第1話(後編)――「7番目の妾」
384年1月下旬。
田朔は自分で品物を買うのをやめた。
商売をやめたわけではない。
城外の農家を回った。
最初に訪ねた家には薪が積んであった。
「これを長安へ持っていく」
農夫が怪しそうに見る。
「いくらで買う」
「買わない」
「なら何をする」
「俺が売る。売れたら代金の10分の1をもらう」
「売れなかったら」
「持って帰る」
「お前は何も損しないじゃないか」
「荷車を使う。半日潰れる。売る場所も探す」
「それで10分の1か」
「嫌なら自分で長安まで運べ」
農夫は荷車を持っていなかった。
しばらく考えたあと、薪8束を田朔へ預けた。
田朔は別の家へ行った。
干した豆を預かった。
さらに別の家から縄を預かった。
父の荷車へ載せる。
田順が呆れた顔をした。
「他人の物ばかりだな」
「買う金がない」
「売れなかったらどうする」
「返す」
「お前の銭は減らないな」
「そういう商売だ」
「俺の荷車は使うぞ」
「運賃は払う」
「いつ」
「売れたら」
田順が笑った。
「ずいぶん都合がいいな」
「銭がないんだから仕方ない」
長安へ入ると、田朔は宿屋、酒肆、飯屋を回った。
薪は午前中に全部売れた。
縄も売れた。
豆は半分残った。
残った豆は農家へ持ち帰った。
売れた分の代金を持ち主へ渡し、約束通り10分の1を取った。
その日の田朔の取り分は27銭だった。
そこから父へ荷車の運賃として10銭渡した。
手元に17銭残った。
田順が銭を数えた。
「17銭か」
「そうだ」
「草鞋の損は18銭だったな」
「明日には取り返す」
「まだ1銭負けている」
「細かいな」
「銭は細かく数えるものだ」
田朔は翌日も農家を回った。
今度は先に城内で話を聞いた。
どの宿屋が薪を欲しがっているか。
どの飯屋が豆を使うか。
注文の見込みを確かめてから、品物を集めた。
3日目には売れ残りがほとんどなくなった。
5日目になると、農家の方から声をかけてきた。
「田朔、明日これを持っていけないか」
「何だ」
「薪だ」
「何束ある」
「10束」
「朝までにまとめておけ」
大した商売ではない。
荷車も父の物だ。
売っている品物も他人の物だった。
それでも、田朔が自分で客と品物をつなげれば銭が残った。
少なくとも、杜三に殴られて草鞋を失うよりはましだった。
◇ ◇ ◇
1月25日。
梁家から田順へ急な運び仕事が来た。
東の倉から西の倉へ酒と乾物を移すため、人手が必要だという。
田順は喜んで引き受けた。
田朔も梁家へ入った。
仕事は朝からきつかった。
趙六が庭を通らせなかった。
「外を回れ」
「昨日は庭を通った」
「今日は駄目だ」
「なぜだ」
「俺が駄目だと言ったからだ」
田朔は酒樽を担いで屋敷の外周を歩いた。
雪が残り、足元が滑る。
昼になった。
梁家の常雇いには熱い粥が配られた。
田朔たち臨時の荷運びには何も来なかった。
「飯はないのか」
田朔が聞いた。
趙六が笑った。
「食いたければ自分で買え」
田朔は朝から何も食べていなかった。
空腹のまま荷を運んだ。
午後になると、趙六が酒樽の1つを指した。
「傷がある」
「最初からだ」
「お前がぶつけた」
「見たのか」
「見なくても分かる」
「なら俺にも分かる。お前が嘘をついている」
趙六が笑った。
「給金から20銭引く」
田朔が前へ出た。
父が腕をつかんだ。
「朔」
「離せ」
「やめろ」
「こいつは」
「20銭で済むうちにやめろ」
田朔は趙六を睨んだ。
ここで殴りかかれば、梁家の使用人たちまで相手にすることになる。たとえ趙六を殴れても、父まで仕事を失えば割に合わない。
結局、20銭引かれた。
何もできなかった。
帰り際、趙六が後ろから声をかけた。
「また来いよ。梁家の女も見られるぞ」
周囲が笑った。
田朔は振り返らなかった。
20銭。
自分で何日も歩き回り、農家から品物を預かり、城内で売って稼ぐ銭が、一言で消えた。
梁景成に勝つどころではなかった。
その家の荷役を仕切る男1人にも逆らえない。
◇ ◇ ◇
翌日も梁家へ行った。
田順が驚いた。
