第1話(前編)――「銭ではなく貫」
385年9月上旬。
田朔は朝食を終えると、漢中の屋敷に設けた帳場へ入った。
窓から差し込む朝の光が、低い卓に積まれた帳面を照らしている。奥の倉では銭を通した縄が擦れる音が続き、店へ運ぶ油壺を数える奉公人の声も聞こえていた。
卓を挟んで座っているのは、正妻の崔玉容と一番番頭の許玉蓮だった。
玉蓮が新しい帳面を田朔の前へ置いた。
「昨日までの出入りを全部入れたわ。店や倉、家、荷車、馬、貸している銭は別にして、すぐ使える金だけを数えてある」
田朔は帳面を開いた。最後の欄に、大きな数字が書かれている。
「682貫か」
「そうよ。銅銭だけではなく、すぐ銭に替えられる銀も入れてあるけれど、帳面では貫に直したわ」
これまで田朔は、100銭、500銭、2,000銭と、銭単位で金を数えてきた。ところが商売が大きくなるにつれ、何十万銭という数字を扱うことが増え、帳面も読みづらくなっていた。
玉容が別の帳面を開いた。
「これから大口の取引は貫でまとめた方がいいわ。1貫を1,000銭として扱えば、682,000銭と毎回書かなくて済むでしょう。日々の給金や飯代は今まで通り銭で書けばいい」
田朔に異論はなかった。
「そうしよう」
玉蓮が筆を取り、新しい帳面の表紙に印を付けた。
田朔は改めて682貫という数字を見た。半年前なら、これほどの金を持つ自分など想像もできなかった。それなのに今は、安心するより先に足りないと感じている。
玉容が田朔の顔を見た。
「少ないと思っているでしょう」
「分かるのか」
「あなたが満足している時は、そんな顔で帳面を見ないもの」
玉蓮も笑った。
「682貫よ。普通の商人なら一生かかっても持てない人がいるわ」
「商人を続けるだけならな」
その返事を聞いて、2人の表情が変わった。
玉容が尋ねた。
「何に使うつもり?」
「まだ決めていない。ただ、戦が続くなら金だけ持っていても守れない」
「護衛を増やすの?」
「いずれ増やす」
田朔は卓の上に指を置いた。
「俺は長安から逃げる時、金があっても道を押さえられたら終わりだと分かった。店があっても倉があっても、兵に奪われたら俺の物ではなくなる」
玉蓮から笑みが消えた。長安を離れた時の混乱を、自分も知っているからだ。
「だから兵を雇うの?」
「兵を買う」
玉容が眉を上げた。
「買う?」
「国の兵だって、飯を食わせて給金を払わなければ逃げる。だったら、きちんと払う者のところへ来る男もいるだろう」
玉容は田朔の考えを確かめてから尋ねた。
「それは護衛を増やす話とは違うわね」
「ああ」
「何人くらい考えているの?」
「分からない。まず、いくらかかるかを段烈に聞く」
田朔は帳面へ視線を戻した。
「682貫が多いのか少ないのかも、それを聞けば分かる」
◇ ◇ ◇
昼前、父の田順が帳場へ顔を出した。
最近は自分で荷車を引く日こそ減ったが、倉や人夫の様子を見て回る習慣は変わっていない。
「朝から何を難しい顔で見ている」
「銭だ」
「お前は昔からそればかりだな」
田朔は新しい帳面を父へ見せた。
「今ある現金が682貫だ」
田順はしばらく数字を眺めた。
「それは多いのか」
田朔は笑った。
「父さんがそう言うなら、貫に変えたのは正解だな」
「何がだ」
「昔なら682,000銭と言えば驚いただろう」
「それなら驚く」
「同じ金だ」
田順が息子を睨んだ。
「わざと分かりにくくしたのか」
「逆だ。大きな商売をする時には貫の方が分かりやすい」
「俺には分からん」
玉容が間に入った。
「お義父様なら、こう考えればよいと思います。田朔が荷運びだけをしていた頃の稼ぎでは、到底貯められない金です。でも大勢の人間を雇ったり、大きな商売をしたりすれば、なくなる時も早い金です」
「それなら分かる」
田順は田朔へ顔を向けた。
「今度は何をする気だ」
「兵を雇ったらいくらかかるか調べる」
「戦でも始めるのか」
「まだ始めない」
「まだ?」
田順は嫌な顔をした。
田朔は笑って帳面を閉じた。
「金を持っているだけで守れるなら、兵はいらない。そうでないなら持っていた方がいい」
「商人の考えることじゃないな」
「梁景成だって護衛を持っていただろう」
「お前は梁旦那より面倒なことを考えている気がする」
田朔は否定しなかった。
梁景成を追い越すだけなら、それだけを目標にするには小さく感じるようになっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は正妻である玉容の部屋で夕食を取った。
羊肉と葱を煮た汁物に、蒸した粟飯、塩漬けの菜が並んでいる。以前の田家では肉が食卓に上るだけでも特別だったが、今では毎日の食事に困ることはない。
食後、侍女が器を下げると、玉容が今日の帳面を脇へ置いた。
「今夜は仕事の話をしないつもりだったのに」
「まだ何も言っていない」
「顔を見れば分かるわ」
田朔は玉容の隣へ移った。
「仕事の話じゃない」
「では何?」
「子どもの話だ」
玉容の目が田朔へ向いた。
田朔には妻妾がいる。だが、家の跡を継ぐ子については、曖昧なままにしておくつもりはなかった。
「俺は最初の子を、お前に産んでもらいたい」
玉容は予想していなかったらしく、すぐには返事をしなかった。
「男の子とは限らないわよ」
「最初から男になると決めてはいない」
「妾の方が先に身ごもるかもしれないでしょう」
「だから、そうならないようにする」
玉容は田朔の顔を見つめた。
「どうするつもり?」
「お前が身ごもるまでは、お前のところへ一番多く来る。ほかの女に子を作らせることを先に考えるつもりはない」
「随分はっきり言うのね」
「正妻はお前だ。俺の家を最初に継ぐ子も、お前の腹から生まれる方が面倒が少ない」
玉容は呆れたように笑った。
「そこまで言って、最後は面倒が少ないなの?」
「それだけじゃない」
田朔は玉容の手を取った。
「お前との子が欲しい」
今度は玉容が言葉を返すまで少し時間がかかった。
「それなら、最初からそう言えばいいでしょう」
「同じことだ」
「全然違うわ」
玉容はそう言ったが、手を引かなかった。
田朔は灯火を落とし、その夜は玉容の部屋に泊まった。
女を好む自分を改めるつもりはない。それでも、家の中心に誰を置くかは別の話だった。
正妻は玉容である。最初の子も、できるなら玉容との間に欲しかった。




