第10話(後編)――「梁家より大きく」
385年8月下旬。
8月21日。
田朔は漢中の南寄りにある大きな屋敷を見ていた。
北方との商売で財を作った商人の家だったが、持ち主は長安が落ちたことで北へ戻る商売を諦め、蜀の奥にいる息子のもとへ移るつもりだった。
屋敷には表と奥の2つの庭がある。
父母を住まわせても十分な広さがあり、玉蓮、玉容たちの部屋も取れる。客を泊める部屋、帳面を置く部屋、護衛の詰め所として使える場所もあった。
裏には倉と厩まで付いている。
田朔は屋根、塀、井戸、厩を段烈や馬福成と一緒に見て回った。
持ち主が値を出した。
「120,000銭だ」
「高いですね」
「この広さだぞ。倉と厩も付いている」
「屋根を2か所直す必要があります。裏の塀も傾いています」
「住めないほどではない」
「だから買う話をしています」
「いくらなら出す」
「70,000銭」
「馬鹿にするな」
「では、ほかを探します」
田朔は門の方へ歩いた。
「待て。100,000」
「70,000です」
「90,000」
「72,000」
「2,000しか上げないのか」
「屋根と塀を直す銭が必要です」
「85,000」
「75,000なら今日払います」
「お前が、長安から来た田という商人か」
「そうです」
「金を持っていると聞いたぞ」
「あります」
「なら払えるだろう」
「払えることと、払うことは別です」
後ろにいた小玉が笑った。
田朔が振り返る。
「何です」
「また言っていると思って」
持ち主は意味が分からず、2人を見た。
「80,000だ。これより下では売らん」
田朔は改めて屋敷を見た。
家族を住まわせるだけなら、ここまで大きな家はいらない。
だが、大口の商人を招ける。
帳場の一部を移せる。
重要な証文を店とは別の場所へ置ける。
護衛を泊められる。
馬も置ける。
商売にも使える屋敷だった。
「80,000で買います」
主人が安堵した。
「やっと決まったか」
「置いていく家具も含めてです」
「それは別だ」
「では75,000に戻します」
「分かった。家具も置く」
「ありがとうございます」
小玉が小声で言った。
「最後まで取るのね」
「使える物を置いていくと言っているんです。もらいますよ」
◇ ◇ ◇
屋敷を買ったと聞くと、田順が見に来た。
門を入ったところで立ち止まる。
「本当にここを買ったのか」
「ああ」
「いくらだ」
「80,000銭」
「家に8万?」
「倉と厩もある」
「お前は何でも商売の話へ戻すな」
「家だけで8万なら買っていません」
田順は奥まで見て回った。
「俺たちもここへ住むのか」
「そのつもりだ」
「お前の女は何人いるんだ」
「今、数える必要がありますか」
「この家を見れば聞きたくもなる」
田順は庭に立った。
「梁家の門を初めて見た時を覚えているか」
「覚えている」
「お前、荷車を数えていたな」
「門前だけで37台。俺たちが待っている間に7台増えました」
「まだ覚えているのか」
「ああ」
「妻1人、妾7人と聞いた時も数えていた」
「父さんに話しました」
「俺は余計なことを考えるなと言った」
「言いましたね」
田順は大きな屋敷を見回した。
「余計なことではなかったらしいな」
「何がです」
「本当に欲しかったんだろう。梁旦那が持っていた物が」
「全部欲しかった」
「今は?」
「まだ足りない」
「これ以上何がいる」
「塩ではまだ大きく儲けていません」
田順は息子の顔を見た。
「好きにしろ」
「そうします」
◇ ◇ ◇
屋敷の修理が進む間にも、商売は止まらなかった。
玉容が梁家の古い取引先を詳しく知っていたため、田朔が回収を諦めかけていた証文からも銭が取れた。
7月末に約150,000銭残っていた債権のうち、8月下旬までに現金約96,000銭と、売れば約23,000銭になる布や銅器などを新たに回収した。
