第6話(前編)――「店ごと買う」
385年4月上旬。
前話の収入:約118,000銭
前話の支出:約76,000銭
現在動かせる金:約92,000銭
4月1日の日の出前、田朔は家の裏庭を走っていた。
3月30日に段烈が漢中へ向かう商隊へ同行したため、いつもの相手はいない。
それでも稽古を休む理由にはならなかった。
段烈が長安に残した兵役上がりの男2人を相手に、走り込みの後は重い麻袋を担いで庭を往復し、吊した革袋へ拳を打ち込む。最後は木棒を使った足運びと受けを繰り返し、組み討ちまで行った。
以前の田朔なら、力が尽きるまで腕だけで殴った。
今は足を止めない。
相手の正面へ長く立たず、身体をずらして入る。掴まれても力比べをせず、足と腰を使って崩す。
それでも兵役上がりの男の方がうまかった。
田朔が腕を取りに行った瞬間、足を払われた。
背中から地面へ落ちる。
「もう1回だ」
田朔は立ち上がった。
相手が苦笑した。
「旦那、今日はこれで6回目です」
「まだ立てる」
「俺たちの方が先に疲れますよ」
「なら交代しろ」
もう1人が前へ出た。
「段さんから、旦那を甘やかすなと言われています」
「それなら遠慮するな」
田朔は再び構えた。
店や倉は金を払えば番人を置ける。
荷車にも護衛を付けられる。
だが、自分へ刀や棍棒を向けられた時まで、必ず誰かが間に入ってくれるとは限らない。
父と母もいる。
玉蓮もいる。
いずれ春華や淑蘭まで連れて逃げることになれば、その女たちも守らなければならない。
銭を増やすだけでは足りなかった。
守りたい者が増えるほど、自分の身体にも時間と銭をかける必要がある。
稽古を終える頃には、4月の朝だというのに衣の背中まで汗で濡れていた。
田朔は家へ戻り、身体を拭いた後、肉、豆、卵、粟飯を腹へ入れた。
それから店へ向かった。
◇ ◇ ◇
店では許玉蓮が帳面を何冊も広げて待っていた。
「また話が来たわ」
「何の?」
「店を売りたい人よ」
「店だけか」
「今回は違うわ」
玉蓮は1冊の帳面を田朔の前へ置いた。
「店、倉2棟、荷車5台、馬3頭。粟、豆、油、乾物の在庫もある。番頭が2人、人夫と店の者を合わせて11人。それから仕入れ先と得意先の帳面、売掛金もあるそうよ」
田朔はすぐに尋ねた。
「借金は?」
「約4,200銭」
「店主は?」
「張遠。47歳。家族を南へ出して、自分も今月中には長安を離れたいらしいわ」
「いくら欲しいと言っている」
「30,000銭」
田朔は帳面を開いた。
「高いな」
「平時なら、それくらいでもおかしくないと思う」
「今は平時じゃない」
玉蓮が調べた数字が帳面に並んでいる。
店と倉だけでも値打ちがある。荷車5台と馬3頭もすぐ使える。食糧の在庫は今の長安なら高く売れる。
田朔が特に目を止めたのは、長年取引してきた仕入れ先と得意先だった。
「この店、北と東に仕入れ先が多いな」
「そうね。うちが今まで使ってきた相手とはかなり違うわ」
「番頭は長いのか」
「1人は15年、もう1人は9年」
「張さんが出た後も残るつもりか」
「そこまでは聞いていないわ」
「会ってから聞く」
田朔は帳面を閉じた。
「今日行こう」
◇ ◇ ◇
張遠の店は、田朔の本店より少し小さかった。
しかし裏には2棟の倉があり、荷車を入れられる庭もある。
田朔は玉蓮と郭安を連れて店へ入った。
張遠は痩せた男だった。
「30,000銭なら、すぐ譲る」
挨拶を終えると、張遠はそう言った。
「30,000は出せません」
田朔は答えた。
「ではいくらだ」
「16,000です」
張遠の顔が険しくなった。
「ふざけるな。店だけでもそれ以上する」
「平時ならそうでしょう」
「倉が2棟ある。荷車も馬もあるぞ」
「借金もあります」
「4,200だけだ」
「その借金も俺が引き受けるんでしょう」
「そうだ」
「なら、俺が負担するのは買値だけではありません」
「それでも安すぎる」
「売掛金も全部回収できるとは限りません」
「仕入れ先と得意先の帳面まで渡す」
「そこには値打ちがあります」
「なら上げろ」
「17,000」
「話にならん」
張遠が立ち上がった。
田朔は止めなかった。
「では、ほかの方へ売ってください」
「今なら買い手はいくらでもいる」
「それなら、俺へ話を持ってくる必要はなかったでしょう」
張遠の動きが止まった。
田朔は続けた。
「30,000で買う方がいるなら、そちらへ売った方がいい。俺は止めません」
「お前は、この店に30,000以上の値打ちがあることくらい分かっているはずだ」
「分かっています」
「なら、なぜ17,000しか出さない」
「張さんが急いで長安を出たいからです」
張遠が田朔を睨んだ。
「人の足元を見るのか」
「はい」
田朔は平然と答えた。
「急いでいないなら、安く売る必要はありません。半年かけて買い手を探せば、俺より高く買う人もいるでしょう」
「それができないと分かって言っているな」
「だから17,000です」
「20,000」
「17,000です」
「19,000」
「17,500」
「18,500」
