第2話(中編)――「字には値段がある」
384年2月中旬。
郭安は、小さな店の奥で手紙や証文を書いて暮らしていた。
年は60を過ぎている。
右目が白く濁っていた。
「字を教えてほしい」
田朔が言うと、郭安は筆を置いた。
「何歳だ」
「18」
「今まで習わなかったのか」
「金がなかった」
「今はあるのか」
「少しある」
郭安が笑った。
「では1晩5銭だ」
「高い」
「なら帰れ」
「3銭」
「5銭」
「4銭」
「5銭」
「頑固だな」
「貧乏人ほど値切る」
田朔は5銭を払った。
その晩から、仕事が終わると郭安の店へ通った。
最初に習ったのは、田朔が商売で使う字だった。
米、麦、粟、豆、薪、炭、馬、牛、東、西、入、出、売、買、借、返。
2日目、郭安が前日に教えた字を指した。
田朔は全部読んだ。
郭安は新しい字を増やした。
3日目、それもほとんど読んだ。
「お前、本当に習ったことがないのか」
「ない」
「変な頭をしているな」
「褒めているのか」
「気味が悪いと言っている」
田朔は気にしなかった。
読める字が増えると、町の見え方が変わった。
店先の札。
倉の荷札。
値段を書いた紙。
役所の掲示。
これまで意味の分からなかった文字から、少しずつ内容を拾えるようになった。
田朔が特に熱心に覚えたのは、売買と貸し借りに使う字だった。
郭安が呆れた。
「少しくらい詩も覚えろ」
「詩を読んで銭になるのか」
「女にはもてる」
田朔の手が止まった。
「それは覚える価値があるな」
「そこだけ食いつくな」
◇ ◇ ◇
2月14日。
田朔は以前約束を破った飯屋へ行った。
主人が嫌そうな顔をした。
「また来たのか」
「薪はいるか」
「6束なら」
「明日の朝だな」
「そうだ」
田朔は懐から小さな紙を出した。
郭安に習った字で書く。
薪6束。
明朝。
値段も書いた。
「ここへ印を押せ」
主人が田朔を見る。
「何だこれは」
「約束だ」
「俺を疑っているのか」
「疑っている」
「正直な奴だな」
「前に豆で24銭払った」
「俺は知らん」
「だから今度は残す」
主人は嫌そうな顔をしたが、最後には印を押した。
翌朝、田朔は薪6束を届けた。
主人は前のように注文量を減らすことができなかった。
田朔は約束した代金を受け取った。
紙切れ1枚でも、あるのとないのでは違った。
その日から田朔は、注文を受けるたび簡単な札を書くようになった。
字はまだ汚い。
それでも数量と値段が分かればよい。
相手の印をもらう。
農家から品を預かる時にも、品物と数量を書いた札を渡した。
田順がそれを見る。
「字まで書くようになったのか」
「読めるか」
「俺に聞くな」
「父さんも読めないのか」
「荷車を引くのに字はいらん」
「だからずっと荷車を引いている」
田順の拳が田朔の頭へ落ちた。
「父親に向かって言うことか」
田朔は頭を押さえた。
「殴ることはないだろう」
「字を覚えても口は直らんな」
◇ ◇ ◇
2月16日。
田朔は南門近くを通った。
杜三がいた。
2人の手下と酒を飲んでいる。
田朔は反対側の道へ移った。
「おい」
杜三の声がした。
無視した。
「田朔」
名前まで知られていた。
田朔は足を止めた。
杜三が近づいてくる。
「商売がうまくいっているらしいな」
「誰から聞いた」
「俺の道を通る奴のことは知っている」
「今はお前の道で売っていない」
「そうらしいな」
杜三が田朔の肩へ腕を回した。
「だが長安へ入るだろう」
「それがどうした」
「銭を稼いだら、少しくらい俺にも寄こせ」
「嫌だ」
杜三が笑った。
田朔の腹へ拳が入った。
前と同じ場所だった。
田朔は体を折った。
杜三が耳元で言う。
「今度は10銭でいい」
田朔は腹を押さえながら顔を上げた。
「安くなったな」
もう1発来た。
田朔は地面へ倒れた。
杜三の手下が笑う。
