第7話(後編)――「客の銭で逃げる」
385年5月下旬。
長安では、家財を積んだ荷車が南へ向かう光景が珍しくなくなっていた。
城外の戦いを恐れて店を閉める者も増え、南へ出る商隊の料金はさらに上がっている。
5月21日の朝も、田朔の店には客が押しかけた。
「明日出してくれ」
「荷車10台だ」
「家族だけでも先に頼む」
「銭なら払う」
田朔は順番に話を聞いた。
料金は3月の何倍にもなっていた。
ある男は金額を聞くと、卓を叩いた。
「人の弱みにつけ込むのもいい加減にしろ!」
「では頼まなくて構いません」
「今ほかに誰がこれだけの護衛を付けられる!」
「だからこの値です」
「平時の4倍だぞ!」
「平時ではありません」
「家族の命がかかっているんだぞ!」
「だから、安い運賃より安全な商隊を探しているのでしょう」
男が黙った。
田朔は料金を書いた札を卓へ置いた。
「この値で受けます。高いと思うなら、別の方を探してください」
「……払う」
「ありがとうございます」
男が出ていった後、玉蓮が田朔を見た。
「本気で殴られるかと思ったわ」
「店には護衛がいる」
「怖くないの?」
「怖いから雇っている」
「それでも値を下げないのね」
「俺が値を下げても、道が安全になるわけじゃない」
「あなたの利益は減るけれど」
「それも嫌だ」
玉蓮は呆れた。
「やっぱり最後はそこなのね」
「ああ」
◇ ◇ ◇
5月22日。
田朔は父の田順と母を呼んだ。
玉蓮も一緒にいる。
「明日の商隊で父さんと母さんを出す」
田順がすぐ顔をしかめた。
「お前は?」
「残る」
「なら俺も残る」
「駄目だ」
「父親に命令するな」
「残って何をする」
「荷を運ぶ」
「もう人夫が何十人もいる」
「昔は俺とお前だけだっただろう」
「昔の話だ」
田順が田朔を睨んだ。
「お前だけ残して逃げられるか」
「父さんが残れば、父さんを守る人間まで必要になる」
「自分くらい自分で守れる」
「この前、荷車から降りた時に腰を押さえていただろう」
「見ていたのか」
「見れば分かる」
「年寄り扱いするな」
「年寄りとは言っていない。今の俺には足手まといだと言っている」
田順が田朔の頭を殴ろうとした。
田朔は半歩下がって避けた。
「避けるな!」
「何のために毎朝鍛えていると思っている」
「親の拳を避けるためか!」
母が笑い出した。
玉蓮まで笑った。
田順は余計に腹を立てたが、最後には諦めた。
「必ず来るんだろうな」
「ああ」
「店に火がついてから逃げるなよ」
「そこまで残らない」
「本当か」
「逃げられなくなれば、銭も商品も使えない」
「その考えだけは信用できる」
◇ ◇ ◇
玉蓮は自分も残ると言った。
「私は明日は行かない」
「父さんたちと行け」
「嫌よ」
「危ない」
「分かっている」
「漢中には馬さんがいる」
「長安には誰がいるの?」
「番頭が何人もいる」
「店ごとの帳簿は見られても、全部をまとめて見られる人はいないでしょう」
「俺が見る」
「毎朝鍛えて、昼は客と話して、倉と店を回って、夜は私のところへ来る人が?」
「最後の1つはいらないだろう」
「いるわよ」
田朔は笑った。
「本当に残るのか」
「あなたが残るなら」
「俺が守れない時もあるぞ」
「だから護衛を雇っているのでしょう。それに毎朝鍛えている」
「それだけで全部守れるわけじゃない」
「分かっている。でも私は帳場の仕事を捨てて、先に安全なところへ行く気はない」
「本当に危なくなったら、今度こそ乗せる」
「その時はあなたも一緒よ」
「考える」
「駄目」
「しつこいな」
「あなたにだけは言われたくないわ」
◇ ◇ ◇
5月23日の朝。
これまでで最大の南行き商隊が、城外の倉へ集まった。
客の荷車が46台、田朔自身の荷が11台、韓家が2台、陳家が2台、田家が2台で、合計63台になる。
護衛は60人。
今回は段烈自身が隊列を率いる。
田朔の11台には、現金の一部、銀、質流れの装飾品、高価な布、貸付や売買の証文、帳簿の写しなどを積んだ。
長安で失えば困る物を、さらに漢中へ移す。
本帳のうち長安で必要な分は玉蓮が残し、写しと過去の帳簿を南へ送る。
父母の荷は必要最低限にした。
韓敬の妻、王淑蘭は侍女2人と荷車2台。
陳貴の妻、周春華は侍女1人と荷車2台だった。
田朔は出発前に段烈を呼んだ。
「大事な話がある」
「何だ」
「途中で本当に危なくなったら、俺の荷から捨てろ」
段烈が田朔を見る。
「お前の荷?」
「ああ。商品も銀も、逃げるために重荷になるなら置いていけ」
「銀までか」
「必要ならな」
