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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第二章――「長安崩壊、悪党は儲ける」

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第7話(前編)――「逃げ道を売る」

 385年5月上旬。


 前話の収入:約164,000銭

 前話の支出:約129,000銭

 現在動かせる金:約127,000銭


 5月1日の日の出前、田朔(ティエン・シュオ)は家の裏庭を走っていた。


 肩には穀物を詰めた袋を担いでいる。


 庭を5往復すると袋を下ろし、今度は段烈(ドゥアン・リエ)と向かい合った。


 段烈は木棒を持っている。


 田朔の後ろには木の杭が立っていた。


 人を守りながら逃げる稽古をするために置いた物だ。


「後ろに玉蓮さんがいると思え」


 段烈が言った。


「玉蓮か」


「春華さんでも淑蘭さんでもいい。誰でも同じだ」


「3人一緒だったら?」


「その時は護衛をもっと付けろ」


 周囲にいた男たちが笑った。


 田朔も笑った。


「もう付けている」


「それでも自分で何もできなければ、最後に困るのはお前だ」


「分かっている。来い」


 段烈が正面から入った。


 田朔は受け止めようとせず、身体を横へ外した。


 後ろの杭との間へ段烈を入れないように動く。


 別の男が右から回り込んだ。


 田朔はそちらへ身体を向けた。


 その瞬間、段烈の棒が肩へ当たった。


「今ので終わりだ」


「もう1回」


「俺だけを見るなと言っただろう」


「分かっている」


「分かっていて同じことをした」


「だからもう1回だ」


 段烈は呆れながら位置へ戻った。


 次は田朔も前へ出なかった。


 最初の男を押し返して隙を作ると、そのまま杭と一緒に後方へ下がる。


 2人目が横から来れば木棒で進路を塞ぎ、さらに下がった。


 段烈が止めた。


「今の方がいい」


「誰も倒していない」


「守る相手が逃げられればいいんだ。3人を倒して自慢するための稽古じゃない」


「俺1人なら?」


「好きにしろ。ただし、お前はまだ3人相手に勝てるほど強くない」


「そのうち勝つ」


「またそれか」


 田朔は木棒を置き、先ほどの袋を担ぎ直した。


「今度は何をする」


「走る」


「まだ走るのか」


「逃げる途中で父さんか母さんが歩けなくなるかもしれない。女を背負うこともある」


「それより重いぞ、その袋は」


「重い方で鍛えておけば楽だろう」


 田朔は再び走り始めた。


 荷運びをしていた頃から脚と腰には力があった。食事がよくなり、半年以上毎朝鍛え続けたことで、肩、背中、胸にも厚みが増している。


 それでも段烈と正面から組めば、まだ負ける方が多い。


 田朔もそれを分かっていた。


 武芸者になるために鍛えているのではない。


 自分が死なず、家族と欲しい女たちを生きて逃がすためだった。


 稽古を終える頃には、朝の涼しい空気の中でも全身から汗が流れていた。


 田朔は身体を拭き、肉、卵、豆、粟飯を十分に食べてから店へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 店へ着くと、帳場の前に男が5人待っていた。


