第4話(前編)――「3か月分を今日払う」
385年12月上旬。
朝の稽古を終えた田朔が屋敷へ戻ると、段烈が待っていた。
外は冷え込み、屋根や庭の草には白い霜が残っている。田朔は汗を拭きながら帳場へ入り、温かい湯を飲んだ。
「朝から来るとは珍しいな。何かあったのか」
「兵を増やす話です」
段烈は向かいへ座った。
「前秦の兵だった男たちが、漢中の北に集まっています。部隊が崩れて、帰る場所もなくなった連中です」
「何人いる」
「68人。ただ、全員が使えるかはまだ分かりません」
「給金はもらっているのか」
「最後の3か月分を受け取っていないそうです。上の者が逃げて、そのままです」
田朔は湯の入った器を置いた。
「兵だった時はいくらもらっていた」
「身分によりますが、普通の兵なら月500銭から600銭ほどです」
「3か月なら、1人1,800銭もあれば足りるな」
「旦那が払うんですか」
「払う」
段烈は少し驚いた。
「田家が借りている銭ではありませんよ」
「分かっている」
「では、なぜ昔の給金まで払うんです」
「欲しいからだ」
田朔は立ち上がった。
「銭を払わない主人のところにいる兵を、銭を払う俺が取る。それだけだ」
◇ ◇ ◇
その日の午後、田朔は段烈と30人の護衛を連れ、男たちが集まっている場所へ向かった。
漢中から北へ少し外れた荒れた寺の跡に、男たちはいた。
破れた軍衣を着ている者もいれば、普通の衣に着替えている者もいる。槍や弓を持っている者は半数ほどで、残りは武器まで売ったらしい。
焚き火の周りには粟を煮ただけの薄い粥が掛けられていた。
段烈は先に男たちを見て回り、兵として使えるか確かめた。
年齢が高すぎる者、怪我で長く歩けない者、酒に酔っている者などを外し、最後に57人が残った。
田朔はその57人を寺の前へ集めた。
「お前たちは3か月、給金をもらっていないそうだな」
前にいた年長の男が答えた。
「そうだ。払うと言われ続けたが、部隊の方が先になくなった」
「1人いくら残っている」
「兵によって違うが、俺たちの多くは月600銭だった」
田朔は段烈へ顔を向けた。
「持ってこい」
後ろに置いていた荷車から木箱が運ばれてきた。
蓋を開けると、縄に通した銭が詰まっていた。
男たちが一斉に箱を見た。
田朔は1貫ずつまとめた銭を手に取った。
「月600銭なら3か月で1,800銭だ。俺が払う」
年長の男が怪訝な顔をした。
「なぜあんたが払う」
「今日から俺の兵になればだ」
周囲がざわついた。
「昔の主人が払わなかった分まで俺が出す。その代わり、受け取った者は田家から毎月給金を受け、田家の命令で働け。商隊を守れと言えば守る。砦へ行けと言えば行く。訓練を休むな。勝手に略奪するな」
別の男が尋ねた。
「次の月から本当に払うのか」
「毎月決めた日に払う」
「商売が悪ければ?」
「俺が何とかする。お前たちが心配することじゃない」
田朔は段烈を指した。
「軍のことはこいつの命令を聞け。俺はお前たちより剣が上手いふりをするつもりはない。ただし、銭については俺の言葉を信じろ」
年長の男が木箱へ目を向けた。
「今、払うのか」
「だから持ってきた」
「俺たちはまだ、あんたのために何もしていない」
「これからさせる」
田朔は帳面を持ってきた朱昭に命じた。
「名前を確認して払え」
朱昭が最初の男の名を聞き、帳面へ記した。
1貫と800銭がその場で渡された。
男は両手に載った銭を見たまま動かなかった。
「数えろ」
田朔に言われ、男は慌てて銭を確かめ始めた。
次の男にも1,800銭。
その次にも1,800銭。
57人分、102貫600銭が、その日のうちに支払われた。
誰も来月まで待てとは言われなかった。
役所へ取りに来いとも言われなかった。
証文を持ってもう一度来いとも言われなかった。
その場で現金を受け取った。
最後の1人まで払い終えると、年長の男が田朔の前へ出た。
「旦那。俺たちは今日から何をすればいい」
「まず飯を食え。明日から段烈が使う」
「それだけか」
「3か月も銭をもらっていないなら、今日は家族へ持って帰る者もいるだろう。明日の朝、屋敷裏の広場へ来い」
男は頭を下げた。
「分かった」
帰り道、段烈が田朔へ言った。
「57人全員来ますかね」
「来なかった奴はそれまでだ」
「100貫以上払った後ですよ」
「逃げる奴が何人いるか見るための銭でもある。100貫で分かるなら安い」
翌朝。
屋敷裏の広場には57人全員が立っていた。
田朔が来る前から並び、段烈の指示を待っていた。
田家の兵は、これで157人になった。
◇ ◇ ◇
数日後、田家が元兵士へ未払い3か月分まで払ったという話は、漢中周辺へ広がっていた。
田朔が頼んだわけではない。
57人が自分で話したのである。
12月7日の朝には、屋敷の外へ20人ほどの男が集まった。
翌日にはさらに増えた。
玉蓮が帳場へ入ってきた。
「外に兵隊みたいな男が43人いるわ。雇ってくれと言っている」
「段烈に見せろ」
「全員?」
「全員だ。使える奴だけ残せ」
田朔は帳面から顔を上げなかった。
「銭を払う主人が少ないなら、選ぶのはこっちだ」




