第1話(後編)――「兵には毎月銭がいる」
385年9月下旬。
朝から雨が降っていた。
漢中の屋敷裏にある土の広場では、護衛たちが濡れた地面を避けて軒下に集まっている。剣や槍を手入れする音が続き、馬小屋からは湿った藁と獣の匂いが流れてきた。
田朔は段烈を帳場へ呼んだ。
彩児との婚姻はすでに決まり、家の用意も始まっている。ただし、段烈の仕事まで休ませる理由はなかった。
卓上には銭の帳面が置かれている。
「兵を50人雇うとする」
田朔が言った。
「今の護衛とは別にですか」
「そうだ。戦える男を50人だ」
段烈は考えてから答えた。
「集めるだけなら難しくありません」
「いくらいる」
「雇う時だけですか。それとも毎月ですか」
「両方だ」
段烈は帳面を自分の側へ寄せた。
「まともに使える兵なら、給金だけで1人あたり月600銭は見た方がいいでしょう。腕のある男ならもっと欲しがります」
「50人で30貫か」
「給金だけなら」
「ほかは?」
「飯が要ります。武器を持っていない者には武器も要る。衣、鞋、寝る場所も必要です。怪我をしたら薬もいる。弓を持たせれば矢も減ります」
「全部入れると?」
「最初の月は50貫では足りないと思います。武器を揃えるならもっとかかります。その後も毎月40貫から50貫は見ておいた方がいいでしょう」
田朔は頭の中で数字を積み上げた。
「50人で月50貫」
「余裕を見るなら、それくらいです」
「100人なら100貫」
「だいたいは」
「1,000人なら月1,000貫か」
段烈が笑った。
「1,000人を雇うつもりなんですか」
「まだ雇わない。金額を知りたいだけだ」
田朔は682貫という自分の現金を思い浮かべた。
1,000人を集めれば、今の金では1か月分の給金と食糧を払うだけで大半が消える。
「少ないな」
段烈が聞き返した。
「何がです」
「俺の金だ」
「682貫持っていて少ないと言う商人は、漢中にもそうはいないと思いますよ」
「1,000人を1年養えない」
「商人が1,000人を1年養う必要がありますか」
田朔は段烈を見た。
「俺には必要になるかもしれない」
段烈の顔から笑いが消えた。
「何をするつもりです」
「まだ何もしない。だが戦が続く限り、店も土地も金だけでは守れない」
「兵を持てば、今度は役人に警戒されます」
「だから急には増やさない」
田朔は帳面を閉じた。
「まず金を増やす。兵を雇っても半年や1年で給金が尽きるようでは、持たない方がましだ」
段烈は納得したようだった。
「それなら賛成です。腹を減らした兵ほど危ないものはありません。敵より先に自分の主人を襲います」
「だから給金を遅らせない」
「国の軍でも遅れます」
「国が払えなくても、俺は払う」
田朔には、兵を持つために必要なものが見えてきた。
戦える男を集めただけでは軍にはならない。毎月決まった日に銭を渡し、腹を満たし、武器を直し、怪我をすれば治療する。その負担を続けられる者だけが、まとまった兵を自分の手元に置ける。
◇ ◇ ◇
午後、田朔は玉容と玉蓮にも段烈との話を伝えた。
玉蓮はすぐ計算を始めた。
「50人なら払えるわ」
「払えるだけでは駄目だ」
「何か月分を残すの?」
「最低1年」
玉蓮が顔を上げた。
「最初から?」
「兵を増やすならな」
「50人なら年600貫近く要ることになるわよ」
「だから今は増やさない」
玉容が尋ねた。
「では、先に何をするの?」
「現金を増やす」
「どこまで?」
田朔は少し考えた。
「まず2,000貫だ」
玉蓮が驚いた。
「今の3倍近いわ」
「そのくらいないと、兵を雇っただけで商売の銭までなくなる」
玉容が帳面を見た。
「塩を増やす?」
「ああ。塩はやる。ただ塩だけでは遅い。運ぶ方からも銭を取る」
「護衛?」
「それもだ」
田朔は立ち上がり、窓から裏庭を見た。
雨の中で、護衛の男たちが馬を別の厩へ移している。今は田朔の荷や商隊を守るために雇われている男たちだが、その給金を払っているのは田朔だった。
「段烈に聞いた。兵は集められるそうだ」
玉容が答えた。
「問題は集めた後なのね」
「ああ」
「それで2,000貫?」
「最初はな」
玉蓮が筆を持ち直した。
「最初は、ということは、その先もあるのね」
「兵が100人になればもっといる。500人ならさらにいる。1,000人なら、今の俺では話にならない」
玉容は田朔の横顔を見ていた。
「1,000人も兵を持って、あなたは何になるつもり?」
田朔はすぐには答えなかった。
自分でも、まだそこまでは決めていない。ただ1つ、金を持っているだけの商人では、乱世の中で最後まで自分の財産を守れないことは分かっていた。
「何になるかは、持ってから考える」
玉蓮が呆れた。
「普通は先に目的を決めるものじゃない?」
「兵がないのに王になる話をしても馬鹿だろう」
「王?」
玉蓮が目を見開いた。
田朔は笑った。
「例えだ」
玉容だけは笑わなかった。
「あなたの場合、例えで終わらない気がするわ」
「その時はお前が王の妻だ」
「まだ正妻になったばかりよ」
「だから先に子を作る」
玉容の顔に呆れと笑いが混じった。
「兵の話から、どうしてそこへ戻るの」
「俺の家の話だからだ」
田朔は帳面を玉蓮へ戻した。
「明日から塩と運送の金を全部見直す。半年かけて増やす気はない。まず2,000貫まで持っていく」
「分かったわ」
玉蓮は新しい頁を開いた。
外ではまだ雨が降っている。
田朔が最初に草鞋を売った時の元手は100銭だった。今、自由に使える金は682貫ある。それでも1,000人の兵を養うには足りない。
田朔には、その不足がはっきり見えた。
金を増やす理由も変わっている。贅沢をするためではない。より大きな金を動かし、その金で自分の兵を持つためだ。
385年9月が終わった。




