第5話(後編)――「逃げる前に店を出す」
385年3月下旬。
3月21日、田朔の店へ、これまで何度か取引した商人が訪ねてきた。
男は家族の一部をすでに南へ送り、残る家族と使用人を連れて自分も長安を離れるつもりだった。
「荷車12台を南へ出したい」
「何を積みますか」
「家財と商品だ」
「同行する人は?」
「俺を入れて18人だ」
「いつ出たいんです」
「5日以内だ」
田朔は荷の量、人数、必要な人夫と護衛を計算し、値を示した。
男は目を見開いた。
「6,000銭?」
「はい」
「高すぎる!」
「荷車12台と18人を、まとまった護衛を付けて南へ出します。道中の人夫と宿場の手配もこちらでします」
「荷車は俺の物だぞ」
「荷車を貸す銭は入れていません。護衛、人夫、隊列をまとめて南まで運ぶための値です」
「半分にしろ」
「できません」
「5,000」
「6,000です」
「知り合いだろう」
「だから5日以内に引き受けています。今は同じように南へ出たい人が多い」
男は苛立った。
「去年まで荷車を押していた若造が、俺から6,000銭も取るのか」
「去年なら、俺に頼む必要はなかったでしょう」
「払えなければどうする」
「荷を減らしてください」
「何を置いていけと言うんだ」
「手放してもよい商品があるなら、俺が買います。そこで受け取った銭を護衛料へ回すこともできます」
男が田朔を睨んだ。
「結局、商品まで安く買う気か」
「高いと思うなら売らなくて構いません。全部運ぶなら6,000銭です」
「お前には都合がいいことばかりだな」
「選ぶのはあなたです」
男は結局、商品を何点か田朔へ売った。
田朔は現在の長安で買い手を探す手間と、男が5日以内に出たい事情を織り込んだ安い値を付けた。
荷車は12台から9台に減った。
輸送する荷が減ったため料金も少し下がったが、田朔は商品を安く買う利益と、南へ運ぶ利益の両方を取った。
◇ ◇ ◇
こうした話は1件ではなかった。
家族だけ先に逃がしたい者、銀や絹を別の町へ移したい者、店の商品を南へ運びたい者が田朔のところへ来た。
田朔は荷物の量、同行する人数、行き先、出発日によって値を変えた。
急ぐ者からは高く取る。数日待てる者は、ほかの客と同じ隊列へまとめて少し安くする。荷物を減らしたい者からは、双方が値に納得すれば商品を買う。銭が足りない者には、長安に残す家や店を担保として貸した。
食糧を積んで長安へ戻る商人については、帰りの隊列を大きくできるため護衛料を少し下げた。
1人の客から1度だけ利益を取る必要はなかった。
荷を預かれば倉代が入る。運べば運賃が入り、危ない道なら護衛料が入る。銭が足りない客には貸し、返せなければ契約に従って担保を受け取る。商品を減らしたい客がいれば、それを相場より安く買う。
戦から逃げたい者が田朔の店へ来れば、その者が抱えている問題のどこかを商売に変えることができた。
◇ ◇ ◇
3月23日、田朔は梁家を訪れた。
以前のように荷運び人としてではない。
穀物を買うための商談だった。
客間へ通されると、梁景成が帳面を見ていた。
「随分大きくなったそうだな」
「まだ梁旦那ほどではありません」
「店が4軒、倉が7棟。荷車も増え、護衛を連れて商隊まで動かしていると聞いた」
「よくご存じですね」
「長安でそれだけ動けば、嫌でも耳に入る」
梁景成は帳面を閉じた。
「今日は何をしに来た」
「粟を売っていただきたいと思いまして」
「お前も随分持っているだろう」
「足りません」
「どれだけ集める気だ」
「売れる間は、売れるだけ集めます」
「今の長安では、食糧を持っている者が強いか」
「家だけ持っているよりは安心です」
梁景成が田朔を見る。
「お前、最近は家や店を前ほど買っていないそうだな」
「安ければ買います。ただ、1月ほどではありません」
「なぜだ」
「家は逃げる時に荷車へ積めませんから」
梁景成の目が細くなった。
「逃げるのか」
「まだです」
「なら、なぜ南へ商隊を出している」
「今は運賃と護衛料が取れるからです。それに、本当に逃げる日が来た時、初めて道を通るよりは今から知っておいた方がいい」
