第10話(前編)「字を覚えた男」
385年7月末から8月上旬。
前話の収入:約480,000銭
前話の支出:約242,000銭
現在動かせる金:約512,000銭
7月28日の夕方、田朔は段烈と護衛4人を連れ、漢中の南にある妓楼へ向かった。
何小玉が集めた情報では、長安の大商人の正妻だった女が、この妓楼にいるという。
その女は右手の人差し指に古い切り傷があり、字がよく読める。妓楼へ連れてこられた後、帳面の間違いを見つけたことから、客を取らせる前に帳場の手伝いをさせられているらしい。
そこまで一致すれば、崔玉容である可能性は高かった。
田朔は護衛2人を妓楼の表、残る2人を裏手へ置いた。
中へ入るのは田朔と段烈だけである。
「先に言っておくが、今日は殴り合いをしに来たんじゃないぞ」
段烈が釘を刺した。
「俺もそのつもりです」
「相手が銭で話をしなかったら?」
「その時は役所へ持っていきます」
「最初からそうしてくれ」
「銭で済むなら、その方が早いでしょう」
「お前の場合、銭で済ませるまでの値切りが長いんだ」
「余計に払うよりましです」
段烈は何も言わず、田朔の後ろを歩いた。
◇ ◇ ◇
妓楼の中には酒と香の匂いが満ちていた。
まだ日が落ち切っていないため客は少ないが、女たちは夜の支度を始めている。
店の主人は50歳ほどの男だった。
田朔は席へ座ると、すぐ用件を伝えた。
「長安から来た女性を探しています。名前は崔玉容。40歳には届かないくらいの年で、字と帳簿に強い方です」
主人は顔色を変えなかった。
「そんな女は知らんな」
「そうですか。それなら失礼しました」
田朔は立ち上がった。
「待て」
主人が呼び止める。
「何だ。もう帰るのか」
「いない方の話をしても仕方ありません」
「その女がお前の何なんだ」
「昔から知っています」
「身内か」
「違います」
「亭主か」
「それも違います」
「なら何で探している」
「俺が会いたいからです」
主人は田朔を見た。
「長安の大商人の女房だったという話なら聞いたことがある」
「ここにいますね」
「いたとして、ただでは渡せん」
「まず本人かどうか確かめさせてください」
「先に値を決める」
「本人かどうかも分からない女へ銭は出せません」
「30,000銭だ」
「本人を見てから話します」
「金は持っているのか」
「話がまとまれば、その場で払えます」
主人は田朔の衣と、その後ろに座る段烈を見た。
「そいつは何だ」
「俺の護衛をまとめている段烈です」
「護衛まで雇っているのか」
「はい。漢中では今、段さんの下で24人ほどを常時動かしています。大きな商隊を出す時は、必要に応じてさらに人を増やします」
主人は改めて田朔を見た。
「若いのに随分大きく商売しているんだな」
「まだ大きくする途中です」
「大した自信だ」
「本人をお願いします」
「会わせるだけだぞ」
「それで構いません」
◇ ◇ ◇
しばらくして、奥から1人の女が出てきた。
濃紺の上等な衣をまとって梁家の屋敷を歩いていた頃とは、まるで姿が違う。
薄い青の衣は質素で、髪にも高価な飾りはない。少し痩せている。
それでも田朔には一目で分かった。
「玉容さん」
女が足を止めた。
田朔の顔を見る。
その視線が、田朔の顔から肩、衣、腰の帯へ動き、最後に後ろの段烈へ移った。
「……田朔?」
「はい」
「本当に田朔なの?」
「本人です」
「どうして漢中にいるの」
「長安から逃げてきました。今はこちらで商売をしています」
「商売……」
玉容は田朔を見直した。
「昔のあなたとは随分違うわね」
「1年半も経っていますから」
「1年半で、護衛を連れて妓楼へ人を迎えに来る商人になるものなの?」
「俺も最初は荷車1台も持っていませんでした」
玉容の目が少し和らいだ。
「字は読めるようになった?」
「読めます」
「書ける?」
「商売に困らない程度には」
「そう」
玉容は田朔を見た。
「覚えたのね」
「玉容さんに言われましたから」
1年半前、荷札の文字をろくに読めなかった田朔へ、玉容は字を覚えなさいと言った。
田朔はその言葉を忘れていなかった。
「小玉さんも漢中にいます」
田朔が言うと、玉容の表情が変わった。
「小玉が?」
「はい。無事です」
「本当に?」
「数日前に見つけました。今は俺が借りている家の近くで暮らしています」
「ほかの人たちは?」
「まだ探しています」
「主人は?」
玉容が尋ねた。
田朔はすぐには答えなかった。
「その話は、ここを出てからします」
玉容は田朔の顔を見た。
答えを聞く前に、何かを察したようだった。
「……そう」
田朔は尋ねた。
「玉容さんは、ここを出たいですか」
「出られるなら出たいわ」
「分かりました」