残り全部を取ろうとはしなかった。
債務者が死んでいる。
商売も財産も失っている。
どこへ行ったか分からない。
そうした証文へ何日も人を使えば、その人件費の方が高くなる。
取れる相手を先に取った。
取れないものは切った。
梁家の客も、少しずつ田朔の店へ流れ始めた。
◇ ◇ ◇
宋淮は毎日のように店へ来ていた。
初めは梁家の残った仕事を片づけるためだった。
だが今では、梁家から田朔へ移った商人へ指示を出し、大口の客との話にも入っている。
田朔が尋ねた。
「そろそろ、うちで働きませんか」
「今も働いているようなものだろう」
「正式に給金を決めたいんです」
「俺は梁家の大番頭だったぞ」
「知っています」
「玉蓮の下へ入れと言うのか」
「上下の話ではありません」
「では何をさせる」
「玉蓮には日々の店、支払い、人の配置を見てもらっています。宋さんには梁家から移った大口の客、遠方の仕入れ先、商隊の契約を見てほしい」
「玉蓮を外す気はないんだな」
「ありません」
「崔奥様も帳面を見るんだろう」
「玉容さんは大きな金と梁家の取引先を見ます。宋さんには実際に商人と話を進めてもらいます」
宋淮は田朔を見る。
「随分考えたな」
「全員へ同じ仕事をさせても仕方ないでしょう」
「給金は?」
田朔が額を出した。
「少ない」
「宋さんまでですか」
「俺は20年以上、大番頭をしていた」
田朔は少し上げた。
「ここまでです。それ以上は、その分を稼いでからお願いします」
「若造が」
「嫌なら無理には頼みません」
「分かった。やる」
宋淮はとうとう田朔の店へ正式に入った。
梁家の残った人脈を、これからは田朔の商売のために使うことになる。
◇ ◇ ◇
8月24日の夜。
修理の終わった新しい屋敷の広間へ、玉容と7人の女が集まった。
玉蓮もいる。
田朔は先に玉容へ頼んでいた正妻の話を、改めて全員の前で出した。
「玉容さんには、俺の正妻になってほしいと話しています」
翠翠がすぐ玉容を見る。
「奥様、本当に?」
「話はされたわ」
「返事は?」
「まだだったの」
小玉が田朔を見る。
「急かしたの?」
「急かしていない」
「珍しい」
「俺を何だと思っているんです」
玉容は7人の顔を見た。
「その前に田朔へ確かめておきたいことがあるわ」
「何です」
「この7人をどうするつもり?」
田朔は迷わなかった。
「本人が嫌でなければ、全員俺の妾になってもらいます」
青蘭が笑う。
「本当に7人の前で言うのね」
「別々に違うことを言うよりいいでしょう」
月華が尋ねた。
「私たちを助けた代わりに妾になれという話?」
「違います」
「断ってもいいの?」
「もちろんです」
「断ったら、この家から出ていかなければならない?」
「その必要はありません。店で働くなら給金を払います。別に暮らしたければ、その相談もします」
香蓮が尋ねた。
「では、なぜ妾にしたいの?」
「女として欲しいからです」
一瞬、誰も話さなかった。
翠翠が最初に笑った。
「本当に言った」
「何を期待していたんです」
「もう少し立派な理由」
「仕事ができることも分かっています。でも仕事だけなら雇えば済みます」
青蘭が言った。
「そこは分けるのね」
「はい」
「女として欲しい。それとは別に仕事をしたら給金も出す?」
「そうです」
「梁旦那より細かいわ」
「よく言われます」
◇ ◇ ◇
玉容は田朔へ条件を出した。
「私が正妻になるなら、7人を昔の順番のまま扱わないでほしい」
「第1妾、第2妾という順番ですか」
「そう。梁家では青蘭が第1妾、小玉が第7妾だった。でも今度は全員、あなたの妾として同じに扱って」
小玉が玉容を見る。
「私は気にしていなかったわ」
「それでも新しい家まで昔の順番を持ち込む必要はないでしょう」
田朔は答えた。
「構いません。部屋、衣、食事を順位で変えるつもりはありません」
「仕事は?」