田朔は父母の荷車と、淑蘭、春華の荷車を指した。
「父さんと母さん、淑蘭さん、春華さんは必ず生きて漢中へ着かせろ。俺の銀や商品を守るために人を危険な場所へ残すな」
「客は?」
「契約した荷はできるだけ守れ。ただし、本当に人と荷のどちらかしか助けられないなら、人を先に逃がせ。商品を失えば弁償の話はできる。死人は戻らない」
段烈は田朔を見た。
「お前から銀を捨てろという言葉が出るとはな」
「銀はまた稼げる」
「女は?」
「同じ女はもう1人手に入らない」
「父親と母親は?」
「それも同じだ」
「分かった」
「俺の荷を守ろうとして父さんたちを遅らせるなよ」
「そこまで言われれば間違えん」
田朔はようやく納得した。
◇ ◇ ◇
韓敬が妻を連れてきた。
淑蘭は旅装を整え、侍女たちも荷をまとめている。
「田朔」
韓敬が呼んだ。
「頼んだぞ」
「はい」
「危なくなったら、荷など捨てて構わん。妻を先に逃がしてくれ」
「段さんにも同じ話をしたところです」
「そうか」
韓敬は妻へ向き直った。
「必ず後から行く」
「待っています」
淑蘭は夫へそう答えた。
田朔へは余計なことを言わなかった。
夫の目の前で言えることではない。
それでも荷車へ乗る前、2人の目が合った。
田朔には十分だった。
次に陳貴が春華を連れてきた。
「田朔。こっちも頼む」
「はい」
「春華、向こうへ着いたら馬福成の店にいろ。勝手に知らないところへ行くなよ」
「分かっています」
「何か困ったら田朔の者に言え。こいつは女には甘い」
春華が田朔を見た。
「そうなの?」
「陳さんは俺を何だと思っているんですか」
「女好きだろう」
「それは否定しません」
「だろう」
陳貴は笑った。
春華は顔を伏せ、笑いを隠した。
自分の夫が、妻の情夫へ向かって女好きだと言っている。
田朔も表情には出さなかった。
「奥様は必ず漢中までお送りします」
「頼んだ」
陳貴は疑いもしなかった。
◇ ◇ ◇
田順と母も荷車へ乗った。
田順は最後まで不満そうだった。
「本当に後から来いよ」
「分かっている」
「店の銭に目がくらんで残るな」
「もう十分くらんでいる」
「威張るな」
「父さん」
「何だ」
「漢中へ着いたら馬さんの言うことを聞いてくれ」
「息子の番頭にまで指図されるのか」
「店のことは馬さんの方が分かっている」
「お前はすぐ人を使うな」
「使える人がいるのに全部自分でやる方がおかしい」
母が田朔の腕へ触れた。
「お前も早く来るんだよ」
「ああ」
「無理をするんじゃないよ」
「毎朝身体は鍛えている」
「そういう話じゃないよ」
母は困ったように笑った。
◇ ◇ ◇
商隊が動き始めた。
田朔も段烈とともに最初の宿場まで同行した。
長い隊列の中央には、父と母、淑蘭、春華、それに田朔の高価な財産がある。
それを守る60人の護衛へ払う銭の大部分は、前後を走る商人や富裕な家族から取った運賃と護衛料で賄われていた。
客が多いほど護衛を増やせる。
護衛が増えれば田朔の家族や荷も安全になる。
しかも費用を払った後にも銭が残る。
段烈が馬上から田朔を見た。
「自分の親まで客の銭で逃がすのか」
「客の親も一緒に守っている」
「そのうえ利益も取る」
「商売だからな」
「本当に、この状況まで銭にするんだな」
「この状況だから高く売れる」
「お前には何でも商売になるな」
「何でもではない。銭になる物だけだ」
段烈は笑った。
「それを何でもと言うんだ」
◇ ◇ ◇
最初の宿場へ着いた。
ここから先は段烈へ任せ、田朔は長安へ戻る。
淑蘭が荷車から降りてきた。
「ここで帰るの?」
「はい。ここからは段さんがいます」
「本当に後から来る?」
「行きます」
春華も近づいた。
「いつ?」
「まだ決められません」
「また銭でしょう」
「はい」
「否定くらいしなさいよ」
「嘘をついても仕方ないでしょう」
淑蘭が笑った。
「玉蓮さんは残っているのね」
「はい」
春華が田朔を見る。
「私たち2人を逃がして、長安には玉蓮さんが残るわけね」
「そうなります」
「随分都合がいいわね」
「何がです?」
「分かっているくせに」
周囲にはほかの客もいる。
3人はそれ以上言わなかった。
田朔は段烈を呼んだ。
「さっきの話を忘れるな」
「お前の荷が邪魔なら捨てる。父母と女たちは最後まで守る。客も荷より人を逃がす。それでいいな」
「ああ」
「銀の箱を捨てたら後で泣くなよ」
「生きて戻ればまた稼ぐ」
「分かった」
「馬さんへ引き渡すまで頼む」
「任せろ」
「父さんと母さんもな」
「ああ」
田朔は父母、淑蘭、春華がそれぞれ荷車へ戻るのを確認した。