「昨日の今日だぞ」
「仕事がある」
「趙六がいる」
「知っている」
「また銭を引かれるぞ」
「今日は証拠を残す」
田朔は荷を受け取る前に、樽や箱の傷を1つずつ確かめた。
近くにいた別の荷運び人にも見せた。
「これ、最初から割れているな」
「そうだな」
「覚えておいてくれ」
「何で俺が」
「飯を奢る」
「なら覚える」
田朔は前日と同じ失敗をしなかった。
昼過ぎ、裏門近くへ荷を置いていると、何小玉が出てきた。
この日は侍女が一緒ではなかった。
「今日は殴られていないのね」
「昨日、20銭取られた」
「誰に?」
「梁家の偉い男だ」
「旦那様?」
「もっと小さい」
小玉は少し考えた。
「趙六?」
「知っているのか」
「皆、知っているわ」
「嫌われているのか」
「好かれてはいないでしょうね」
田朔は笑った。
「それを聞いて安心した」
「どうして?」
「俺だけ嫌われているわけじゃない」
小玉も笑った。
田朔は懐から小さな紙包みを取り出した。
「やる」
「何?」
「棗」
小玉が目を丸くした。
「この前、持っていただろう」
「覚えていたの?」
「見たものは忘れにくい」
小玉は包みを受け取った。
「いくら?」
「いらない」
「それでは悪いわ」
「梁家の妾から棗代を取ったら、趙六にまた20銭引かれる」
小玉が声を出して笑った。
「そんなことで引かれないわよ」
「梁家は怖い」
「嘘ばかり」
田朔は辺りを見た。
「今日は静かだな」
「旦那様が外へ出ているから」
「どこへ」
「知らないわ。彩児姉さんも一緒だったから、馬のことでしょう」
「馮彩児か」
小玉が少し驚いた。
「名前を覚えたのね」
「崔玉容、蘇青蘭、馮彩児。何小玉」
「奥様を呼び捨てにしたら怒られるわよ」
「本人はいない」
「私もいるけれど」
「お前は怒らない」
「どうして分かるの」
「もう4回くらい怒る機会があった」
小玉はまた笑った。
「奥様は本当に怖いわよ」
「崔玉容か」
「また呼び捨て」
「何が怖い」
「家のお金をほとんど見ているの。番頭でも帳簿をごまかしたら、すぐ分かるわ」
「青蘭は」
「青蘭姉さんは怖くない。でもお客様の顔も、話したこともよく覚えている」
「彩児は馬か」
「そう。馬市へ行く日は旦那様より早く起きるのよ」
「朝から馬か」
「本人に言ってみれば」
「蹴られそうだ」
「馬より先にね」
2人で笑った。
屋敷の奥から小玉を呼ぶ声がした。
「行かなきゃ」
「棗は食え」
「ありがとう」
小玉は屋敷へ戻った。
田朔は追いかけなかった。
呼び止めもしなかった。
荷を運びながら、小玉が自分から話したことを覚えておいた。
崔玉容は帳簿を見る。
蘇青蘭は客の顔と話を覚えている。
馮彩児は梁景成と馬市へ出る。
それだけだった。
今の田朔には何の役にも立たない。
それでも忘れる理由はなかった。
◇ ◇ ◇
1月30日。
田朔は父と長安を出た。
この10日で、自分の取り分として得た銭を数える。
委託で売った品物の手数料。
父へ払った荷車代。
飯代。
趙六に引かれた20銭。
全部差し引くと、手元に残った利益は36銭だった。
田順が横から覗いた。
「大商人になったな」
「笑うな」
「梁旦那なら、今ごろお前の何年分稼いでいるだろうな」
「そのうち抜く」
田順が大声で笑った。
「まず趙六を抜け」
田朔は黙った。
腹が立つほど正しかった。
梁景成どころではない。
今の田朔は、梁家の荷役を仕切る男に20銭取られても、取り返す手段がない。
殴り返せば梁家そのものを敵に回す。仕事を断る余裕もなかった。
崔玉容には顔さえ覚えられていない。
蘇青蘭とは一言も話していない。
馮彩児には、荷車の横に立つ貧しい若者として見られただけだ。
何小玉だけは田朔の名前を覚えていた。
棗を受け取った。
笑って話をした。
田朔は荷車を押した。
長安の城壁が夕日の中に沈んでいる。
父の荷車は古い。
自分の銭は36銭しかない。
顔にはまだ殴られた痕が残っている。
梁家では、田朔を恐れる者など1人もいない。
384年1月が終わった。
田朔はまだ、長安の底にいた。