 商品を買いに来た客ではない。


 全員、長安から南へ逃げるために田朔の商隊を使いたい者だった。


 許玉蓮(シュイ・ユーリエン)が帳面を渡した。


「朝からこの5人よ。家族と使用人も合わせると、荷車は27台になるわ」


「いつ出たいと言っている」


「3日以内が2人、5日以内が3人」


「まず3日以内の方から聞く」


 最初に入ってきたのは絹を扱う商人だった。


「家族9人、使用人7人だ。荷車は8台ある」


「行き先は?」


「漢中まで頼みたい」


「出発は?」


「明後日」


 田朔は荷の量と人数を確認した。


「12,000銭です」


 男の顔が変わった。


「12,000?」


「はい」


「3月に聞いた時は、こんな値ではなかったぞ」


「今は5月です」


「2か月で倍近く取るのか」


「護衛を増やしています。道中で人と馬を食わせる費用も上がりました。それに明後日出たいのでしょう」


「急ぐだけでそこまで高くなるのか」


「明後日に間に合わせるため、こちらも荷車、人夫、護衛をすぐ揃えます」


「8,000にしろ」


「12,000です」


「昔から取引しているだろう」


「ですから、空いている場所へ入れています」


「ほかにも客がいるのか」


「います」


「俺が断ったら?」


「次の方を入れます」


 男は戸口の方を見た。


 実際に客が待っている。


「今、現金12,000を全部使いたくない」


「では商品を売ってください」


「絹を?」


「はい。値を見て、俺が買える物なら買います。その代金を運賃へ回せます」


「今の相場で買うのか」


「俺が今日ここで買う値です」


「安く買うつもりだな」


「高く買う方がいるなら、その方へ売ってください」


「明後日出ると言っただろう」


「だから俺へ来られたんでしょう」


 男が田朔を睨んだ。


「お前のところへ来ると、どこからでも銭を取られるな」


「南へ行きたいのは俺ではありませんから」


 男は黙った。


 結局、現金7,000銭を払い、残る5,000銭分については絹を田朔へ売った。


 田朔が付けた買値は、平時なら男が承知しない値だった。


 だが、明後日には長安を出たい。


 別の買い手を探して値を競わせる時間はない。


 田朔は、その時間まで値段に入れた。


 ◇ ◇ ◇


 次に来た男は、運賃を払うだけの現金が足りなかった。


「家を担保にする」


「いりません」


 田朔は即座に断った。


 男が驚いた。


「お前は家も店も買っていると聞いたぞ」


「1月や2月の話です」


「この家は立派だ。今までなら喜んで取っただろう」


「今は建物より、持って逃げられる物の方が欲しいんです」


「ではどうする」


「銀、宝飾品、布、馬、持ち運べる商品なら見ます」


「そんな物まで手放したら、南へ行った後に困る」


「それなら現金で払ってください」


「足りないと言っている」


「荷を減らす方法もあります」


「家は受け取らないのか」


「安ければ買うことはあります。ただ、運賃の代わりに今の長安の家を高く評価する気はありません」


 男の顔が険しくなった。


「人が困っている時ほど条件を悪くするのか」


「俺が欲しくない物を高く買う理由はありません」


「融通が利かんな」


「銀を売る、馬を売る、荷を減らす、出発を遅らせる、別の商隊を探す。方法はあります」


「全部、俺に不利じゃないか」


「長安から急いで逃げたい時点で、あなたの立場が有利なわけがないでしょう」


 男は返せなかった。


 最終的に馬2頭と銀器を田朔へ売り、残る分を現金で払った。


 田朔はその日だけで5人全員の話をまとめた。


 3日後に出る商隊には、客の荷車31台が加わることになった。


 ◇ ◇ ◇


 玉蓮は帳面へ金額を書きながら尋ねた。


「ずいぶん高くしたわね」


「それでも全部埋まった」


「3月なら、この値を聞いて帰った人もいたでしょうね」


「今も怒って帰る奴はいる」


「それでもほかの人が入る?」


「ああ」


「もう少し上げても払うと思う?」


「次は上げる」


 玉蓮が田朔を見る。


「本当にやるのね」


「今日の値で空きがなくなるなら安かったということだ」


「商隊の料金まで品物と同じなのね」


「同じだ。欲しい人が多くて数が足りなければ上がる」


 田朔は帳面を見た。


「ただし31台で止める」


「まだ申し込みは来ているわよ」


「次の便へ回せ」


「もっと高い銭を払うと言われても?」


「今回は増やさない」


 玉蓮は少し意外そうだった。