やがて63台の隊列が南へ進み始めた。
田朔はその場でしばらく見送った。
両親も、欲しい女2人も、自分の財産のかなりの部分も南へ遠ざかっていく。
そのうえ、移送費用の大半は他人が払っている。
田朔はそれを見届けると、長安へ戻った。
◇ ◇ ◇
5月下旬になると、長安から逃げようとする者はさらに増えた。
店を売りたい、家を売りたい、銀を作りたい、家族を南へ送りたいという話が、毎日のように持ち込まれた。
田朔は以前のように何でも不動産を買わなかった。
持ち運べない物へ大金を入れる時期ではない。
代わりに銀、馬、布、宝飾品、道具など、漢中へ移して売れる物を優先した。
逃げるための銭を借りに来た男が、自宅を担保にすると言った。
「家は受けません」
「なぜだ。先月まで取っていただろう」
「今は要りません」
「立派な家だぞ」
「戦が終わって残っていれば、ですね」
「では何なら貸す」
「銀、馬、布、商品です」
「そんな物があれば売って銭を作る!」
「その方がいいでしょう」
「それではお前から借りる意味がない!」
「俺は無理に借りてくれとは言っていません」
男は怒って帰った。
田朔は追わなかった。
欲張ることと、価値がなくなるかもしれない物へ銭を投げることは違う。
◇ ◇ ◇
5月30日。
玉蓮が月末の帳面をまとめた。
漢中へ移した現金と長安に残した現金を合わせ、5月に入った運賃、護衛料、食糧販売、貸付の返済、安く買った商品の売却益まで含めると、田朔が持つ現金は約198,000銭になった。
店、倉、荷車、馬、商品、貸付債権まで含めた財産は、現在の長安の不動産を低く見積もっても40万銭を大きく超えている。
しかも両親、春華、淑蘭、重要な帳簿の写し、高価な商品、現金のかなりの部分は南へ移した。
玉蓮は帳面を閉じた。
「去年まで梁家の荷を運んでいた人とは思えないわね」
「まだ梁家より小さい」
「この状況でもそれを言うの?」
「ああ」
「梁旦那も長安を出る準備をしているでしょうね」
「していなければ梁旦那じゃない」
「あなたより先に逃げるかしら」
「分からない」
「あなたはいつ?」
田朔は戸口の外を見た。
家財を背負い、南へ急ぐ人々が通りを歩いていた。
閉めた店も増えている。
「もう長くは残らない」
「ようやく?」
「ああ」
「次は私も一緒よ」
「分かっている」
「本当に?」
「玉蓮を置いていったら、漢中へ着いた後に俺の帳簿を誰がまとめる」
玉蓮が田朔を睨んだ。
「そこは私が大事だからと言えないの?」
「大事だから帳簿を任せている」
「そういう意味ではないわよ」
「難しいな」
「春華さんと淑蘭さんにも同じことを言っているのでしょう」
「女は商売より難しいとは言った」
「3人相手をしてもまだ分からない?」
「人数を増やせば分かるかもしれない」
「増やす理由にしないで」
玉蓮は笑った。
その夜、田朔は玉蓮の部屋で過ごした。
遠くでは兵や馬が動く音が聞こえていた。
長安の情勢が悪くなっても、田朔の精力は変わらなかった。
先に休みたいと言ったのは玉蓮だった。
「少し休ませて」
「分かった」
「本当にまだ平気なの?」
「ああ」
「朝もまた鍛えるのでしょう」
「ああ」
「よく身体が持つわね」
「持つように鍛えている」
「それだけのためではないでしょう」
「自分と皆を守るためだ」
「女3人も?」
「ああ」
「また増えたら?」
「守る人数が増えるな」
玉蓮が田朔の胸を叩いた。
「そこは増やさないと言うところでしょう」
「無理な約束はしない」
「本当に悪党」
「今さらだろう」
翌朝、田朔は日の出前に起きた。
段烈は南へ向かっているため、長安に残した兵役上がりの男たちを相手に稽古を続けた。
走り、重い袋を担ぎ、木棒を使った足運びを繰り返し、最後には組み討ちを行った。
長安を離れる日は近い。
だから鍛えるのをやめるのではない。
危険が近づいた今こそ、身体を鈍らせるわけにはいかなかった。
逃げる者には高い運賃と護衛料を払わせ、その銭で自分の家族、女、財産まで安全な場所へ送る。残る者には不足した食糧を高く売り、逃げるために現金を欲しがる者からは、今でも値打ちのある物だけを安く買う。
役に立たなくなり始めた長安の家や土地には、以前のような値を付けない。
戦乱に追われる人々が何を急いで手放し、何に高い銭を払うのかを見て、そのすべてから利益を取る。
田朔は長安の崩壊を止める気などなかった。
崩れるなら、崩れる町から最後まで銭を取って、自分は次の町へ移るだけだった。
385年5月が終わった。




