第1話(中編)――「初めての損」
384年1月中旬。
長安では粟の値が上がり始めた。
田朔は城外の農家を回った。
遅かった。
数日前まで1袋500銭前後だった粟を、商人たちが550銭、場所によっては600銭近くで買っている。
「誰が買った」
農夫に尋ねた。
「梁家だよ。昨日、荷車が何台も来た」
田朔は舌打ちした。
別の村へ行った。
そこにも梁家の者が来ていた。
さらに西へ向かった。
やはり先を越されていた。
田朔が敗兵を眺めて値上がりを考えていた時には、梁景成はすでに買い始めていたらしい。
しかも買っている量が違った。
田朔には1袋を買う金すらない。
梁景成は倉単位で買っている。
家へ戻ると、母が小さな壺から銭を出していた。
冬を越すために貯めている金だった。
「300銭ある」
田朔が言った。
田順が睨んだ。
「見るな」
「貸してくれ」
「何に使う」
「商売だ」
「粟か」
「もう買えない」
「なら何を買う」
「考える」
「考えてから言え」
田朔は黙った。
母が田順を見る。
「100銭くらいなら」
「100銭を失えば、春までの油代が減る」
「失わない」
田朔が言った。
田順は鼻で笑った。
「梁家で殴られた男が、よく言う」
その夜、田朔は何を買えばよいか考え続けた。
敗兵は食う。
飲む。
歩く。
馬も食う。
粟や馬草は梁景成が押さえている。
酒も元手が足りない。
翌朝、田順へ言った。
「100銭貸してくれ」
「何を買う」
「草鞋」
「草鞋?」
「兵が戻っている。履き潰している者が多い」
田順はしばらく息子を見た。
「100銭だけだ」
「十分だ」
「なくしたら、俺の酒代から取り返すなよ」
「父さんの酒代など知らん」
田順が100銭を投げた。
田朔は拾った。
◇ ◇ ◇
田朔は城外で草鞋を20足買った。
1足5銭だった。
南門の近くなら敗兵が通る。
考え自体は悪くなかった。
問題は、田朔が南門の商売を何も知らなかったことだ。
道端へ敷物を広げて間もなく、3人の男が来た。
先頭の男は杜三と呼ばれていた。
「誰に断って商売している」
田朔は男を見た。
「道で物を売るのに、誰へ断る」
杜三が笑った。
「俺だ」
「お前の道なのか」
「ここではそうだ」
田朔は周囲を見た。
他の露店商は誰もこちらを見ようとしない。
そこで初めて分かった。
「いくらだ」
「50銭」
「草鞋を全部売っても、そんなに残らない」
「なら草鞋を置いていけ」
「嫌だ」
杜三が田朔の胸を押した。
田朔も押し返した。
次の瞬間、腹へ拳が入った。
息が止まった。
膝をついたところで背中を蹴られた。
田朔は幼い頃から父と荷を運んできたため、肩や腕、腰には力仕事で鍛えた力がある。しかし、殴り合いの経験はほとんどなかった。
しかも相手は、喧嘩慣れした杜三を含む3人だった。
杜三の仲間が草鞋を4足持っていった。
「場所代だ」
3人はそのまま去った。
田朔は地面へ手をついたまま見送った。
追えば、もっと殴られる。
そこまで馬鹿ではなかった。
口の端から血が出ていた。
しばらく休んでから、商売を再開した。
その日は9足売れた。
1足6銭で、54銭になった。
7足残った。
夜、家へ戻ると、田順が息子の顔を見た。
「今度は誰に殴られた」
「客だ」
「ずいぶん親切な客だな」
田朔は54銭を卓上へ置いた。
「20足買って、4足取られた。9足売った。7足残っている」
田順が残った草鞋を見る。
「まだ損したとは決まっていないな」
「全部売れば戻せる」
「売れればな」
翌日、田朔はまた南門へ行った。
杜三が見える場所には近づかなかった。
しかし前日ほど草鞋は売れなかった。
戻ってくる兵の数は多いが、同じことを考えた商人も増えていた。
値を5銭へ下げた。
それでも2足残った。
翌日、残りを4銭で売った。