「得意なことが違いますから、任せる仕事は違います」
「それならいいわ」
玉容は続けた。
「もう1つ。玉蓮さんを帳場から外さないこと」
玉蓮が驚いた。
「私?」
「この店をここまで動かしてきたのは玉蓮さんでしょう。私が正妻になったからという理由で外したら、商売が悪くなるわ」
田朔はすぐ答えた。
「外しません」
「私が後から気を変えても?」
「その時は断ります」
玉容の眉が上がった。
「正妻に?」
「商売を悪くする話なら」
玉蓮が笑った。
「そこは田朔ね」
玉容も笑った。
「分かったわ」
田朔が聞く。
「では返事は?」
「正妻になります」
小玉が声を上げた。
「本当に?」
「ええ」
玉容は田朔を見る。
「ただし私も働くわ」
「そのつもりでした」
「最後までそれを言うのね」
「きれいな正妻を家で眺めているだけではもったいないでしょう」
「誉めているのか働かせたいのか、どちら?」
「両方です」
「本当に欲張りね」
「知っています」
◇ ◇ ◇
7人とは、その後に1人ずつ話した。
無理に同じ日に返事をさせることはしなかった。
青蘭は、玉容やほかの女たちと同じ家で暮らせるなら残ると答えた。客との応対や取引先の話にも、これまで通り関わりたいという。
彩児は、馬や商隊の仕事を続けられることを確かめたうえで承知した。
月華は、自分に布の仕入れや検品まで任せてもらえるなら働きたいと話した。
香蓮は、妾になったからといって毎夜客の前で琴を弾く役にはしないでほしいと求め、田朔も認めた。
美娟は、人夫や護衛の食事へ口を出してよいなら残ると言った。
翠翠は最後まで田朔をからかった。
「私まで昔から欲しかったの?」
「名前は覚えていました」
「話したこともほとんどないでしょう」
「小玉さんから聞いていましたから」
「何を?」
「明るくて、よく喋って、梁旦那へ甘えるのが上手だと」
翠翠が小玉を見る。
「そんなことまで言ったの?」
「昔の話よ!」
「棗をもらったくらいで?」
「棗だけじゃないわよ!」
「かなり棗で聞きました」
田朔が言うと、小玉が睨んだ。
「田朔まで余計なことを言わないで」
翠翠は笑いながら田朔へ向き直った。
「断ったら、本当に追い出さない?」
「追い出しません」
「では妾になる」
「それで決めていいんですか」
「嫌なら断れと言ったのはあなたでしょう」
「言いました」
「なら決まり」
最後は小玉だった。
「小玉さんは?」
「私まで改めて聞くの?」
「全員へ聞きました」
「昔、棗を拾った荷運びに妾になるか聞かれるとは思わなかったわ」
「俺も昔は自分の荷車すらありませんでした」
「今は何台あるの?」
「今すぐ正確な数を言うなら帳面を見ます」
「本当に増えたのね」
「それで?」
小玉は笑った。
「残るわ」
こうして7人は、本人の意思で田朔の妾として同じ屋敷へ入ることになった。
以前の梁家のような第1妾から第7妾までの順位は作らなかった。
7人とも田朔の妾である。
ただし、仕事はそれぞれの得意な分野を使う。
玉容は正妻となった。
玉蓮はこれまで通り店の中心で帳場を動かす。
春華と淑蘭については何も変えなかった。
2人の夫、陳貴と韓敬は生死が確認できていない。
その状態で田朔が勝手に自分の妾とすることはできなかった。
◇ ◇ ◇
8月30日。
玉蓮、玉容、宋淮、馬福成が月末の帳面をまとめた。
8月に入った銭は約320,000銭だった。
梁家から買った債権の追加回収、通常の店の売上、貸付の返済、漢中で安く仕入れた品の販売などが含まれる。
一方、支出は約150,000銭だった。
玉容を妓楼から連れ出すために20,000銭、青蘭たち3人の未払い費用として8,500銭、新しい屋敷に80,000銭を使った。そのほかに女たちを探すための費用、給金、食糧、商品の仕入れ、馬や荷車の維持費も出ている。
