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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第二章――「長安崩壊、悪党は儲ける」

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第8話(中編)「長安を捨てる」

 385年6月中旬。


 6月9日の日の出前。


 田朔はいつものように裏庭へ出た。


 今日、長安を離れる。


 それでも稽古は休まなかった。


 走る距離は少し減らしたが、木棒を使った足運びと組み討ちはいつも通り行った。


 兵役上がりの男が呆れた。


「今日くらい休んでもいいでしょう」


「今日だからやる」


「昼から何日も道を進むんですよ」


「だから身体を動かしておく」


「旦那は休むのが嫌いなんですか」


「好きだぞ」


「そうは見えません」


「銭も女も商売も欲しい。全部取ろうとすれば、休む時間が減るだけだ」


「全部欲しがるからでしょう」


「そうだ」


 田朔は最後にもう一度組み合った。


 相手が腕を取る。


 田朔は以前のように力任せに引かなかった。


 半歩入って肩を当て、腰を回す。


 男の身体が崩れたところで足をかける。


 今度は相手の背中が土へ落ちた。


 田朔はすぐに離れた。


 男が起き上がりながら笑った。


「今のは取られました」


「ようやくか」


「段さん相手なら、まだこうはいきませんよ」


「分かっている」


「少しくらい喜んだらどうです」


「喜んでいる。もう1回やりたいくらいだ」


「今日はやめてください。商隊が待っています」


「それもそうだな」


 田朔は稽古を終えた。


 ◇ ◇ ◇


 朝食の後、田朔と玉蓮は本店へ向かった。


 前日に営業は終えている。


 店先では戸板を打ち付ける作業が進んでいた。


 現金、印、証文、重要な帳面はすでに箱へ入れた。運べる商品も大半を荷車へ積んである。


 残したのは値の低い家具、重すぎる物、漢中まで運ぶ費用に見合わない商品だった。


 漢中へ移る従業員は、本人と家族を商隊へ加える。


 家族の事情などで長安に残る者には、この日までの給金を払った。


 玉蓮が尋ねた。


「漢中へ来る人たちからは、本当に運賃を取らないのね」


「向こうでも働く奴から運賃を取ってどうする」


「あなたなら取るかと思った」


「漢中で一から人を雇う方が面倒だ」


「やっぱり親切ではないのね」


「給金を払って働いてもらう。それで十分だろう」


 長安に残る年長の店員が田朔へ尋ねた。


「旦那。ここはどうします」


「無理に守るな」


「でも旦那の店です」


「命を張るほどの物じゃない」


「まだ商品も少し残っています」


「持って逃げられる物は、危なくなった時に持っていけ。火が回ったり兵が来たりしたら、残りは全部置いて逃げろ」


「後で弁償しろとは言いませんか」


「言わない」


「本当に?」


「店1軒のために働く人間が死ぬ方が損だ」


 男は安心したようだった。


「分かりました」


「生きて漢中まで来たら仕事はある」


「はい」


 田朔は店の中を見回した。


 沈徳昌から取り上げた店である。


 この店を手に入れた時、自分がこれほど早く長安を離れるとは考えていなかった。


 だが、建物へ執着して自分まで残れば、持ち出した銭も新しい商売も使えない。


 田朔は戸を閉めた。


 ◇ ◇ ◇


 出発前、田朔は韓敬(ハン・ジン)陳貴(チェン・グイ)のところへも寄った。


 2人とも役所に残っていた。


「本当に今日出るのか」


 韓敬が尋ねた。


「はい」


「妻はもう漢中へ着いただろうか」


「日数から考えれば、着いている頃だと思います。ただ、俺もまだ報せを受けていません」


「そうか」


「向こうへ着いたら、すぐ確かめます」


「頼む」


 陳貴も田朔へ言った。


「春華も頼むぞ」


「はい」


「俺たちは、まだ出られそうにない」


「今日一緒に出ませんか」


 陳貴が苦笑した。


「お前が役所を代わってくれるならな」


「それは嫌です」


「即答か」


「商売の方がいいです」


「最後までそれか」


 韓敬は田朔へ1枚の書類を渡した。


「南門へ話は通してある。お前の商隊は荷を改めたら出してもらえる」


「ありがとうございます」


「最後の頼みだ。妻を頼む」


「分かっています」


 田朔は2人を見た。


「本当に残るんですね」


「ああ」


 韓敬が答えた。


「今ここで仕事を投げて逃げれば、その先でも役人として使ってもらえるか分からん。出られる時が来たら出る」


 田朔は陳貴へ顔を向けた。


「陳さんも?」


「韓さんが残るのに、俺だけ先に逃げるわけにもいかん」


「分かりました」


 田朔はそれ以上勧めなかった。


 逃げ道は用意した。


 乗るかどうかを決めるのは2人だった。


 ◇ ◇ ◇


 昼前、商隊が南門を出た。


 客の荷車26台、田朔の荷車14台、従業員とその家族の荷車5台を合わせ、45台である。


 護衛は38人。


 これ以上は増やさなかった。


 田朔自身が同行するため、現金、銀、証文、帳面、高価な品はできるだけ隊列の中央へ置いた。


 玉蓮も中央の荷車に乗せた。


 田朔は最初のうちは馬へ乗らず、荷車の横を歩いた。


「あなたも乗れば?」


 玉蓮が荷車から言った。


「まだいい」


「これから山道なのよ」


「疲れたら乗る」


「鍛えた身体を見せたいの?」


「馬を休ませたいだけだ」


「少しくらい格好をつけてもいいのよ」


「誰に見せる」


「私」


「もう知っているだろう」


「何を?」


「身体が丈夫なのを」


 玉蓮が笑った。


「それは嫌になるほど知っているわ」


 近くを歩いていた人夫が聞こえないふりをして前を向いた。


