残りは?」
「知らん。勝手に帰れということだろう」
「断ったのか」
「5か月一緒に飢えた奴らを、銭が出るからといって今さら捨てられるか」
そこで趙嶽は初めて苛立ちを見せた。
「田家も同じ話なら帰ってくれ。俺1人なら要らん」
田朔は椅子にもたれた。
「俺も、お前1人はいらん」
趙嶽の顔つきが変わった。
同席していた男たちも田朔を見る。
「何をしに来た」
「286人まとめて来い」
しばらく誰も話さなかった。
趙嶽は聞き間違えたと思ったらしい。
「全員か」
「怪我人も含めて全員だ。治れば兵に戻せ。戻れない2人にも、できる仕事があるなら使えばいい」
「286人を田家で食わせるのか」
「人数を聞いてから来た」
「俺たちは商隊の護衛だけをしてきた兵ではないぞ。戦になれば人も死ぬ」
「その方がいい。護衛だけなら今いる200人でもできる」
趙嶽は段烈へ目を向けた。
「お前が田家の兵をまとめているのか」
「そうだ」
「俺の部下も、お前の下へ入ることになるのか」
段烈は田朔を見ずに答えた。
「田家へ来るならそうなる。ただし、お前の286人を全部ばらして俺の組へ混ぜるつもりはない。今まで動かしてきた者が動かした方が早い」
趙嶽は少し考えた。
「俺は今まで通り部下を率いてよい。その上で、田家全体の軍事ではお前の命令を聞く。それなら話は分かる」
「俺もそのつもりだ」
田朔は話を進めた。
「未払いの給金は全部調べる。兵の名簿と、これまでの給金額が分かる帳面が残っているなら見せろ」
趙嶽が田朔を見た。
「昔の給金まで払う気か」
「払わないと、お前たちは5か月分を捨てて田家へ来ることになる。最初から損をさせた兵が、俺のために働くとは思えん」
「だが、その借りは田家のものではない」
「俺の兵にするために必要な銭なら、俺が払う」
趙嶽は返事をしなかった。
田朔は続けた。
「条件はある。田家へ来たら略奪は禁止だ。民家から勝手に食糧を取るな。給金は毎月決めた日に払う。兵糧も田家から出す。軍のことは段烈の命令に従え」
「俺の部下を途中で捨てないか」
「捨てる理由がなければな。働かない奴、盗む奴、命令を聞かない奴まで抱えるとは言わん。ただ、まともに働く兵を銭がかかるからという理由だけで追い出すつもりはない」
趙嶽は後ろの3人を見た。
誰も口を挟まなかった。
「名簿を見せる。ただし、兵にも話をさせてくれ」
「当然だ。嫌な奴まで連れて行く気はない」
趙嶽はそこで初めて表情を緩めた。
「田家の旦那は、商人の割に妙な男だな」
「兵まで買おうとしている商人だからな」
◇ ◇ ◇
漢中へ戻る道で、段烈が馬を並べた。
「286人を本当に全部取るんですね」
「使えるならな」
「これで500人近くになります」
「そのために金を持っている」
「趙嶽は悪くありません。あれだけ飢えていて部隊をまとめているなら、俺も欲しいです」
「なら決まりだ」
段烈が笑った。
「兵を買う話なのに、旦那より俺の方が嬉しそうですね」
「俺は請求書を見る方だからな」
「そこだけは代わりませんよ」
「分かっている」
田朔は前を向いた。
286人。
これまでの200人と合わせれば486人になる。
草鞋を売っていた頃なら、500人近い兵を自分が養うなど考えたこともなかった。
今は、それを現金で買おうとしている。




