第2話(後編)――「信用の値段」
384年2月下旬。
田朔の手元には、少しずつ注文札が増えていた。
薪。
豆。
縄。
卵。
干し肉。
炭。
大きな商いではない。
それでも、前より失敗は減った。
注文を紙に残す。
値段を決める。
数量を決める。
相手に印を押させる。
農家から品を預かる時にも、何をいくつ預かったかを書く。
田朔の字はまだ汚かったが、読めればよかった。
2月22日、城内の小さな酒肆の主人が田朔へ言った。
「軍の炊事場で薪を探しているらしい」
「どこだ」
「南の兵舎だ」
「どれくらい」
「知らん。かなり足りないらしい」
田朔はその日のうちに兵舎へ向かった。
門前で何度も追い返された。
「荷運びが何の用だ」
「薪を売る」
「商人を通せ」
「俺が商人だ」
兵士が田朔の服を見る。
「その格好で?」
周囲が笑った。
田朔は帰らなかった。
門から少し離れ、荷車の出入りを見た。
薪を積んだ荷車が中へ入る。
空になった荷車が出てきた。
田朔はその男へ近づいた。
「中では誰が薪を買っている」
「知らん」
「5銭やる」
「王徳という書吏だ」
「どうすれば会える」
「10銭なら教える」
「5銭で十分だ」
「なら知らん」
「7銭」
男が笑った。
「裏の小門で待て。夕方には出てくる」
田朔は7銭払った。
夕方、王徳に会えた。
40歳ほどの痩せた男だった。
「薪を集められるのか」
「何束いる」
「200束」
田朔は一瞬黙った。
今まで扱ったことのない量だった。
「いつまでだ」
「3日後」
「値は」
王徳が答えた。
悪くない値だった。
田朔は頭の中で計算した。
農家から集める値段。
父の荷車だけでは足りない。
別の荷車も借りる必要がある。
運び賃を払っても利益は残る。
「やる」
王徳が田朔を見る。
「お前が?」
「200束だろう」
「できなければ二度と来るな」
「紙に書け」
「何?」
「薪200束。3日後。値段も書け」
王徳が鼻で笑った。
「用心深い荷運びだな」
「前に騙された」
王徳は簡単な札を書き、印を押した。
田朔は内容を確かめた。
薪200束。
3日後に納入。
値段。
そこまで読んだ。
田朔は満足して札を懐へ入れた。
初めて大きな仕事を取った。
◇ ◇ ◇
田朔は城外を走り回った。
薪を持つ農家を訪ねる。
「3日後に兵舎へ売る。銭はそのあと払う」
「先に払え」
「今はない」
「なら売らん」
「兵舎が200束欲しがっている。売れるのは決まっている」
「お前が逃げたらどうする」
相手にされなかった。
別の農家へ行った。
同じだった。
20軒回って、預けてくれたのは4軒だけだった。
集まったのは37束。
200束には遠い。
田朔は家へ戻った。
「父さん、荷車を借りたい」
「毎日使っているだろう」
「違う」
「何が」
「荷車を担保にして銭を借りる」
田順の顔が変わった。
「駄目だ」
「3日だけだ」
「駄目だ」
「200束売れる」
「駄目だと言っている」
「これを逃したら」
「荷車は俺たちの飯だ」
「売れば返せる」
「返せなかったら?」
「返す」
「答えになっていない」
田順は荷車の前に立った。
「これは使わせん」
田朔は父を睨んだ。
田順も睨み返した。
その夜、田朔はなかなか眠れなかった。
翌朝、田順が荷車を引いて仕事へ出た。
田朔は別の道を歩いた。
◇ ◇ ◇
田朔は金貸しを訪ねた。
「2000銭借りたい」
男が笑った。
「何を担保にする」
「ない」
「帰れ」
「3日後に軍へ薪を納める」
王徳の札を見せる。
金貸しが読む。
「兵舎の書吏か」
「そうだ」
「これだけでは貸せない」
「1000銭」
「担保は?」
「ない」
「帰れ」
田朔は店を出た。
別の金貸しへ行った。
同じだった。
3軒目で男が言った。
「荷車でもあればな」
田朔は黙った。
「家は?」