「18,000までです。それ以上なら買いません」
張遠は店の奥を見た。
何年も商売を続けた場所である。
それでも長安を離れるなら、売るか置いていくしかない。
「……借金4,200もお前が払うんだな」
「帳面を調べて、ほかに借金がないと分かれば引き受けます」
「従業員は?」
「人は買えません」
張遠が眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「残りたい人には俺が仕事を出します。張さんと一緒に出たい人は止めません」
「番頭は欲しいんだろう」
「欲しいですよ」
田朔は答えた。
「店と倉だけあっても、誰も動かせなければ商売になりません。俺が欲しいのは、買った翌日から動く店です」
張遠は田朔の顔を見た。
「19歳だったな」
「はい」
「嫌な若造だ」
「よく言われます」
結局、18,000銭で話がまとまった。
ただし、田朔はその日に銭を払わなかった。
郭安と玉蓮に帳面を確認させ、店と倉の権利、借金、売掛金を調べる。さらに韓敬のところへ書類を持ち込み、後から別の者が店や倉の権利を主張できないことまで確かめた。
問題がないと分かったのは4月4日だった。
田朔は18,000銭を払い、張遠が抱えていた4,200銭の借金も引き受けた。
◇ ◇ ◇
店で働いていた者を集めると、田朔は最初に条件を示した。
「張旦那は長安を出ます。この店と倉は今日から俺が引き継ぎます。ただし、皆さんまで俺が買ったわけではありません」
年長の番頭が尋ねた。
「では、私たちはどうなります」
「残るなら、今までと同じ給金を出します。仕事も急には変えません」
「店の名前は?」
「当分そのままです」
「なぜです?」
「昔からの得意先が覚えている名前だからです。俺の名前へ替えて客が増えるなら替えますが、減るなら意味がありません」
もう1人の番頭が尋ねた。
「仕入れ先も変えませんか」
「値と品に問題がなければ続けます。ただし、俺のほかの店でも同じ物を買っています。今後は仕入れ先を比べ、条件に応じて買う量を変えます」
「張旦那について南へ行く者は?」
「止めません」
11人のうち2人は、張遠とともに長安を離れることを選んだ。
残る9人は田朔の下で働くことになった。
田朔は22,200銭ほどの負担で、店1軒、倉2棟、荷車5台、馬3頭、在庫、売掛金、長年の取引を記した帳面を手に入れた。さらに、張遠の店を知り尽くした番頭や人夫9人も、自分の意思でそのまま働くことになった。
店を出た玉蓮が言った。
「建物だけでも、あの値では買えなかったでしょうね」
「ああ」
「それに荷車と馬、商品、取引先の帳面まで付いてきた」
「だから買った」
「張さんが急いでいなければ無理だったわね」
「向こうは早く銭に換えたい。俺は今日買えなくても困らない。その違いだ」
田朔は新しく手に入れた店を振り返った。
「まだ動いている店なら、明日の朝から銭が入る。潰れてから買うより手間も少ない」
「逃げる人が増えるほど、あなたの店も増えそうね」
「値が合えばな」
◇ ◇ ◇
4月7日の夜、田朔は玉蓮の部屋へ入った。
新しく手に入れた店の帳面を見続けていた玉蓮は、まだ灯火の前に座っていた。
「まだ見るのか」
「仕入れ先が増えたのよ。明日までに分けておきたいの」
「明日でもできる」
「あなたはそう言って、朝になったらまた別の話を持ってくるでしょう」
「儲かる話ならな」
「やっぱり」
田朔は玉蓮の隣へ座った。
玉蓮がその肩へ触れた。
「また厚くなった気がする」
「何がだ」
「肩よ」
「毎朝鍛えているからな」
「段さんがいなくても?」
「残っている男に相手をしてもらっている」
「そこまでして強くなりたいの?」
「強くならない理由がない」
「店や商隊には護衛がいるでしょう」
「いつでも横にいるわけじゃない」
田朔は玉蓮の腰へ腕を回した。
「俺と玉蓮の2人だけの時に襲われるかもしれない」
「私を守るため?」
「玉蓮だけじゃない。父さんも母さんもいる。守りたい奴が増えた」
「春華さんも淑蘭さんも?」
「ああ」
「そこまで堂々と言われると、怒る方が馬鹿みたいね」
「怒るなら聞くぞ」
「聞くだけでしょう」
「嫌だと言われたことを無理にはしない」
「ほかの女をやめてと言ったら?」
「それは別だ」
「やっぱり」
玉蓮は笑った。
「本当に欲張り」
「知っている」
その夜、田朔は玉蓮の部屋で過ごした。
夜が更けても田朔の元気は衰えず、先に眠気に負けたのは玉蓮の方だった。
それでも夜明け前になると、田朔はいつもの時間に起きた。
衣を着ていると、玉蓮が目を開けた。
「もう行くの?」
「ああ」
「昨夜あれだけ元気だったのに?」
「朝は朝だ」
「私はまだ眠いのよ」
「寝ていろ」
「あなたを見ていると、私の方がおかしいみたいね」
「玉蓮は普通なんじゃないか」
「ではあなたは?」
田朔は戸を開けた。
「知らん」
「本当に可愛くないわね」
田朔は笑って部屋を出た。
空が白み始める頃には、もう裏庭を走っていた。
385年4月上旬が終わった。