田朔は妓楼の主人へ向き直った。
「本人でした。話をしましょう」
◇ ◇ ◇
主人は最初と同じ値を出した。
「30,000銭だ」
「高いですね」
「俺もただで手に入れたわけじゃない。ここへ連れてきた男へ12,000払っている。それから衣、食事、薬にも銭がかかった」
「客には出していないと聞いています」
「帳場で働かせている。頭のいい女だ。客へ出すより、別の商人へ高く売ることもできる」
「玉容さん自身が、その男へ自分を売った証文はありますか」
「ない」
「借金の証文は?」
「ない」
「では、あなたが持っているのは、玉容さんを連れてきた男との売買の書面だけですね」
主人の顔が険しくなった。
「それがどうした」
「その男に玉容さんを売る権利が本当にあったか、役所で調べれば分かります」
「脅すのか」
「調べるだけです」
「だったら役所へ行け」
「構いません」
田朔は席を立ちかけた。
主人が卓を叩いた。
「待て。いくらなら出す」
「16,000銭」
「馬鹿にするな。仕入れだけで12,000だぞ」
「だから16,000です」
「28,000」
「16,000」
「25,000」
「18,000」
「少しくらいまともに上げろ」
「2,000上げました」
「そういう話じゃない」
「俺にはそういう話です」
主人は田朔を睨んだ。
「22,000」
「20,000なら今ここで払います。その代わり、今後は玉容さんについて一切の請求をしないと書面へ残してください」
「20,000か」
「はい」
「お前なら30,000も払えるだろう」
「払えることと、払うことは別です」
段烈が横で鼻を鳴らした。
主人はしばらく田朔を見ていたが、最後には諦めた。
「20,000だ」
「ありがとうございます」
田朔は銭を払い、郭安に作らせて持ってきた書面へ妓楼の主人の印を押させた。
玉容をここまで連れてきた費用も含め、これで一切の請求を終える。
後になって別の銭を求められないようにした。
妓楼を出たところで、段烈が田朔へ言った。
「本当に20,000まで下げたな」
「4日分や5日分の護衛の給金が出ますよ」
「女を助けた直後まで、そういう計算をしているのか」
「余計な銭を払わなかっただけです」
玉容が横から口を挟んだ。
「段さん。昔の田朔は100銭の草鞋を買って18銭損していたのよ」
「本当か」
「玉容さん」
「今は随分ましになったようね」
「その話は小玉さんにも笑われました」
玉容は久しぶりに笑った。
◇ ◇ ◇
田朔は玉容をすぐ家へ連れていかなかった。
近くの茶店へ入り、奥の席を取った。
玉容には温かい茶と饅頭を頼んだ。
「主人のことを聞かせて」
玉容は饅頭へ手を付けずに言った。
「はい」
「死んだのね」
「梁旦那の護衛だった人が漢中へ来ました。その人が身体を見ています」
「どこで?」
「長安を出てから7日ほど後、山へ入る手前です」
「何があったの」
「逃げてきた人で道が詰まっているところを襲われたそうです」
田朔は聞いた範囲だけを話した。
梁景成は女たちの荷車を先へ出そうとした。
後方で荷車が崩れ、使用人たちが襲われた。
梁景成は後ろへ戻り、馬から落ちた使用人を助けようとしたところを刺された。
「戻ったのね」
玉容が言った。
「そう聞いています」
「最後まで、そうだったのね」
玉容は茶碗へ手を伸ばした。
「店や荷なら切れる人だった。損が大きいと分かれば、何年続けた商売でもやめた。でも長く働いた人を最後の最後で置いていくのは苦手だった」
「俺なら、もっと前に何組かへ分けて逃がしたと思います」
「でしょうね」
「梁旦那にもそう言われると思います」
玉容は田朔を見る。
「あなたは主人とは違うわ」
「はい」
「それでも、随分あの人から覚えたでしょう」
「かなり」
「主人は知っていた?」
「俺が追いつくつもりなのは知っていました」
「何と言っていたの」
「まだ俺より小さいと」
玉容の口元が少し緩んだ。
「それも主人らしいわ」
◇ ◇ ◇
家へ着くと、小玉が玉容を見つけた。
「奥様!」
小玉が駆け寄った。
玉容も両腕で小玉を抱いた。
2人はしばらく離れなかった。
許玉蓮、周春華、王淑蘭も家に来た。
まず湯を使わせ、新しい衣を用意した。
温かい粥、肉、豆、野菜を出す。
玉容が落ち着いてから、田朔は宋淮も漢中にいることを話した。
「宋淮まで?」
「はい。梁旦那から書状を預かっていました」
「それで?」
「梁家の売掛金と貸付金の証文を買いました」
「どのくらい?」
「元の額面は586,000銭です。そこから回収できそうな462,000銭分を選び、140,000銭で買いました」
玉容の目が変わった。
「14万?」
「はい」