「借りている」
「畑は?」
「ない」
「女房の持参金は?」
「女房はいない」
「では、お前には何もない」
田朔は店を出た。
金がない。
土地も家もない。
担保も信用もない。
頭の中でいくら利益を計算しても、それだけでは薪200束は集まらなかった。
梁景成なら200束どころではない。
2000束でも集めるだろう。
金がある。
倉がある。
荷車がある。
名前がある。
農民の方から梁家へ品を持ってくる。
田朔には何もなかった。
腹が立った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、田朔は父の帰りを待った。
荷車が戻ってくる。
「父さん」
「何だ」
「明日は荷運びを休んでくれ」
「何をする」
「薪を集める」
「まだ諦めていなかったのか」
「荷車は担保にしない」
「どうする」
「父さんの名前を借りる」
田順が眉をひそめた。
「俺の名前?」
「父さんは20年以上、この辺で荷を運んでいる」
「それがどうした」
「農家は父さんを知っている」
田順は黙った。
「俺には信用がない。でも父さんにはある」
「俺に借金させる気か」
「違う。薪を預けてもらう時に一緒に来てくれ」
「払えなかったら?」
「俺が何とかする」
「どうやって」
「その時考える」
田順の拳が田朔の頬へ飛んだ。
「痛いだろう」
「当たり前だ」
「俺もお前の話を聞いていると同じくらい頭が痛い」
田朔は頬を押さえた。
「だが200束売れば儲かる」
「お前は儲け話になると、俺の信用まで元手にするな」
田朔は否定しなかった。
田順がため息をつく。
「何軒回る」
「集まるまで全部だ」
「明日1日だけだぞ」
田朔が笑った。
「十分だ」
◇ ◇ ◇
田順が一緒に回ると、農家の態度は変わった。
「田順の息子なら」
「本当に兵舎へ売るんだな」
「お前が一緒なら預ける」
最初に集めた37束に加え、薪が増えていった。
68束。
105束。
翌日には164束。
最後は少し高い値を約束し、200束を揃えた。
父の荷車だけでは運べない。
田順の知り合いの荷運び人4人にも頼み、運賃は代金を受け取ってから払う約束をした。
3日後。
薪200束が兵舎へ運び込まれた。
王徳が数える。
「200束あるな」
「約束通りだ」
「分かった。10日後に来い」
田朔の顔が止まった。
「何?」
「代金だ。10日後に取りに来い」
「今日ではないのか」
「誰が今日払うと言った」
田朔は懐から札を出した。
王徳の印がある。
読み返す。
薪200束。
納入日。
値段。
銭を渡す日は、どこにも書かれていなかった。
田朔の顔から血の気が引いた。
王徳が笑った。
「字を覚えたばかりか?」
田朔は何も言えなかった。
「役所の銭がその場で出ると思ったのか」
「農家にはすぐ払う約束をしている」
「俺には関係ない」
田朔は札を握りしめた。
王徳はもう田朔を見ていなかった。
◇ ◇ ◇
翌日から農家が来た。
「銭は?」
「少し待ってくれ」
「すぐ払うと言ったぞ」
「兵舎の支払いが10日後になった」
「そんな話は知らん」
別の農夫も来た。
荷運び人も来る。
「運賃を払え」
「待ってくれ」
「いつまでだ」
「兵舎から銭が出るまでだ」
田家の前に人が集まった。
田順が田朔を睨む。
「どうする」
「何とかする」
「どうやって」
「考えている」
「考える前に約束したのは誰だ」
田朔は答えなかった。
夜になっても人が来た。
母まで不安そうな顔をしている。
田朔は家を出た。
兵舎へ行った。
王徳はいない。
翌朝も行った。
会えない。
3日目、門前で待った。
王徳が出てきた。
「またお前か」
「少しでも先に払え」
「10日後だ」
「農家が待たない」
「俺には関係ない」
田朔は動かなかった。
王徳が兵士へ目を向ける。