「口の減らない奴だ」
田朔は10銭払った。
杜三たちは酒屋へ戻った。
田朔は立ち上がった。
追わなかった。
少し離れた場所へ移り、3人の動きを見た。
夕方まで見続けた。
杜三は酒を飲み、露店を回り、銭を集めた。
日が傾く頃、城門近くにいた男へ近づいた。
役人ではない。
門を守る兵の下働きをしている男だった。
杜三が銭を渡した。
男は受け取った。
2人は笑った。
田朔は離れた場所から見ていた。
誰が誰へ銭を渡しているのか。
誰が杜三の商売を黙認しているのか。
田朔にはまだ、杜三をどうにかする力はなかった。
だから見ておくしかできなかった。
◇ ◇ ◇
2月18日。
田朔は梁家へ麻袋を運んだ。
趙六は別の荷を見ていた。
田朔は荷札を手に取った。
ゆっくり読む。
「麻袋40。東倉」
前なら数字しか分からなかった。
今は前後の字も読める。
後ろから声がした。
「読めるようになったのね」
振り向く。
崔玉容だった。
「少しだけだ」
「何日習ったの?」
「10日ほど」
玉容が田朔を見る。
「10日?」
「遅いか」
「逆よ」
玉容は荷札を取った。
別の札を田朔へ渡す。
「読んでみなさい」
田朔は目を通した。
知らない字が3つある。
分かる部分だけ読んだ。
「麦20袋。西倉へ。受け取りは……ここが分からない」
「番頭よ」
「この字が番頭か」
「そう」
田朔はその字を見直した。
玉容がもう1枚渡す。
「これは?」
「炭30束。東倉。代金300銭」
「そこまでは正しい。その下は?」
田朔は見た。
読めない。
「分からない」
「代金をまだ払っていないという意味よ」
「この2字か」
「そう」
田朔は札を見つめた。
玉容が少し笑った。
「10日ですべて分かると思った?」
「分からないのが腹立たしい」
「それなら覚えればいいわ」
そこへ趙六が来た。
「奥様、こちらは私が」
「この男に荷札を読ませていただけよ」
「こんな荷運びに」
玉容が趙六を見る。
「あなたは先月、数を2度間違えたでしょう」
趙六が黙った。
田朔は笑いそうになった。
玉容が田朔を見る。
「笑わない方がいいわよ」
「笑っていない」
「顔が笑っている」
田朔は口元を戻した。
玉容は屋敷へ入っていった。
趙六が田朔を睨む。
「調子に乗るな」
「乗っていない」
「奥様に顔を覚えられたくらいで」
「お前よりは覚えられているかもしれないな」
趙六が手を上げた。
田朔はすぐに1歩下がった。
「殴ったら奥方に言うぞ」
趙六の手が止まる。
田朔は初めて、梁家の中で趙六に殴られずに済んだ。
それだけだった。
だが、その日は少し気分がよかった。
◇ ◇ ◇
帰り際、何小玉が裏門にいた。
田朔の指を見る。
「黒い」
「墨だ」
「字を習っているの?」
「少し読めるようになった」
「奥様に言われたから?」
「違う」
「そういうことにしておくわ」
小玉が笑った。
田朔は尋ねた。
「崔玉容はいつも帳簿を見ているのか」
「奥様?」
「そうだ」
「毎日よ。朝から番頭が帳簿を持ってくる日もあるし、夜まで見ている日もあるわ」
「梁景成より見るのか」
「旦那様は大きな商いを決めるの。細かいお金は奥様が見るって、青蘭姉さんが言っていた」
「喧嘩しないのか」
「誰と?」
「夫婦で」
小玉が笑った。
「するわよ」
「何で」
「そんなことまで聞くの?」
「ただの話だ」
「この前は、新しい倉を買うかどうかで言い合っていたわ」
「どっちが買いたがった」
「旦那様」
「玉容は反対か」
「今は穀物を買いすぎて、現金を減らしたくないって」
小玉はそこで口を押さえた。
「私、喋りすぎた?」
田朔は笑った。
「何も聞いていない」
「絶対覚えているでしょう」
「忘れた」
「嘘」
小玉が笑った。
田朔も笑った。
小玉が話したことは、全部覚えていた。




