第7話(中編)――「妻を預ける男たち」
385年5月中旬。
長安から逃げたい者は、さらに増えていた。
城外の道を安全に通れる時間が読みにくくなり、食糧を積んで長安へ入る荷車も減っている。
5月11日の朝には、田朔の店の前へ20人近くが集まっていた。
田朔は全員を店へ入れなかった。
番頭に条件を伝えさせ、荷車の数、同行人数、行き先を先に聞かせた。
次の商隊は40台まで。
運賃と護衛料は前払い。
積む荷は出発前に申告する。
途中で勝手に隊列を離れた者については、その先まで責任を負わない。
条件を聞いて帰る者もいた。
それでも残る者の方が多かった。
田朔は上旬より料金を上げた。
玉蓮が帳面を見た。
「また3割近く上げるの?」
「ああ」
「本当に払うかしら」
「払わなければ下げればいい」
午後までに40台分が埋まった。
玉蓮が帳面を田朔へ向けた。
「全部埋まったわ」
「なら次はもう少し上げられる」
「本気?」
「この値でも待つ奴がいる」
そこへ豪商の家人が入ってきた。
「旦那様の母上と奥方、子ども3人を次の商隊へ入れてほしい」
「次の便は埋まりました」
「倍払う」
「それでも無理です」
家人は意外そうに田朔を見た。
「倍だぞ」
「今入っている客を追い出せば、次から俺の約束を誰が信じますか」
「その次はいつだ」
「23日に大きな隊列を出します」
「そこへ入れろ」
「荷の量を確認して、前金をいただけば押さえます」
「今払う」
家人はその場で銭を出した。
田朔は受け取り、番頭へ記録させた。
倍の銭を断ったのは、親切だからではない。
田朔の商隊は、約束した日に出る。
予約した場所を後から来た金持ちに奪われない。
その信用があるから、次はさらに高く売れる。
一度の倍額より、何度も高い料金を取れる方が大きかった。
◇ ◇ ◇
5月13日の夕方、韓敬から呼び出しが来た。
田朔が役所へ行くと、韓敬は机に積まれた書類を前にしていた。
「田朔。23日に大きな商隊を出すそうだな」
「はい」
「漢中まで行くのか」
「途中で漢中側の護衛と合流させます。荷は漢中まで送ります」
「1人頼みたい」
「荷車は何台です?」
「妻と侍女2人だ。荷もあるから2台欲しい」
田朔は韓敬を見た。
「淑蘭さんですか」
「ああ」
「韓さんは?」
「残る」
「役所の仕事ですか」
「今になって俺が先に逃げれば、何を言われるか分からん。それに軍の荷も残っている」
「奥様は承知されていますか」
「今夜話す」
「まず淑蘭さんが行くと決めてから、荷をまとめてください」
韓敬が田朔を見る。
「嫌がったら、お前からも話してくれ」
「俺からですか」
「妻はお前を信用している。俺が仕事で帰れない夜でも、お前なら家へ出入りしているだろう」
田朔は顔色を変えなかった。
「商売の話で何度か伺っています」
「だからだ。お前の商隊が安全だと言えば、妻も少しは安心する」
「分かりました」
「いくらだ」
韓敬が銭を出そうとした。
田朔は止めた。
「韓さんからは取りません」
「どうした」
「今まで何度も助けていただいています」
「お前がただで荷車2台と護衛を出すとは思えん」
「今後も助けてください」
韓敬は笑った。
「やっぱりそういう話か」
「その方がお互い分かりやすいでしょう」
「分かった。借りにしておく」
韓敬は安心した様子だった。
自分の妻を預けようとしている19歳の商人が、その妻とすでに男女の関係にあるとは知らなかった。
田朔も教えるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は韓家を訪ねた。
王淑蘭はすでに夫から話を聞いていた。
「あなたは残るの?」
淑蘭は夫へ尋ねた。
「ああ」
「私は漢中へ行けと?」
「今のうちに行ってくれ」
「あなたがいつ来られるかも分からないのに?」
「分からん。だからこそ先に行ってほしい」
韓敬は妻の顔を見た。
「長安へ残しておく方が心配だ」
淑蘭はしばらく夫を見てから、田朔へ顔を向けた。
「田朔さんも、行った方がいいと思う?」
「はい」
「あなたは残るのでしょう」
「まだ商売があります」
韓敬が笑った。
「こいつは長安が燃え始めても、最後の1袋まで売りかねん」
「燃える前には逃げますよ」
「本当か?」
「死んだら儲けた銭を使えません」
「そこだけは信用できる」
韓敬は持ち帰った書類を見るため別室へ移った。
淑蘭は田朔を廊下まで送った。
「本当に私だけ先に行った方がいい?」
「行ってください」
「あなたは残るのに?」
「俺には店も護衛もあります。逃げる時期も自分で決められる」
「私はあなたの商隊で逃げるしかないのね」
「嫌なら別の方法を探しても構いません」
「そういう意味ではないわよ」
淑蘭は声を落とした。
「主人は何も知らずに、私をあなたへ預けるのね」
「そうですね」
「少しくらい申し訳ないと思わない?」
「韓さんから頼まれた通り、安全に送ります」
「それだけ?」
「それだけではありません」
「やっぱり」