「追い出せ」
田朔は門の外へ放り出された。
地面へ倒れた。
兵士が笑う。
「荷運びが役所に逆らうな」
田朔は立ち上がった。
また負けた。
今度は自分の銭だけではない。
父が20年以上かけて作った信用まで使っていた。
◇ ◇ ◇
2月27日。
田朔は梁家へ行った。
仕事ではない。
門番に止められた。
「何の用だ」
「何小玉に会いたい」
門番が笑った。
「帰れ」
「伝えるだけでいい」
「梁家の妾を呼びつけるつもりか」
「違う」
「帰れ」
田朔は門の外で待った。
昼まで待った。
趙六が出てきた。
「何をしている」
「別に」
「女待ちか」
「仕事だ」
「仕事もないのに梁家へ来るな」
追い払われた。
田朔は少し離れた場所へ移った。
夕方、裏門から小玉が侍女と出てきた。
田朔が近づく。
「田朔?」
小玉が顔を見る。
「どうしたの。ひどい顔」
「元からだ」
「いつもよりひどい」
田朔は笑わなかった。
「少し聞きたい」
「何?」
「梁景成は軍に物を売っているか」
「旦那様?」
「そうだ」
「売っていると思うけれど」
「代金はすぐもらえるのか」
「知らないわ」
田朔は黙った。
小玉が心配そうに見る。
「何かあったの?」
「薪を200束売った。代金が10日後だと言われた」
「あら」
「農家にはすぐ払う約束をした」
「困ったわね」
「梁景成ならどうする」
小玉が少し考えた。
「旦那様なら、役所から銭が入るまで待つと思う」
「農家は?」
「梁家が先に払うでしょう」
「なぜできる」
「お金があるもの」
田朔は苦い顔をした。
「聞かなければよかった」
小玉が笑いそうになったが、我慢した。
「旦那様も最初からお金持ちだったわけじゃないって聞いたことがある」
田朔が顔を上げる。
「誰から聞いた」
「青蘭姉さん」
「何をしていた」
「詳しくは知らないわ。でも昔は、軍へ物を運ぶ仕事をしていたって」
「軍へ?」
「ええ」
田朔の目が変わった。
「誰と取引していた」
「そこまでは知らない」
「どの軍だ」
「知らないってば」
小玉が笑った。
「聞きすぎ」
田朔はそこで止めた。
「悪かった」
「珍しく謝った」
「今のは忘れろ」
「覚えておく」
小玉は侍女と一緒に歩き出した。
数歩進んでから振り返った。
「田朔」
「何だ」
「旦那様は軍の人と話をする時、青蘭姉さんを近くに置くことが多いわ」
田朔は黙って聞いた。
「どうしてかは知らないけれど」
小玉はそう言って去った。
田朔はその場に残った。
軍。
梁景成。
蘇青蘭。
今の田朔には、それだけで何かできるわけではなかった。
ただ、覚えておくことはできた。
◇ ◇ ◇
2月末。
田朔はまだ農家へ銭を払えていなかった。
荷運び人にも運賃が残っている。
王徳から代金が出るまでは、毎日のように誰かが田家へ来た。
田順は何も言わなくなった。
その方が田朔には堪えた。
夜。
田朔は王徳から受け取った札を卓上へ広げた。
薪200束。
納入日。
値段。
何度見ても、代金を渡す日は書かれていない。
田朔はそこを何度も見た。
読めなかったのではない。
最初から確かめなかった。
品を納めれば、その場で銭を受け取れると思い込んでいた。
それだけで父の信用まで危うくした。
田朔は別の紙を出した。
次から確認することを書いた。
数量。
値段。
納める日。
銭を受け取る日。
相手の名。
印。
それだけ書いても、まだ足りない。
相手が役人なら、約束を破られた時に自分が何をできるのかも考えなければならない。
今の田朔には何もできなかった。
外には父の古い荷車が置かれている。
自分の物ではない。
家も自分の物ではない。
土地もない。
倉もない。
今回使った信用さえ父のものだった。
梁景成は、そのすべてを持っている。
田朔は札を折った。
384年2月が終わった。