「珍しいわね」


「荷車を増やしすぎれば列が長くなる。護衛が薄くなって途中で襲われたら、次の商売がなくなる」


「信用を売っているから?」


「ああ。それに俺の商品も同じ商隊へ入れる」


 田朔は自分の荷を記した帳面を見せた。


 銀、証文の写し、質流れの装飾品、高価な布などを荷車8台へ載せる予定だった。


 長安で燃えたり奪われたりすれば困る物から、少しずつ漢中へ移す。


 客31台に田朔の8台を加え、合計39台で出す。


 護衛料は客から取っている。


 田朔自身の8台のために別の大商隊を作る必要はない。


 玉蓮が笑った。


「また客の銭で自分の商品を守らせるのね」


「客の荷も同じように守る」


「分かっているわよ」


「なら問題ない」


「本当に無駄が嫌いね」


「同じ道を2つの商隊で走らせる方がおかしい」


 ◇ ◇ ◇


 5月5日の朝。


 城外の倉には39台の荷車が並んだ。


 客の家族や使用人も加わり、人数は100人近い。


 護衛は36人。


 段烈は今回は長安へ残った。


 次の商隊を準備しながら、田朔の護衛をさらに増やす必要があるからだ。


 南へ向かう隊列は、段烈が選んだ兵役経験の長い男へ任せた。


 漢中側では馬福成(マー・フーチョン)が人を手配しており、途中で南側から来る護衛と合流する段取りも決めてある。


 田朔は出発前に隊列を1周した。


 家族連れの荷車と高価な品を積んだ車を中央へ置く。


 護衛を前後へ集中させすぎず、列の中央にも入れた。


 客の1人が尋ねた。


「何日で着く」


「道次第です。急がせて馬を潰すつもりはありません」


「料金は高いのに速くないのか」


「速さだけなら少人数で走った方がいいでしょう。俺が売っているのは、まとまった護衛と一緒に南へ行けることです」


「途中で道が塞がれていたら?」


「別の道へ回ります。そのために先の情報も集めています」


「絶対に着くと言えるか」


「絶対とは言いません」


 男が不満そうな顔をした。


 田朔は続けた。


「絶対に安全だと言う商人がいたら、俺ならそいつには頼みません」


 男は黙った。


 やがて隊列が動き始めた。


 田朔は城外で見送った。


 39台のうち8台には、自分の財産が積まれている。


 その運送と護衛の費用の大半は、長安から逃げたい客が払っていた。


 しかも料金をすべて差し引いても利益は残る。


 他人が逃げるために払った銭で、田朔は自分の財産を先に逃がした。


 ◇ ◇ ◇


 その夜、田朔は玉蓮の部屋へ入った。


 玉蓮は寝台の端へ座り、田朔の腕を見た。


「朝もあれだけ鍛えて、昼はずっと商隊の準備をしていたでしょう」


「ああ」


「まだ元気なの?」


「確かめるか」


「聞いた私が悪かったわ」


 そう言いながらも、玉蓮は田朔が隣へ座ると離れなかった。


「漢中へ荷を出して、少しは安心した?」


「まだだ」


「現金も銀も少し出したでしょう」


「父さんと母さんは長安にいる。玉蓮もいる」


「私も先に出すつもり?」


「ああ」


「嫌と言ったら?」


「理由を聞く」


「店をあなた1人に任せるのが嫌だから」


「番頭がいる」


「全部の帳簿を任せられる人はいないでしょう」


「馬さんがいればな」


「その馬さんは漢中でしょう」


 玉蓮は田朔の胸へ手を置いた。


「私は最後まで残る」


「本当に危なくなれば乗せるぞ」


「嫌なことは無理にしないんじゃなかったの?」


「抱く話と逃がす話を一緒にするな」


 玉蓮が笑った。


「そこは別なのね」


「ああ」


「では私にも条件がある」


「何だ」


「私が逃げる時は、あなたも逃げる」


「それは困る」


「なぜ?」


「最後まで売れる物は売りたい」


「やっぱり銭」


「当然だろう」


「本当に悪い男ね」


「今さらだ」


 その夜も、先に休みたいと言ったのは玉蓮だった。


 田朔は嫌がることを無理にはせず、そのまま休ませた。


 それでも夜明け前になると、田朔はいつもの時間に起きた。


「また稽古へ行くの?」


 玉蓮が寝台から尋ねた。


「ああ」


「昨夜も随分元気だったのに?」


「それとこれは別だ」


「あなた、欲張りすぎるのよ。銭も店も女も欲しがって、それを守る身体まで欲しい」


「全部欲しいから鍛えている」


「その答えも欲張りね」


 田朔は笑い、裏庭へ向かった。


 385年5月上旬が終わった。

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