7月末に約512,000銭あった動かせる現金は、8月末には約682,000銭へ増えていた。
現金以外にも、店、倉、80,000銭で買った屋敷、商品、馬、荷車、貸付債権がある。
梁家から買った債権も、まだ回収できそうなものが約40,000銭分残っていた。
長安に置いてきた店、家、倉は数えない。
焼けたのか、奪われたのか、残っているのか確認できない以上、0として扱った。
それでも今、漢中で確認できる田朔の財産を控えめに数えると、1,200,000銭を超えた。
宋淮が計算した帳面を見た。
「とうとうここまで来たか」
田朔が聞いた。
「梁家と比べてどうです」
「何を比べるかによる」
「今動かせる財産です」
宋淮は考えた。
「長安が落ちる直前の梁家は、店や屋敷、倉まで入れればもっと大きかった。だが、すぐ動かせる現金、商品、債権、馬、荷車だけを比べるなら、今のお前の方が大きい」
田朔は帳面を見る。
「そうですか」
「もう少し喜べ」
「梁旦那は死んでいます」
「何が言いたい」
「死んだ梁旦那より大きくなっても、商売は終わらないでしょう」
宋淮は黙った。
玉容が田朔を見る。
「主人を抜くことが目標だったんじゃないの?」
「最初はそうでした」
「今は?」
「もっと欲しいです」
玉蓮が笑った。
「やっぱりそうなるのね」
◇ ◇ ◇
その夜。
田朔は新しい屋敷の帳場で、梁家から引き継いだ古い帳面を開いていた。
1年半前。
梁家の門前には37台の荷車が並んでいた。
田朔は父の荷車を押しながら、それを数えていた。
梁家へ入れば趙六に殴られ、20銭引かれても何もできなかった。
崔玉容には字を覚えろと言われた。
何小玉から、梁景成には正妻1人と妾7人がいると聞いた。
金、店、倉、荷車、馬、屋敷、女8人。
田朔は全部欲しいと思った。
今は梁家の債権を買い、取引先を引き継ぎ、梁家の番頭や使用人まで自分の店で働かせている。
崔玉容は田朔の正妻となった。
梁景成の7人の妾も、今は本人たちの意思で田朔の妾となっている。
だが、梁景成が死んだから手に入ったものまで含めて勝ったと喜ぶ気にはならなかった。
梁景成から覚えたことを使い、その先へ行かなければ意味がない。
帳面をめくる。
穀物、布、馬、荷車を扱う商人の名が並ぶ。
その先には、田朔が以前から何度も印を付けてきた頁があった。
塩を扱う商人たちだった。
玉容が帳場へ入ってきた。
「まだ起きているの?」
「少し見ていました」
「何を?」
「塩です」
玉容は帳面を覗いた。
「また塩?」
「長安では、思ったほど儲けられませんでした」
「少しは売ったでしょう」
「俺が欲しいのは、あの程度の儲けではありません」
玉容は頁を見る。
「主人も塩は扱っていたわ。ただ、この帳面にある相手だけでは足りない」
田朔が顔を上げた。
「ほかにも知っていますか」
「ええ。河東だけではないわ。主人が長く付き合っていた者の中には、塩の値そのものより運ぶ道で利益を取っていた商人もいた」
「明日、教えてください」
「正妻になった最初の夜に、最初に頼むのが塩の話なの?」
「嫌ですか」
「そうではないけれど」
田朔は帳面を閉じた。
「では塩の話は明日にします」
「今日は?」
田朔は玉容を見た。
「正妻になってくれた玉容さんを大事にします」
「言われてから気づいたでしょう」
「塩も玉容さんも欲しいんです」
「同じところへ並べないで」
玉容は呆れながら笑った。
長安では、田朔は塩で大きな利益を出せなかった。
だが今は、あの頃とは持っているものが違う。
60万銭を超える現金がある。
馬と荷車があり、段烈の下には護衛がいる。
店と倉があり、商隊を動かせる。
玉蓮、玉容、宋淮、馬福成をはじめ、商売を任せられる人間も増えた。
梁家が長年かけて築いた取引先まで使える。
長安の底で荷車を押していた田朔は、もういない。
次に大きく食うのは塩だ。
385年8月が終わった。




