第8話(前編)「燃える前に売る」
385年6月上旬。
前話の収入:約236,000銭
前話の支出:約165,000銭
現在動かせる金:約198,000銭
6月1日の日の出前、田朔は家の裏庭で木棒を握っていた。
段烈は5月23日に南へ出した商隊へ同行したまま、まだ長安へ戻っていない。
そのため、田朔は長安に残した兵役上がりの男2人を相手に稽古を続けていた。
田朔が相手の木棒をかわし、懐へ入る。左肩を胸へ当て、腕を取って腰を入れた。
男の身体が崩れた。
だが、そこで投げようと力を入れた瞬間に足を払われ、田朔の背中が地面へ落ちた。
「そこまで入れたなら、無理に投げなくてもよかったんです」
「では、どうする」
「逃げるなら押して離れる。倒すなら、もっと足を崩してからです」
「もう1回だ」
「旦那、さっきから同じところを何度もやっていますよ」
「できるまでやる」
田朔は立ち上がった。
もう1人の男が笑った。
「商人なのに、何でそこまで鍛えるんです」
「商人だからだ」
「普通は護衛を雇うでしょう」
「雇っている」
「なら十分じゃないですか」
「最後まで護衛が俺の前に立ってくれる保証はない」
田朔は木棒を構え直した。
「それに、今の俺は1人で逃げれば済む身体じゃない」
「玉蓮さんですか」
「父さんと母さんもいる。ほかにもいる」
「女が多い旦那は大変ですね」
「だから鍛えている」
男たちが笑った。
田朔も気にしなかった。
走り込み、木棒、組み討ちを終えると、今度は重い袋を背負った。庭を何度も往復する。
荷運びをしていた頃から腰と脚には力があった。そこへ8か月近い稽古が加わり、肩、胸、背中にも厚みが増している。
それでも田朔は満足しなかった。
長安から逃げる日が近いからこそ、身体を鈍らせる気はなかった。
◇ ◇ ◇
朝食を済ませて店へ出ると、許玉蓮が帳面を開いて待っていた。
「この前、店と倉を買いたいと言っていた人が来ているわ」
「元布商の店か、小さい家の方か」
「布商の店よ。奥で待ってもらっている」
「分かった」
田朔は上衣を整え、客を通させた。
相手は長安で何軒か店を持つ40歳ほどの商人だった。
欲しがっているのは、田朔が1月に2,600銭で買った元布商の店と倉である。
「倉まで付けて4,000銭なら買う」
男が切り出した。
「4,800です」
「今の長安で4,800?」
「はい」
「お前は長安を出る準備をしているんだろう」
「しています」
「なら置いていく店だ」
「置いていっても俺の物です」
「戦になれば焼けるかもしれんぞ」
「そうですね」
「だったら4,000で売れ」
「焼けずに残れば、今より高くなるかもしれません」
男が笑った。
「お前までそんなことを言うのか」
「俺には分かりません」
「秦が持ち直すと思うか」
「それも分かりません」
「では、なぜ4,800なんだ」
「あなたが欲しがっているからです」
男は顔をしかめた。
「店の商品は?」
「付きません」
「倉の中は?」
「空にして渡します」
「それで4,800?」
「店と倉だけです」
「高い」
「それなら買わない方がいいでしょう」
「4,300」
「4,800」
「4,500」
「4,700までなら下げます」
「戦で焼けたら俺が丸損だぞ」
「はい」
「平然と言うな」
「俺が焼けないと保証した方が怖いでしょう」
男は黙った。
田朔は相手を騙していない。
長安が危ないことは誰にでも分かる。それでも、この騒ぎが収まれば、今の値で買った店や倉が大きな利益になると考える者はいた。
田朔は反対の方を選んだ。
今は建物より、持って逃げられる銭の方が使いやすい。
「……4,700で買う」
「ありがとうございます」
「後で安く買い戻そうと思うなよ」