全部の売上を数える。
82銭。
元手は100銭。
18銭の損だった。
殴られた上に18銭失った。
家へ帰ると、田順が聞いた。
「倍になったか」
「82銭になった」
「減っているな」
「分かっている」
「商売とは不思議なものだ」
「黙れ」
母が笑いをこらえていた。
田朔は腹立ちまぎれに飯を食った。
だが、寝床へ入ってから考えた。
草鞋が売れないと読んだわけではない。
実際、売れた。
問題は、売る場所の決まりを知らなかったことだ。
さらに、自分が考えたことは他人も考える。
先に動かなければ値段は下がる。
田朔は杜三の顔と、売れ残った草鞋の数を忘れなかった。
◇ ◇ ◇
1月17日。
田朔は父と梁家へ酒樽を運んだ。
西側の倉には、新しい粟袋が積み上げられている。
先週より明らかに増えていた。
趙六が近づいてきた。
「今度は商人になったそうだな」
「誰から聞いた」
「南門で殴られた荷運びの話なら、何人も知っている」
近くの男たちが笑った。
「売れたぞ」
田朔が言った。
「顔も一緒に売ったのか」
また笑われた。
田朔は返事をせず、酒樽を下ろした。
昼過ぎ、何小玉が裏庭から出てきた。
侍女を1人連れている。
小玉が田朔に気づいた。
「田朔」
名前を覚えていた。
「今日は棗を落とさないのか」
「落としたら拾ってくれるでしょう」
「拾うだけならな」
小玉は田朔の顔を見た。
「また腫れている」
「草鞋を売った」
「草鞋を売ると殴られるの?」
「長安ではそうらしい」
小玉が笑った。
「売れたの?」
「売れた」
「それならよかったじゃない」
「18銭損した」
小玉はまた笑った。
「全然よくないわね」
「次は取り返す」
侍女が小玉を促した。
「奥様」
「分かっているわ」
田朔は小玉の後ろに見える倉を見た。
「今日はずいぶん人が多いな」
「旦那様が西の倉を見る日だからじゃない?」
田朔は小玉を見る。
「自分で見るのか」
「たまにね。そういう日は朝から皆、慌ただしいの」
侍女が小玉の袖を引いた。
「参りましょう」
「はいはい」
小玉は田朔へ軽く手を振って去った。
田朔は追って質問しなかった。
酒樽を運びながら、今聞いたことだけ覚えた。
梁景成は、自分で西の倉を確かめる日がある。
その日は朝から屋敷が動く。
今すぐ役に立つ話ではなかった。
だから忘れないでおけばよかった。
◇ ◇ ◇
2日後、梁景成が倉へ現れた。
田朔は乾物を下ろしていた。
梁景成が、腫れの残る田朔の顔を見た。
「南門は高い授業料を取るらしいな」
田朔は手を止めた。
「知っているのか」
「杜三の縄張りで勝手に商売を始めれば、誰でもそうなる」
「知っているなら先に教えろ」
「なぜ俺がお前に教える」
田朔は言葉に詰まった。
梁景成が積まれた荷を見た。
「何を売った」
「草鞋だ」
「悪くはない」
田朔は意外そうに梁景成を見る。
「だったら何で俺は損した」
「品物ではなく、場所と時を買い損ねたからだ」
「場所と時?」
「草鞋を欲しがる兵が増えることは、お前にも分かった。だが、どこで売れば銭を取られるかを知らなかった。競争相手がいつ増えるかも見ていなかった」
田朔は黙った。
「品物だけ見て商売をした。それでは足りん」
梁景成は西の倉を指した。
「俺は粟だけを買っているわけではない。馬草も買った。薪も買った。酒も買った」
「銭があるからできる」
「そうだ」
梁景成はあっさり認めた。
「だから銭のない者は、銭のないやり方を考えろ」
田朔は顔を上げた。
梁景成はすでに歩き始めていた。
「俺ならそうする」
そのまま倉の奥へ消えた。
田朔はしばらく動かなかった。
梁景成に教えられたことが腹立たしかった。
だが、その言葉だけは頭から離れなかった。
銭のない者は、銭のないやり方を考える。




