第1話(前編)―――「門の外の男」
384年1月上旬。
長安の南から戻ってくる兵が増えていた。
勝って帰った兵には見えなかった。鎧をなくし、槍を杖代わりにして歩く者がいる。片方の草鞋を失い、布を足へ巻いている者もいる。馬に乗っていても、鞍の後ろに武具ではなく鍋や毛布を縛り付けていた。
18歳の田朔は、父の田順が引く荷車の後ろを押しながら、通り過ぎる兵を見ていた。
田順は43歳になる。長安城外の粗末な家で妻と息子を養い、農家や商人から荷を預かって城内へ運び、日銭を稼いでいた。
この日の荷は薪12束と粟6袋だった。
田朔は兵を見るたびに歩みを遅くした。
「前を見ろ」
田順が振り返った。
「荷車を溝へ落としたら、今日の稼ぎが飛ぶぞ」
「兵が増えた」
「見れば分かる」
「3日前より多い」
「だから何だ」
田朔は答えなかった。
兵の腰を見る。乾いた餅をぶら下げている者が少ない。城門の近くでは草鞋を売る露店に人が集まり、粥を売る店にも列ができていた。
酒屋には朝から客が入っている。
馬草を積んだ荷車も多い。
田朔は見たものを覚えておいた。
この日の届け先は、長安でも名の知られた大商人、梁景成の屋敷だった。
田順は梁家と直接取引をしているわけではない。梁家へ薪や穀物を納める商人から、運び仕事を回してもらっているだけだ。
梁家の屋敷へ近づくと、田朔は歩みを止めそうになった。
門だけでも大きかった。左右には高い塀が延びている。
門前には荷車が並んでいた。
米、粟、麦、薪、炭、酒樽、布。
10台や20台ではない。
馬をつないだ場所もあり、護衛まで立っていた。
「見るな。働け」
田順が言った。
「数えている」
「何をだ」
「荷車だ」
「そんなものを数えて銭になるなら、好きなだけ数えろ」
田朔は黙って数えた。
門前に37台。
自分たちの順番が来るまでに、さらに7台入ってきた。
梁家の門番が荷札を見た。
「薪は裏へ回せ。粟は東の倉だ」
田順が頭を下げた。
田朔も荷車を押した。
東の倉では、太った男が荷を受け取っていた。
梁家の荷役を取り仕切る趙六という男だった。
粟は城外の農家から預かってきたもので、出荷時には全部で3石あった。
趙六の手下が袋を開け、梁家の斗と升で量り直していく。
最後に趙六が木札へ数字を書いた。
「2石8斗8升」
田朔が顔を上げた。
「少なすぎる」
田順の顔色が変わった。
「朔」
田朔は聞かなかった。
「出す時には3石あった。運ぶ途中で少しくらいこぼれても、1斗2升も減らない」
趙六が田朔を見た。
「お前は誰だ」
「運んできた者だ」
「荷運びが梁家の量り方に文句をつけるのか」
「量り方ではない。その数字がおかしいと言っている」
田順が息子の腕をつかんだ。
「黙れ」
遅かった。
趙六の平手が田朔の頬へ飛んだ。
乾いた音が倉に響いた。
「もう1度言ってみろ」
田朔はよろけた。
口の内側が切れた。
「少ないと言った」
趙六がもう1度手を上げた。
その時、後ろから声がした。
「何をしている」
周囲の使用人が一斉に姿勢を正した。
田朔は初めて梁景成を見た。
36歳だった。
黒い毛皮を肩に掛け、腰には剣を下げている。商人と聞いていたが、腹の出た男ではない。背は田朔より高く、姿勢もよかった。
趙六が事情を説明した。
梁景成は田朔を見た。
「3石あったのを見たのか」
「見た」
「何で量った」
「農家の木斗だ」
「その斗と、うちの斗が同じ大きさだと確かめたか」
田朔は黙った。
「印はあったか」
「見ていない」
「なら3石という数字そのものが、ここで量る3石と同じとは限らん」
田朔は言い返した。
「それでも減りすぎている」
「それは調べれば分かる」
梁景成は趙六を見た。
「別の斗を持ってこい」
倉の奥から、役所の検印がある斗と升が運ばれてきた。
別の男が最初から量り直した。
「2石9斗4升です」
最初より6升多かった。
趙六の顔色が変わった。
梁景成は怒鳴らなかった。
「不足した6升分は趙六の給金から引け」
「旦那様」
「聞こえなかったか」
「はい」
田朔は口の端をぬぐった。
自分が勝ったと思った。
梁景成がこちらを見るまでは。
「お前も覚えておけ」
「何をだ」