 ◇ ◇ ◇


 南へ進むほど、道には長安から同じ方向へ逃げる者が増えた。


 家財を背負って歩く家族、幼い子を荷車へ乗せて押す者、持てるだけの荷を馬へ積んだ商人がいる。


 田朔の商隊は、道端で休む一団を追い越し、足の速い馬の一団には先へ行かれた。


 北へ向かう商人や荷車は、ほとんど見かけなかった。


 2日目の午後、道端に荷車3台が止まっていた。


 田朔の長い隊列を見つけると、商人が走ってきた。


「漢中へ行くのか!」


「行きます」


「俺たちも入れてくれ」


「何人です」


「家族を入れて11人。荷車3台だ」


「護衛料と隊列へ加わる料金で5,000銭です。途中からですので、食糧はご自分の分を使ってください」


「5,000? 高すぎる」


「では、このまま行かれても構いません」


 男は田朔の後ろに並ぶ護衛を見た。


 自分の荷車には、戦えそうな成人男性が3人しかいない。


「3,000」


「5,000です」


「4,000」


「5,000です」


「少しくらい下げろ!」


「今ここで止まっている間も、俺の商隊は先へ進めません」


 男が黙った。


「……払う」


「では、先にお願いします」


「ここで?」


「はい」


「漢中へ着いてからでは駄目か」


「着いた後に払わないと言われても困りますから」


「本当に容赦がないな」


 男は5,000銭を払った。


 3台が隊列へ加わった。


 長安から逃げる途中でさえ、田朔の客は増えた。


 ◇ ◇ ◇


 数日後、北から追いついてきた避難民たちが、大きな報せをもたらした。


 前秦の太子苻宏(フー・ホン)は長安を守り切れず、母や妻、宗室の者たちを伴って西へ逃れた。役人たちも散り、西燕の慕容沖(ムーロン・チョン)軍が長安へ入ったという。


 史書でも、385年6月に苻宏が長安を捨て、慕容沖が入城したことが記録されている。 ([ウィキソース][1])


 玉蓮は荷車の上から田朔を見た。


「本当に落ちたの?」


「同じ話をする奴が何人もいる。間違いないだろう」


「店は?」


「分からない」


「家は?」


「分からない」


「倉も?」


「ああ」


 玉蓮は長安のある北を振り返った。


「ずいぶん置いてきたわね」


「持っていけない物は仕方ない」


「悔しくないの?」


「悔しい」


「そう見えないわ」


「戻っても守れない」


 田朔は前へ続く隊列を見た。


「銭、銀、証文、帳面、馬、荷車、働く人間はかなり持ち出した。漢中には店と倉もある」


「長安で失った物は?」


「また稼ぐ」


「簡単に言うのね」


「最初は何もなかった」


 田朔は振り返らずに言った。


「今は銭も人もある。最初よりずっと楽だ」


 玉蓮は田朔の背中を見た。


「本当に強くなったわね」


「商売の話か」


「それだけではないわよ」


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、長安から逃げてきた別の一団が田朔の商隊へ追いついた。


 田朔は韓敬(ハン・ジン)陳貴(チェン・グイ)について尋ねた。


「役所にいた韓敬という方と陳貴という方をご存じですか」


 男は首を振った。


「名までは分からない。役所もひどい騒ぎだった」


「南門の方は?」


「逃げる奴でいっぱいだった。兵も役人も入り乱れていた」


「韓敬さんか陳貴さんが死んだという話は聞きませんでしたか」


「聞いていない」


「分かりました」


 田朔は、それ以上その男から聞き出そうとはしなかった。


 玉蓮が尋ねた。


「春華さんと淑蘭さんには、何と話す?」


「分からないものは分からないと言う」


「死んだとは決めないのね」


「ああ」


「生きているかもしれない?」


「それも分からない」


「あなたにしては慎重ね」


「生き死にを勝手に決めても仕方ないだろう」


 田朔は、その後も北から来る避難民や商人へ2人の名を尋ねた。


 梁家についても聞いた。


 しかし、この時点では誰も確かなことを知らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 さらに2日進んだ夜。


 商隊が宿場で休んでいると、食糧を持たない避難民が集まってきた。


「粟を売ってくれ」


「子どもが食べていない」


「少しでいい」


 田朔は食糧を管理している男を呼び、残量を確かめた。


 漢中へ着くまで商隊全員が食べる分を先に分ける。


 そのうえで、少しだけ余裕があった。


 玉蓮が尋ねた。


「売るの?」


「ああ。ただし、商隊の分は減らさない」


 田朔は余剰分に高い値を付けた。


 長安が平穏だった頃の何倍もの値だった。


 避難民の1人が怒った。


「こんな時にその値か!」


「うちも漢中まで食べなければなりません」


「人が飢えているんだぞ」


「分かっています」


「なら安くしろ!」


「その値なら売りません」


「鬼か!」


「俺の食糧を全部配って、3日後に俺たちが飢えたら誰が食わせてくれます?」


 男は黙った。


 田朔は、予定していた余剰分だけを売った。


 銭のない者には売らなかった。


 ただし、荷車を押せそうな男たちには別の話をした。


「働けるなら飯を出します」


 痩せた男が田朔を見る。


「働けば食わせるのか」


「漢中まで荷車を押してください。1日2回の飯と少しの給金を出します」


「漢中へ着いた後は?」


「仕事が欲しければ、その時に話します」


 5人が申し出た。


 食糧をただ配れば、その場でなくなる。


 働ける男へ食わせれば、田朔の商隊を動かす人間が増える。


 田朔は逃げる途中でも、銭を持たない者から別の利益を取った。


 385年6月中旬が終わった。

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