第3話(前編)――「10日遅れの銭」
384年3月上旬。
3月に入っても、田家には毎日のように人が来た。
「まだか」
「兵舎から銭が出れば払う」
「何日それを言うつもりだ」
朝には薪を預けた農夫が催促に来て、昼には荷車を出した男が顔を見せた。
田朔は逃げなかった。
払えないものは払えない。
それでも、誰にいくら払うのかは全部覚えていた。
紙にも書いてある。
農家11軒。
荷運び人4人。
薪代と運賃を合わせれば、今の田朔が持っている銭では到底足りない。
父の田順は、それでも毎朝いつも通り荷車を引いて仕事へ出た。
田朔も後ろから押した。
以前と違い、父はほとんど何も言わない。
その方が田朔には気になった。
「父さん」
「何だ」
「怒らないのか」
「何をだ」
「俺のせいで、毎日人が来ている」
「怒ったら銭が出るのか」
「出ない」
「なら働け」
田順は前を向いたまま歩いた。
田朔も黙って荷車を押した。
その日の帰り、2人は南の兵舎へ寄った。
支払いを言い渡された日にはまだ早い。
門番は田朔を見ると笑った。
「また来たのか」
「王徳に会わせろ」
「まだ銭は出ない」
「本人から聞く」
「帰れ」
田朔は門の前から動かなかった。
兵が槍の柄で胸を押した。
「帰れと言っている」
田朔は数歩下がった。
以前なら食い下がっていたかもしれない。
だが、ここで殴られても銭が早く出るわけではない。
それくらいは分かるようになっていた。
◇ ◇ ◇
3月6日。
ようやく王徳から呼び出された。
兵舎の小部屋へ入ると、王徳は卓の上に銭を積んでいた。
「薪200束分だ」
田朔は腰を下ろす前に数え始めた。
王徳が眉を上げる。
「俺が数えたぞ」
「俺も数える」
「信用しないのか」
「しない」
王徳が鼻で笑った。
田朔は構わず数えた。
やがて手が止まる。
「足りない」
「何が」
「30銭」
「手数料だ」
「何の」
「品を受け取り、帳面へ載せ、支払いを通した手間賃だ」
「そんな話は聞いていない」
「今聞いただろう」
田朔は王徳を見る。
「札にも書いていない」
「役所の手間賃までいちいち札へ書くと思うか」
「30銭取るのか」
「嫌なら銭を置いて帰れ」
田朔は黙った。
部屋の入口には兵がいる。
王徳は、田朔がここで何もできないことを知っていた。
田朔自身も分かっていた。
「20銭にしろ」
王徳が顔を上げた。
「何?」
「30銭は高い。20銭なら払う」
「お前、俺と値切る気か」
「10銭あれば飯が何回食えると思っている」
王徳はしばらく田朔を見たあと、笑った。
「25銭だ」
「20」
「25。それが嫌なら30だ」
田朔は考えた。
「分かった」
25銭を残した。
王徳が首を振る。
「変な若造だな」
「次に取るなら最初から言え」
「次があると思っているのか」
「兵舎で薪が足りなくなれば、誰かが集める」
「それがお前だと?」
「値が合えばな」
王徳が笑った。
「その口だけなら、もう大商人だ」
「口を利くだけなら銭はいらない」
田朔は残った銭を袋へ入れた。
兵舎を出ると、その足で農家を回った。
「遅くなった」
「本当に持ってきたのか」
「数えろ」
約束した薪代を渡す。
次の農家へ行く。
その次にも払う。
荷運び人4人にも運賃を渡した。
嫌味を言う者もいた。
「次は先払いで頼むぞ」
「分かった」
「もうお前の話は簡単には信用しないからな」
「次は支払う日まで紙へ書く」
「紙があっても銭がなければ同じだ」
田朔は言い返さなかった。
それも間違ってはいなかった。
2日かけて全員への支払いを終えた。
夜。
田朔は手元に残った銭を卓へ並べた。
田順が横から見る。
「いくら残った」
「57銭」
「薪を200束も売って、それだけか」
「王徳に25銭取られた。荷車も5台使った。最後は薪を集める値も上げた」
「立派な大商売だったな」
田順が笑った。
田朔は57銭を見た。
農家を何軒も回った。
金貸しには追い返された。
父に殴られた。
兵舎からも放り出された。
10日以上振り回されて、最後に残ったのが57銭だった。
「笑えるな」
田朔が言った。
「何が」
「200束も売ったのに、普段の小商いを10日ほど続けた時と大して変わらない」
「だが、借りは全部返した」
「銭は増えていない」
「信用までなくさずに済んだ」
田朔が父を見る。
「信用?」
「約束の日には遅れた。それでも逃げずに全員へ払った。少なくとも、田家は品を持って逃げる家ではないと分かっただろう」
「それで銭になるのか」
「お前は何でもすぐ銭にしたがるな」
「銭にならない物を持ってどうする」
田順は笑った。
「そのうち分かる」
田朔には納得できなかった。
ところが翌日、前に薪を預けた農夫が田家へ来た。
「田朔」
「何だ」
「豆を預けたい」
田朔は男を見る。
「俺でいいのか」
「遅れたが、ちゃんと払ったからな」
「どれだけある」
「5斗だ」
「分かった。売り先を探す」
田朔は紙を出し、品物と数量を書いた。
農夫が手元を見る。
「字まで書くようになったのか」
「少し前からだ」
「薪の時は、そんな物を見なかったぞ」
「だから失敗した」
農夫が笑った。
田朔は笑わなかった。
自分の失敗まで、すでに近隣へ広まっていた。
だが、その失敗のあとでも、また品を預けに来る者がいた。
父が言った意味を、田朔は少しだけ考えた。
◇ ◇ ◇
3月9日。
田朔は梁家へ干し肉を運んだ。
門を入ると、趙六がいた。
「借金取りから逃げ切ったか」
「誰から聞いた」
「お前の話は面白いからな」
「全部払った」
「全部?」
「そうだ」
趙六が少し意外そうな顔をした。
「それで、いくら儲かった」
「57銭」
趙六が声を上げて笑った。
「薪を200束も売って57銭か」
周囲の男たちも笑う。
田朔は相手にせず、干し肉を担いだ。
そこへ梁景成が来た。
「何を笑っている」
趙六が、田朔が軍へ薪200束を納めた話を面白そうに説明した。
梁景成は田朔を見る。
「いくら残った」
「57銭」
「そうか」
それだけだった。
田朔の方が聞いた。
「笑わないのか」
「なぜ笑う」
「200束売って57銭しか残らなかった」
「それで潰れなかったなら十分だろう」
田朔は眉をひそめた。
「十分なわけがない」
「では、次はもっと残せ」
「王徳に25銭取られた」
「取られる前に聞かなかったお前が悪い」
「支払いも10日遅れた」
「支払日を決めなかったお前が悪い」
「農家にも怒鳴られた」
「払えなかったんだから当然だ」
田朔は黙った。
梁景成は慰めもしなかった。
「初めて軍へ物を売って、57銭残った。それだけだ」
「それだけ?」
「大した話ではない」
梁景成は倉へ向かって歩き始めた。
田朔がその背中へ言う。
「次はもっと儲ける」
梁景成は振り返らなかった。
「好きにしろ」
田朔はしばらくその背中を見ていた。
趙六に笑われるより腹が立った。
梁景成にとって、田朔が苦労して薪200束を集めたことなど、本当に大した出来事ではないのだ。
競争相手とすら思われていない。
田朔は干し肉を担ぎ直した。
いつか、その顔を自分の商売へ向けさせたかった。