「お前の疑いは当たった。だが、証拠を持たずに相手を盗人扱いした」
「実際にごまかしていた」
「今回はな」
梁景成は田朔の腫れた頬を見た。
「相手が趙六だから、その程度で済んだ。軍の役人を同じやり方で責めたらどうなる」
「間違っているなら言う」
「死ぬだけだ」
周囲で笑い声が起きた。
田朔の顔が熱くなった。
「頭を使うなら、口を開く前に使え」
梁景成はそれだけ言って倉を出ていった。
田朔はその背中を睨んだ。
腹が立った。
だが、言い返せなかった。
自分は趙六の不正を見抜いた。
それでも梁景成には、その先まで見られていた。
そのことが一番気に入らなかった。
◇ ◇ ◇
3日後、田朔は再び梁家へ荷を運んだ。
今度は炭だった。
門の内側で順番を待っていると、奥から3人の女が歩いてきた。
先頭の女は濃紺の衣を着ていた。派手な装飾はないが、布地からして高価だと分かる。
その隣には赤みを帯びた華やかな衣の女がいる。
少し後ろには、馬鞭を持った若い女が続いていた。
3人とも目を引く容姿だった。
田朔は荷車の横に立ったまま見ていた。
馬鞭を持った女と目が合った。
田朔は目をそらさなかった。
女が笑った。
赤い衣の女も田朔へ目を向けた。
「誰かしら」
「荷運びでしょう」
濃紺の衣の女は田朔など見なかった。
そのまま通り過ぎた。
田朔は3人の後ろ姿を見送った。
横から頭を叩かれた。
趙六だった。
「何を見ている」
「女だ」
「見れば分かる」
近くにいた男たちが笑った。
趙六は田朔の破れた袖をつまんだ。
「梁家の女を見る前に、自分の袖を直せ」
また笑いが起こった。
田朔は袖を振り払った。
「見るだけなら銭はいらない」
「その口がいつまで付いているか見ものだな」
田朔は炭を担いだ。
その日の休憩時、別の荷運び人に3人のことを聞いた。
「あれが梁旦那の正妻、崔玉容だ」
「濃紺の女か」
「そうだ。隣が第一妾の蘇青蘭。馬鞭を持っていたのが馮彩児だ」
「妾は2人だけか」
男が笑った。
「7人いる」
「7人」
「正妻を入れれば8人だ。お前には一生縁がない」
田朔は笑われても気にしなかった。
3人の名前を覚えた。
◇ ◇ ◇
1月8日。
田朔は梁家の裏門で1人の女と出会った。
正妻や先日見た妾たちほど華やかな衣ではない。
淡い色の上着を着て、小さな包みを持っている。
女の前を歩いていた侍女が雪の残った地面で足を滑らせた。
包みが落ちた。
中から干した棗が転がった。
田朔は近くにいた。
棗を拾う。
侍女が受け取ろうとしたが、女が先に言った。
「ありがとう」
田朔は女を見た。
20歳ほどだ。
派手さはないが、整った顔立ちをしている。
「食べ物を落とすと叱られるのか」
侍女が眉をひそめた。
「余計なことを言わないで」
女が笑った。
「私が食べたかっただけよ」
「梁家でも棗くらい自分で買うのか」
侍女がまた怒ろうとした。
女が止めた。
「あなた、梁家の人ではないでしょう」
「荷を運んでいる」
「名前は」
「田朔」
「私は何小玉」
侍女が小声で言った。
「奥様、参りましょう」
田朔はその呼び方を聞いた。
小玉が去ったあと、先ほどの荷運び人を見つけた。
「あの女も妾か」
「知らなかったのか」
「何番目だ」
「7番目だよ。妾の中では一番下だ」
「そうか」
「何を考えている」
「何も」
「その顔で言うと怪しいな」
男は笑って荷を担いだ。
田朔は裏門の方を見た。
その日、梁家へ出入りした荷車は、朝から夕方までに62台あった。
田朔は全部覚えていた。
父と2人で1日働いて得る銭など、梁家の馬が何日か食う餌代にも届かない。
帰り道、田順が息子の頬を見た。
「まだ腫れているな」
「治る」
「梁家で余計な口を利くな」
「父さん」
「何だ」
「梁景成は荷車を何台持っている」
「知らん」
「倉は」
「知らん」
「店は」
「知らん」
「妻は1人、妾が7人いる」
田順が足を止めた。
「お前は何を調べているんだ」
「別に」
田順は息子の頭を軽く叩いた。
「余計なことを考える暇があるなら押せ」
田朔は荷車を押した。
長安の城壁が前方に見えている。
梁家の屋敷も、その中にある。
歩けば半日もかからない。
だが、田朔には途方もなく遠い場所に見えた。