「その時の値次第です」
「本当に嫌な若造だ」
「よく言われます」
郭安に証文を作らせ、権利関係を確かめたうえで売った。
1月に2,600銭で買った店と倉を4,700銭で売ったことになる。
その間、店として使い、質屋と貸付の窓口としても利益を出してきた。最後には建物そのものからも2,100銭の差益が残った。
◇ ◇ ◇
翌日には、1月に2,500銭で買った小さな家と倉にも買い手が付いた。
この家は人夫や護衛の宿舎として使い、倉には食糧や商品を置いてきた。
田朔は中の荷を別の倉へ移し、家と倉を合わせて3,200銭で売った。
玉蓮が証文をまとめながら尋ねた。
「ずいぶん簡単に売ったわね」
「今なら買う奴がいる」
「買った時より700銭高い」
「半年近く使った分もある」
「もっと待てば高く売れるかもしれないわよ」
「安くなるかもしれない」
「長安が持ち直せば?」
「買った人が儲かる」
「長安が落ちたら?」
「俺はもう銭を受け取っている」
玉蓮は呆れた。
「そういうところだけは分かりやすいわね」
「俺が全部儲ける必要はない。今から長安の建物を持つ危険まで引き受けるというなら、その分は買った人に渡す」
「随分勝手な言い方ね」
「嫌なら売らなかった」
田朔は残っている不動産を確認した。
沈徳昌から取り上げた本店と大きな家、穀物商から引き継いだ店と倉、元酒肆、張遠から買った店と倉、市内外に残る倉など、まだかなりある。
全部を売るつもりはなかった。
それなりの値で買う者がいる物だけを売る。
長安が危ないからといって、二束三文で買い叩かれるくらいなら残した方がいい。
焼ければ損になる。
それでも、損を恐れて何でも安売りする気はなかった。
◇ ◇ ◇
玉蓮が別の帳面を出した。
「塩はどうするの?」
田朔は塩の欄を見た。
「今は追わない」
「せっかく衛成さんとつながったのに?」
「道がこれだけ乱れている時に、河東から大量に塩を運ぶ商売へ大金を入れる必要はない」
「ではやめる?」
「やめない。今はやらないだけだ」
「ずいぶん慎重ね」
「塩は逃げない」
「人は逃げるけれど?」
「だから今は人の方から取る」
玉蓮が笑った。
「本当に悪い商人」
「塩が大きく動くのを待つより、今日逃げたい奴から運賃を取った方が早い」
塩では、まだ田朔が期待したほどの利益を得ていなかった。
小さく売買はしているものの、大金を投じて河東から運び、大きな利を取るところまでは進んでいない。
田朔は無理に塩へ執着しなかった。
儲け時がまだ来ていないなら、来るまで待てばよかった。
◇ ◇ ◇
6月4日。
最後の大きな南行き商隊を出すと決めると、申し込みは1日で埋まった。
田朔は6月9日に長安を出ると決めていた。
自分と玉蓮も、その商隊に加わる。
番頭、人夫、護衛のうち、漢中へ移る者とその家族も一緒に連れていく。
本店の営業は8日で終える。
それを知った商人が駆け込んできた。
「出発を10日にしてくれ」
「9日に出ます」
「うちは荷をまとめるのに、あと2日いる」
「では別の商隊を探してください」
「今さら見つかるか!」
「それは俺には分かりません」
「荷車6台だ。2倍払う」
「出発日は変えません」
「3倍なら?」
「変えません」
男は田朔の顔を見た。
「お前、銭が好きなんだろう」
「好きですよ」
「なら、なぜ取らない」
「10日まで残って道が塞がれたら、今まで儲けた銭まで持ち出せなくなる」
「1日だけだぞ」
「その1日がいらないんです」
男は黙った。
「荷を減らせるなら9日に間に合います」
「何を捨てろというんだ」
「捨てる必要はありません。売ればいい」
「誰に?」
「俺が値を見ます」
男が田朔を睨んだ。
「結局それか」