田朔は淑蘭を見る。
「今は韓さんの奥様です。それは変わりません」
「今は?」
「先のことまで勝手に決めたら、淑蘭さんに怒られるでしょう」
「少しは学んだのね」
「俺は淑蘭さんが欲しいです。でも、韓さんが無事に漢中へ来れば韓さんの妻です」
「もし来なかったら?」
「その時は淑蘭さんと話します」
淑蘭は田朔の顔を見た。
「私があなたを選ぶと言ったら?」
「喜びます」
「即答するのね」
「そこで迷う理由がありません」
淑蘭は笑った。
「本当に悪い男」
「知っています」
「では23日に行くわ」
「漢中には馬さんがいます。俺から手紙も持たせます」
「あなたも必ず後から来て」
「行きます」
「銭を全部数え終わってからでは駄目よ」
「全部数え終わる日は来ません」
「では困るじゃない」
淑蘭は田朔の腕をつかんだ。
「死なずに来なさい」
「はい」
◇ ◇ ◇
翌14日、今度は陳貴が田朔の店へ来た。
「頼みがある」
「何でしょう」
「春華を23日の商隊へ入れてくれ」
田朔は陳貴を見る。
「陳さんは?」
「俺は残る」
「役所ですか」
「ああ。韓さんも残るんだろう」
「そう聞いています」
「俺みたいな下っ端が先に逃げたら、なおさら面倒だ」
「紅玉さんは?」
「もう南の親類のところへ行かせた」
「春華さんは?」
「俺が残るなら自分も残ると言って聞かん」
陳貴は顔をしかめた。
「お前から言ってくれ」
「俺から?」
「お前の話なら聞くだろう」
「随分信用されていますね」
「春華がお前を気に入っているのは知っている」
田朔は笑いを隠した。
「そうですか」
「商売の話をしても、お前のことだけは悪く言わん」
「ありがたいですね」
「2台あれば足りる。侍女1人と荷もある」
「分かりました」
「いくらだ」
「陳さんからも取りません」
「韓さんにも同じことを言ったのか」
「はい」
「俺たちは普段、お前からずいぶん受け取っているからな」
「今後もお願いします」
「結局そこか」
「陳さんも、その方が安心するでしょう」
「確かにな」
陳貴は笑った。
「春華を頼むぞ」
「必ず漢中まで送ります」
「お前なら大丈夫だろう」
陳貴は本気でそう思っていた。
◇ ◇ ◇
田朔が陳家へ行くと、周春華は最初から事情を察していた。
「あなたまで逃げろと言いに来たの?」
「はい」
「主人から頼まれたのでしょう」
「そうです」
「あなたは残る」
「まだ残ります」
「淑蘭さんは?」
「23日に出ます」
春華の顔が変わった。
「本当に?」
「はい。同じ商隊です」
「では、私も行けば淑蘭さんと一緒なのね」
「そうなります」
春華は周囲を見てから、田朔へ近づいた。
「あなたの女を2人まとめて逃がすのね」
「声が大きいです」
「主人は何も知らないのよね」
「知っていたら俺に頼まないでしょう」
春華は思わず笑った。
「主人には悪いけれど、少しおかしいわ」
「俺も聞いた時は驚きました」
「驚いただけ?」
「都合がいいとも思いました」
「そこまで言う?」
「春華さんを堂々と商隊へ乗せられます」
「本当に悪い男」
「今さらでしょう」
春華の笑いが消えた。
「私は本当は主人と一緒に出たいのよ」
「分かっています」
「主人はいつ逃げられるか分からない」
「はい」
「あなたも残る」
「はい」
「私たちだけ先に漢中へ行くのね」
「危険がもっと大きくなる前に出た方がいい」
春華は田朔の胸へ額を寄せた。
「絶対に後から来て」
「行きます」
「銭より私たちを選んでと言ったら?」
「銭も持って行きます」
春華が田朔の胸を叩いた。
「そこは私たちを選ぶと言うところでしょう」
「銭を捨てなくても春華さんを連れて行けるなら、両方でいいでしょう」
「本当に欲張り」
「捨てる必要がない物まで捨てる方がおかしいです」
春華は呆れながらも笑った。
その夜は陳貴が役所へ泊まることになっていた。
田朔は春華の部屋で過ごした。
別れが近いこともあり、春華は普段より田朔を離したがらなかった。
それでも夜が更けると、先に休ませてほしいと言ったのは春華だった。
「少し待って」
「分かりました」
「あなた、本当にまだ平気なの?」
「平気です」
「私は平気じゃないのよ」
「なら休みましょう」
「そういうところだけは素直なのね」
春華は田朔の胸へ身体を預けた。
「明日の朝も稽古?」
「はい」
「今夜これだけ元気なのに?」
「今夜元気だから、朝の稽古をしなくていい理由にはなりません」
「意味が分からないわ」
「女も欲しいし、強い身体も欲しいんです」
「全部欲しいのね」
「はい」
「本当に救いようがない」
翌朝、田朔は暗いうちに陳家を出た。
家へ戻って衣を替えると、そのまま段烈の待つ裏庭へ向かった。
寝不足はある。
それでも走り、袋を担ぎ、木棒を使い、最後は段烈と組み合った。
春華と淑蘭を安全な場所へ送り、自分も後から生きてたどり着く。
そのために鍛えているのなら、危険が近づいた今こそ休むわけにはいかなかった。
385年5月中旬が終わった。




