第6話(後編)――「逃げる町で太る」
385年4月下旬。
4月21日。
長安では、店を閉める商人がさらに増えていた。
戸板を打ち付けた店の前を、家財を積んだ荷車が南へ向かっていく。
その一方で、田朔の店には朝から人が出入りしていた。
張遠から買った店は、買収前より荷の動きが増えている。
田朔が以前から持っていた仕入れ先と、張遠の店が持っていた仕入れ先を比べ、品ごとに条件のよい方へ注文を回したからだ。
荷車もまとめた。
以前なら、本店と張遠の店が別々に荷車を出していた仕入れ先へ、今は1つの隊列で向かわせる。
帰りには途中にある別の仕入れ先からも荷を積む。
空荷で走る車を減らすだけで、人夫と馬へ払う銭が減った。
玉蓮が帳面を見ながら言った。
「張さんの店、買った時より利益が出ているわ」
「それならいい」
「普通はもう少し喜ばない?」
「まだ10日しか動かしていない」
「10日でこれだけ変われば十分でしょう」
「前の店主が悪かったわけじゃない。別々だった商売を一緒にしたから無駄が減っただけだ」
「そういうところは冷静なのね」
「儲かった理由を間違えたら、次に同じことができない」
田朔は帳面の別の箇所を指した。
「この油は張さんの仕入れ先の方が安い。塩は今までの相手の方がいい。豆は両方から買え」
「豆だけは片方へまとめないの?」
「片方の道が止まったら全部来なくなる」
「なるほどね」
「少し高い方を残しておいた方が、道が止まった時に困らない」
玉蓮は帳面へ書き込んだ。
「店が増えるほど細かくなるわね」
「店が増えれば、失敗した時に失う銭も増える」
◇ ◇ ◇
4月23日、買い取った証文のうち、返済期限を過ぎた1件で、市内の倉1棟を担保として受け取った。
翌日には、別の借り手から4,300銭が返ってきた。
12,000銭で買った証文の束からは、現金だけでもすでに12,100銭を回収している。
そのうえ、呉成から受け取った荷車8台、馬3頭、倉1棟と、今回受け取った倉1棟が残った。
まだ返済期限の来ていない証文もある。
玉蓮は計算を終えると、帳面を田朔へ向けた。
「現金だけでも、もう買値を超えたわ」
「ああ」
「荷車と馬と倉2棟は、そのまま利益になる」
「維持にかかる銭は引け」
「それを引いても十分よ」
「なら次も買える」
玉蓮は呆れた。
「もう次のことを考えているの?」
「逃げる金貸しがまた来るならな」
「本当に人が逃げるほど大きくなるのね」
「俺が追い出しているわけじゃない」
「でも逃げる人から安く買う」
「ああ」
「困っている人には高い利で貸す」
「ああ」
「返せなければ店や倉を取る」
「ああ」
玉蓮は田朔を見る。
「自分で言っていて、ひどいと思わない?」
「思う」
玉蓮の目が少し大きくなった。
「思うの?」
「ああ」
「それでもやる?」
「儲かるからな」
玉蓮はしばらく田朔を見ていたが、やがて笑った。
「そこまで平然と言われると、何も言えないわ」
「善人だと言ったことはない」
◇ ◇ ◇
4月26日の朝、田朔はいつものように裏庭を走っていた。
段烈がいない間にも、稽古の量は減らしていない。
走り込み、重い荷を担ぐ訓練、革袋への打撃、木棒を使った足運び、組み討ちを続けている。
荷運び時代から腰と脚には力があったが、今は肩と背中にも厚みが増していた。腹にも余分な肉はほとんど付いていない。
見栄えのために鍛えているわけではなかった。
この朝、田朔は兵役上がりの男3人を相手に、自分の後ろへ人を逃がす稽古をしていた。
「旦那、3人を倒す稽古ではありませんよ」
「分かっている」
「なら、勝とうとしないでください」
「何をすればいい」
男は庭の端を指した。
「後ろに守りたい人がいるとします。旦那がここで長く戦えば、一緒に捕まります。まず道を作って、その人を逃がすんです」
「3人来たら?」
「一番近い1人の動きを止める。倒さなくてもいい。その間に後ろの人を下がらせます」
「やってみろ」
田朔は木棒を構えた。
1人目が打ち込んでくる。
正面から受けず、横へずれて棒の先を外す。
2人目が回り込んだ。
田朔は肩を当てて進路を塞ぎ、後ろへ下がる。
3人目が横から入ってきたところで、腹へ軽く木棒を当てられた。
「今ので終わりです」
「もう1回」
「どこが悪かったか分かりましたか」
「3人目を見ていなかった」
「それが分かったなら、もう1回やりましょう」
田朔は位置へ戻った。
何度も繰り返した。
欲しいのは、3人を殴り倒す武勇ではない。
父と母、自分の女たちを逃がすまで立っていられる身体だった。
店や倉なら失ってもまた稼げる。
銭も取り戻せる。
だが、家族や大事な女を失えば取り戻せない。
そのための稽古なら、毎朝続ける価値があった。
◇ ◇ ◇
4月28日の午後、南門から田朔の商隊が戻ってきた。
「旦那!」
人夫の声が通りに響いた。
田朔は店を出た。
先頭の馬に乗っていたのは段烈だった。
その後ろに荷車が13台続いている。
どの車にも粟、豆、乾物が積まれていた。