「俺の値が安いと思うなら、ほかへ売ってください。ただし、9日の朝までに荷車へ積める量に減らしてもらいます」
男はその日のうちに戻り、家具、銅器、布などを見せた。
田朔は運びやすく、漢中で値の付きそうな物だけを買った。大きな家具は断った。
男の荷車は6台から4台に減った。
そのうえで高い運賃と護衛料を払い、9日の商隊へ加わることになった。
田朔は出発日を1日延ばす危険を取らず、客の荷まで安く仕入れた。
◇ ◇ ◇
6月6日。
田朔は梁景成を訪ねた。
梁家の門前には多くの荷車が並んでいた。
以前とは違い、荷を入れる車より、屋敷や倉から荷を出す車の方が目立つ。
箱や包みが次々に運び出されていた。
田朔が客間へ通されると、梁景成は帳面を広げていた。
「お前も出るそうだな」
「9日に出ます」
「ずいぶん粘ったな」
「梁旦那に言われたくありません」
梁景成が笑った。
「俺も準備はしている」
「見れば分かります」
「銀や高価な品はかなり動かした。帳面の写しも先へ出してある」
「奥様たちは?」
「まだいる」
田朔は梁景成を見る。
「先に出さないんですか」
「玉容は帳簿を片づけている。青蘭は客との残った話をまとめている。彩児は馬を見ている。ほかの女たちも荷を整理している」
「小玉さんも?」
「ああ」
「梁旦那の家の女は、皆よく働きますね」
「俺が飾りだけの女を7人も食わせると思うか」
「思いません」
「女のことばかり聞くな」
「きれいですから」
「相変わらずだな」
梁景成は苦笑した。
「お前は9日に全部出るのか」
「動かせる物はほとんど出します。店や倉で売れなかった物は残します」
「すでに売った店もあると聞いた」
「買いたい方がいたので」
「今、長安の店を買う男がいるのか」
「います」
「よく売ったな」
「今の俺には建物より銭の方が使いやすい」
梁景成は田朔を見た。
「昔のお前なら、店を1軒持てただけで死んでも離さなかっただろうな」
「昔は店がありませんでしたから」
「今は?」
「また買えます」
梁景成は笑った。
「少しは商人らしくなった」
「少しですか」
「まだ俺より小さい」
「だから、そのうち抜きます」
「長安がこんな時までそれを言うか」
「長安がなくなっても商売はなくなりません」
梁景成の表情が変わった。
「その通りだ」
田朔は庭で荷を運ぶ人々へ目を向けた。
「梁旦那も早く出た方がいいですよ」
「分かっている」
「荷が多すぎるなら、諦める物を決めた方がいい」
「それも分かっている」
梁景成は腹を立てなかった。
「だから今、何を持ち出し、何を残すか決めている。お前と違って、うちは店も倉も荷車も人も多い」
「俺の商隊へ奥様たちだけ先に乗せてもいいですよ」
梁景成が田朔を見た。
「なぜそこまで女を預かりたがる」
「きれいな女は危ないところへ置かない方がいいでしょう」
「下心が見えすぎだ」
「隠していません」
「断る」
梁景成は笑った。
「うちにはうちの護衛と荷車がある」
「でしょうね」
「お前は自分の心配をしろ」
「しています」
「9日だったな」
「はい」
「なら、その日に出ろ。儲け話が来ても戻るな」
「梁旦那に言われると重いですね」
「お前は銭を見ると止まりそうだからな」
「梁旦那もでしょう」
「だから自分にも言っている」
2人は笑った。
田朔は梁家を出た。
門を離れる前に振り返った。
梁家は今でも大きい。
田朔よりはるかに多くの店、倉、荷車、馬、人、取引先を抱えている。
それは平時には圧倒的な強さだった。
だが、今は大きな商売を動かすための人と荷が、そのまま退く時の重さにもなっている。
梁景成が判断を誤っているわけではない。
ただ、今だけは田朔の方が身軽だった。
385年6月上旬が終わった。