「宋淮がよく売ったわね」
「人を食わせる銭が必要でしたから」
「それで、いくら集めたの?」
「7月25日までに現金で332,000銭です。ほかに荷車4台、馬6頭、馬具、布、銅器も受け取りました」
玉容は田朔を見たまま何も言わなかった。
「何です」
「少し待って」
「はい」
「私が知っている田朔と、目の前にいる田朔を同じ人間だと思うのに時間がいるの」
小玉が笑った。
「私も最初はそうだったわ」
「そんなに違いますか」
田朔が聞くと、玉容が答えた。
「昔は梁家の荷札も読めなかったでしょう」
「だから覚えたんです」
「今は46万2,000銭の債権を14万で買うのね」
「同じ商売ですよ」
「どこが同じなの」
「分からなかったことを覚えて、次に使っています」
玉容は少し考えた後、笑った。
「そこは昔から同じね」
◇ ◇ ◇
8月2日。
玉容は田朔の店へ来た。
帳場には玉蓮がいる。
田朔は2人を改めて引き合わせた。
「玉蓮は、俺が沈徳昌の店を取った時から帳簿、仕入れ、支払い、人の配置まで見ています」
玉容は頭を下げた。
「崔玉容です。田朔から話は聞きました」
「許玉蓮です。こちらこそ」
玉容は帳場に積まれた帳面を見た。
「ここは玉蓮さんが動かしているのね」
「田朔も一応働いているわ」
「一応?」
田朔が聞き返す。
「かなり働いている、と言えばいい?」
「全然違うだろう」
玉容が笑った。
「でも毎日の出入りは玉蓮さんの方が分かっているでしょう。私が来たからといって、いきなり帳場を変えたら悪くなるわ」
田朔はすぐ答えた。
「変えるつもりはありません」
「では私は、梁家から来た債権と取引先を見ればいい?」
「それをお願いしたいです」
玉蓮も頷いた。
「私も助かるわ。梁家の帳面は、宋さんに聞かなければ分からない相手が多いもの」
3人で残っている債権を見直した。
約150,000銭分がまだ残っている。
田朔が回収の難しいものとして後へ回した証文の中から、玉容は1枚を抜いた。
「これは取れると思う」
「店を長安で失った人です」
「長安の店はなくなった。でも妹婿が漢中で布を扱っているわ。本人も一部の荷を先に送っていたはずよ」
「証文には書いていません」
「付き合いが長かったから、主人はそこまで担保に取らなかったの」
「今どこにいるか分かりますか」
「漢中へ来ているなら、妹婿の店へ行くと思う」
田朔はすぐ馬福成を呼んだ。
「この人を探してください」
玉容が呆れた。
「今すぐ?」
「場所が分かりそうなのに、明日まで置く理由がありますか」
「昔なら、私が教えたことを必死で覚えていたのに」
「今は覚えたらすぐ銭にします」
「それはよく分かったわ」
翌日、債務者は見つかった。
額面28,000銭。
田朔は現金18,000銭と布を受け取り、残りを消した。
回収できないと思っていた証文が、玉容の記憶1つで利益へ変わった。
◇ ◇ ◇
8月5日の夜。
田朔は玉容と2人で話す時間を作った。
「玉容さん」
「何?」
「俺の正妻になりませんか」
玉容の手が止まった。
「随分早いわね」
「昔から欲しかったので」
「そういう言い方をするのね」
「嫌ですか」
「主人が死んだと聞いたのは、つい先日のことよ」
「はい」
「妓楼から出たのも先週よ」
「はい」
「少しは考える時間をちょうだい」
「分かりました」
玉容は田朔を見る。
「どうして私を正妻にしたいの?」
「きれいだからです」
「田朔」
「それだけではありません」
「先にそちらを言いなさい」
「帳簿と金が分かる。梁旦那の商売も、取引先も知っている。玉蓮とは違うところを見られる。それに俺が間違った時、遠慮なく言うでしょう」
「最後のは正しいわね」
「だからです」
「結局、女としても仕事でも欲しいのね」
「両方欲しいです」
「本当に欲張り」
「知っています」
玉容は少し考えた。
「まだ返事はしないわ」
「待ちます」
「急かさない?」
「返事をもらうまでは」
「それなら、先に残っている6人を探して」
「もちろんです」
「全員見つけるつもりなのね」
「はい」
「見つけた後は?」
「本人たちが嫌でなければ、俺の妾になってもらいます」
玉容は田朔を見た。
「そこまで最初から決めているの?」
「昔、梁家の正妻1人と妾7人を見て、全部欲しいと思いました」
「本当に女まで含めていたのね」
「金、店、倉、荷車、馬、屋敷、それに女8人です」
玉容は額へ手を当てた。
「主人より欲が深いかもしれないわ」
「梁旦那を抜くなら、それくらいでいいでしょう」
玉容は呆れながらも笑った。
「まず6人を見つけなさい。それから、もう一度正妻の話を聞くわ」
「分かりました」
385年8月上旬が終わった。