田朔は段烈のところまで歩いた。
「遅かったな」
「秦嶺の道を荷車で往復してみろ。長安の中を走るのとは違うぞ」
「馬さんは?」
「漢中に残った」
段烈は懐から封をした手紙を出した。
「店と倉を借りた。商売も始めている。これは馬さんからだ」
田朔はその場で封を開いた。
馬福成の字だった。
漢中で店1軒と倉1棟を借りたこと、長安から運んだ塩と布が売れ始めたこと、長安から逃れてきた者が銭に換えようとする銀器や道具も、値を見て買い取っていることが書かれていた。
帰りの荷車へ載せる粟と豆も集めた。
ただし、食糧は田朔が最初に考えたほど安くなかった。
漢中にも長安の状況が伝わり、北へ売れば高くなると考える商人が増えていた。
それでも長安の値と比べれば、十分に利益が残る。
「この13台の食糧は全部買ったのか」
田朔が尋ねると、段烈が答えた。
「ああ。長安まで持ってきても利益が残る値で買った。ほかの荷車5台は馬さんが向こうで使うために残した」
「南へ運んだ客の荷は?」
「全部届けた。追加で預かった荷の運賃も受け取ってある」
田朔は玉蓮を呼んだ。
「この食糧の半分は倉へ入れろ。残りは店へ回す」
「全部売るの?」
「売る分と貸す分に分ける」
玉蓮が理解した。
「食糧で貸すのね」
「ああ。銭で売れば1回で終わる。貸せば返す時に増える。返せなければ担保が入る」
段烈が横から聞いていた。
「帰ってきた途端、それか」
「何がだ」
「少しは無事に帰った俺たちを労え」
「今夜は酒と肉を出す」
「それならいい」
「明日の朝は稽古も頼む」
段烈の顔が変わった。
「俺は今日、漢中から帰ったんだぞ」
「だから今日は休めと言っている」
「明日は?」
「いつも通りだ」
「本当に容赦がないな」
周囲の人夫が笑った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
段烈は約束通り裏庭にいた。
「来い」
久しぶりに段烈と向かい合った田朔は、すぐ構えた。
段烈が踏み込む。
田朔は真正面から受けず、身体を外して腕を取った。
段烈が腰を落とす。
以前ならここで無理に投げようとして逆に倒されていた。
田朔は投げるのを諦め、足を変えて肩で押した。
段烈が2歩下がった。
「少し変わったな」
「毎日やった」
「俺がいない方が上達したんじゃないか」
「なら給金を下げる」
「今のは忘れろ」
再び組み合う。
今度は田朔が段烈の足を崩し、片膝を地面につかせた。
「今のは取っただろう」
「まだだ」
次の瞬間、田朔は腕を捻られ、地面へ落とされた。
背中に土が付く。
それでも田朔は笑った。
「前より長く立っていた」
「それは認める」
段烈は手を差し出した。
「身体も強くなっている。だが、力を入れすぎる癖はまだ残っている」
「直す」
「どこまでやる気だ」
「毎日だ」
「いつまで」
「やれる間はずっとだ」
段烈が呆れた。
「商人の言うことか」
「銭を持った商人の方が狙われるだろう」
「それはそうだ」
田朔は立ち上がった。
「もう1回だ」
「昨夜は女のところへ行かなかったのか」
「玉蓮の部屋にいた」
「それでまだやるのか」
「関係あるか」
「俺の方が先に疲れそうだ」
「交代の男はいる」
「本当に容赦がないな」
田朔は構え直した。
商売も女も身体も、どれかを諦める気はなかった。
全部欲しいなら、それだけ働き、それだけ鍛えればよかった。
◇ ◇ ◇
4月30日。
玉蓮が月末の帳面をまとめた。
3月末に約92,000銭あった動かせる現金は、店や債権を大きく買ったにもかかわらず、4月末には約127,000銭まで増えていた。
さらに4月だけで、店1軒、倉4棟、荷車13台、馬6頭が増えた。張遠の店から引き継いだ仕入れ先と得意先の帳面があり、まだ回収していない貸付債権も残っている。
漢中にも借りた店と倉ができた。
平時より低めに値を見積もっても、田朔が持つ店、倉、商品、貸付債権、荷車、馬などを合わせた財産は30万銭を超えていた。
玉蓮は最後の数字を書き終え、田朔を見た。
「1月の頃とは、もう別の商売ね」
「まだ梁家より小さい」
「これでも?」
「ああ」
「本当にどこまで欲しいの?」
「梁家を抜いたら、その時は次が欲しくなるだろうな」
「終わりがないじゃない」
「終わらせる理由がない」
玉蓮は笑った。
「では、長安がこんなことになっているのも、あなたには好都合?」
「店が焼けるのは困る。俺や皆が死ぬのも困る」
「それ以外は?」
「逃げる奴は店や商品を安く売る。商売が苦しい奴は借りる。返せない奴は担保を渡す。南へ行きたい奴は、俺の商隊へ運賃と護衛料を払う」
田朔は帳面を閉じた。
「なら、まだ儲けられる」
外では、また1台の荷車が家財を積んで南へ向かっていた。
長安から去る者が財産を手放し、残る者が食糧を求め、商人が借金を抱えるたびに、田朔の店、倉、荷車、馬は増えていった。
戦乱に追われて銭を失う側へ戻るつもりはなかった。
385年4月が終わった。




