第2話(前編)――「読めない帳面」
384年2月上旬。
田朔の商売は、少しずつ形になっていた。
朝、城外の農家から薪、豆、卵、縄などを預かる。昼までに長安へ運び、宿屋、酒肆、飯屋、商家へ売る。売れた分から手数料を取り、残った品は持ち主へ返す。
自分で品を買わないため、大きな元手はいらない。
先に城内を回り、何を欲しがっている店があるのかも調べるようになった。
「明日は薪が12束欲しい」
宿屋の主人が言えば、田朔は覚える。
「豆を3斗」
飯屋に頼まれれば、その数字も忘れない。
紙へ書かなくても、頭には残った。
最初の数日はうまくいった。
田順の荷車へ品を積み、朝から晩まで長安を歩く。
手数料は1日20銭から30銭ほどだった。
田順が荷運びだけをしていた時に比べれば、親子で手にする銭は少し増えた。
父も田朔の商売に口を出さなくなった。
2月4日、田朔は城内の飯屋から豆4斗の注文を受けた。
「明日の朝だ」
「4斗だな」
「そうだ」
田朔は城外へ戻り、農家2軒から豆を集めた。
翌朝、父の荷車へ積んで飯屋へ運んだ。
主人が荷を見る。
「こんなに頼んでいない」
田朔は眉をひそめた。
「4斗だ」
「2斗だ」
「昨日、4斗と言った」
「俺が?」
「そうだ」
「聞き間違えただけだろう」
田朔は主人を見る。
男は平然としていた。
豆の値が昨日より下がっている。
田朔には理由が分かった。
「値が下がったから、4斗いらなくなったんだろう」
「何を言っている」
「昨日は4斗欲しかった。今日は2斗でいい。それだけだ」
「証拠はあるのか」
田朔は黙った。
「誰か聞いていたのか」
誰もいなかった。
「だったら2斗だけ置いていけ」
「残りはどうする」
「知らん」
田朔は主人を睨んだ。
殴るわけにはいかない。
騒いでも証拠がない。
結局、豆2斗を売り、残りを荷車へ戻した。
城外へ帰る途中、何軒かの店へ売ろうとした。
だが、昨日より値が下がっていた。
農家から預かった値段では買ってもらえない。
夕方、残った豆を持ち主へ返した。
農夫が不機嫌そうな顔をした。
「売れると言ったじゃないか」
「客が約束を変えた」
「それはお前と客の話だろう」
「俺が買い取ると言ったわけじゃない」
「だが、昨日なら俺も別の商人へ売れた」
田朔は言葉に詰まった。
その通りだった。
もう1人の農夫も怒った。
「お前に預けたから、他へ売らなかったんだぞ」
田朔は2人を見た。
「昨日売っていたら、今日よりいくら多く入った」
「何だ」
「差額だ」
田朔が計算した。
合わせて24銭だった。
自分の銭を出す。
「これでいいか」
農夫が銭を受け取った。
「次はちゃんと売れ」
「分かっている」
家へ戻った時、田朔の手元にはほとんど銭が残っていなかった。
田順が聞いた。
「今日はどうだった」
「24銭払った」
「何を買った」
「何も買っていない」
「何も買わずに24銭なくしたのか」
「客が約束を変えた」
田順はしばらく息子の顔を見た。
「お前の商売は面白いな」
「笑うな」
「草鞋より進歩した」
「どこがだ」
「今日は殴られていない」
田朔は返事をせず、飯を食った。
◇ ◇ ◇
2日後、田順と田朔は梁家へ薪を運んだ。
裏門から入ると、趙六が荷札を受け取った。
「薪14束」
「12束だ」
田朔が言った。
趙六が顔を上げる。
「黙っていろ」
「荷札には何と書いてある」
「お前に関係あるか」
「俺たちが運んだ荷だ」
趙六が木札を田朔の顔の前へ出した。
「読め」
田朔は木札を見る。
数字は分かる。
だが、その前後の文字は半分以上読めなかった。
趙六の口元がゆがんだ。
「どうした」
田朔は黙った。
「読めないのか」
近くにいた使用人がこちらを見る。
趙六が木札を田朔の胸へ押しつけた。
「人の仕事に口を出す前に、字くらい読め」
笑いが起きた。
田朔は木札を見たまま動かなかった。
趙六が取り返そうとする。
その時、女の声がした。
「その荷札を見せなさい」
笑い声が止まった。
田朔が振り向く。
濃紺の衣を着た女が立っていた。
崔玉容だった。
梁景成の正妻である。
後ろには侍女が2人いる。
趙六が急いで頭を下げた。
「奥様」
玉容は木札を受け取った。
「12束ね」
「はい」
「なぜ14束と言ったの」
趙六の顔がこわばった。
「別の荷と勘違いしました」
「そう」
玉容はそれ以上責めなかった。
今度は田朔を見る。
「あなたが田朔?」
田朔は少し驚いた。
「俺を知っているのか」
侍女が眉をひそめた。
「言葉を慎みなさい」
玉容は気にしなかった。
「先月、倉で量をめぐって騒いだ荷運びでしょう」
「騒いだのは趙六だ」
「あなたも十分騒いだと聞いているわ」
田朔は黙った。
玉容が木札を見せた。
「これは読める?」
「数字は読める」
「ほかは」
「少しだけだ」
「自分の名前は書ける?」
「書ける」
「では、ここに何と書いてある?」
田朔は分からなかった。
玉容は待った。
田朔は仕方なく答える。
「読めない」
「そう」
玉容は木札を趙六へ返した。
「なら、荷札に何が書いてあるか分からないまま口を出したのね」
「数は覚えている」
「人の記憶だけで商売をするの?」
「俺は忘れない」
「あなたが忘れなくても、相手が忘れたと言えば終わるでしょう」
田朔の顔が険しくなった。
2日前の飯屋を思い出した。
玉容はその表情を見た。
「もう経験したようね」
田朔は答えなかった。
「数字を覚えられるのは役に立つ。でも、書いて残せなければ、力のある相手には勝てないわ」
玉容は屋敷の奥へ歩き始めた。
途中で1度だけ振り返る。
「字を覚えなさい」
田朔はその背中を見送った。
趙六が横から笑う。
「奥様に字を教えてもらえてよかったな」
田朔は趙六を見た。
「お前も荷札を間違えていたな」
周囲にいた男の何人かが吹き出した。
趙六の顔が赤くなる。
「荷を運べ」
田朔は薪を担いだ。
◇ ◇ ◇
その日の午後、裏門近くで何小玉に会った。
「今日は殴られていないのね」
「皆、俺を見ると最初にそれを聞くのか」
「前はいつも腫れていたから」
「今日は字が読めないと笑われた」
「誰に?」
「趙六」
「また?」
「奥方にも言われた」
小玉の目が少し大きくなった。
「奥様と話したの?」
「少しな」
「怖かったでしょう」
「別に」
「嘘」
田朔は笑った。
「字を覚えろと言われた」
「覚えればいいじゃない」
「誰に教わる」
小玉が少し考えた。
「市場の南に代書をしている老人がいるわ。梁家の使用人も手紙を書いてもらうことがあるの」
「名前は」
「郭安。片目が白く濁っているから、すぐ分かると思う」
「いくら取る」
「知らない」
「そこまでは役に立たないな」
小玉が田朔の腕を軽く叩いた。
「せっかく教えたのに」
「冗談だ」
「あなた、いつか本当に殴られるわよ」
「もう何度も殴られている」
小玉が笑った。
田朔も笑った。
その夜、田朔は市場の南へ向かった。
片目の白い老人を探した。