「秦がこのまま負けると思っているのか」
「分かりません」
「またそれか」
「秦が戦に勝っても、長安へ入る食糧が増えなければ、俺の商売には関係ありません」
「戦が収まれば道も戻る」
「戻れば長安で今まで通り儲けます」
「戻らなかったら?」
「南にも店を出し、そちらで商売を続けます」
梁景成は少し驚いた。
「長安でこれだけ店を増やして、今度は南にも出すのか」
「全部を長安へ置いておくのが怖くなりました」
「ようやく怖くなったか」
「怖いから、その逃げ道でも儲けています」
梁景成は声を上げて笑った。
「普通は逃げ道を確保したら安心するものだ」
「同じ道を使いたい人が多いなら、運賃を取った方が得でしょう」
「やはり嫌な商人になったな」
「梁旦那に教わりました」
「俺はそこまで教えていない」
「頭を使えとは言われました」
「都合のよいところだけ覚えているな」
梁景成は笑いながら、ようやく本題へ戻った。
「粟は200袋までなら売る」
「値は?」
梁景成が示した額は高かった。
「高いですね」
「長安の今の値を見れば分かるだろう」
「200袋まとめて買います。もう少し下げてください」
「お前の店なら、今日買って明日もっと高く売れる」
「運ぶ銭もかかります」
「お前は自分で荷車を持っている」
「人夫と護衛へは払います」
「そこまで俺が面倒を見る必要はない」
田朔はさらに値を詰め、最初に示された額から少し下げさせた。
それでも平時なら高すぎる値だったが、現在の長安なら十分に利益が残る。
「では、その値で200袋すべて買います」
「随分あっさり決めたな」
「欲しい物を買える値まで下がりましたから」
「前なら、もう少し粘っただろう」
「今は粟200袋を早く押さえる方が大事です」
梁景成は笑った。
「その口なら、もう荷運びには戻れんな」
「戻るつもりもありません」
商談は成立した。
田朔が客間を出る時、梁家の庭には何台もの荷車が見えた。
倉も店も使用人も、田朔の何倍もある。
それだけに、梁家が本当に長安を離れるとなれば、動かさなければならない物も桁違いだった。
大きいことは強い。
だが、動かなければならない時には、その大きさが重荷にもなる。
田朔は初めて、梁家の大きさを羨むだけではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
梁家を出る途中、田朔は何小玉と顔を合わせた。
小玉は田朔を見ると、しばらく顔を眺めた。
「本当に田朔?」
「ほかに見えるか」
「衣も履物も変わったから」
「前より少し銭がある」
「少し?」
小玉は笑った。
「旦那様が、あなたは随分大きくなったと言っていたわ」
「梁旦那に比べれば、まだ小さい」
「まだ比べているの?」
「ああ」
「本当にしつこいわね」
「よく言われる」
小玉の後ろから、蘇青蘭と馮彩児も歩いてきた。
田朔は2人へ挨拶した。
青蘭が田朔を見て笑った。
「昔、荷車の横からこちらを見ていた人とは思えないわね」
「覚えていたんですか」
「私は人の顔を覚えるのが得意なの」
「聞いたことがあります」
「誰に?」
田朔が小玉を見ると、小玉が困った顔をした。
「私、昔そんなことまで話した?」
「随分前です」
彩児は田朔より、門の外に止めてある馬を見ていた。
「あの馬はあなたの?」
「店の馬です」
「悪くない馬ね」
「買う時に彩児さんに見てもらえばよかった」
「銭を取るわよ」
「高すぎなければ払います」
「そこは相変わらずなのね」
3人が笑った。
田朔も笑った。
1年前、梁家へ荷を運んでいた頃には、この女たちを遠くから見るだけだった。
今は梁景成との商談を終えた帰りに、こうして立ち話をしている。
それでも欲が満たされたわけではなかった。
梁景成には正妻を含めて8人の女がいる。
田朔にも玉蓮、春華、淑蘭がいる。
それでも、きれいな女を見れば欲しいと思う。
銭が増えて欲が減るどころか、手を伸ばせる範囲が広がった分だけ、欲しい物も増えていた。
「何を見ているの?」
小玉が尋ねた。
「昔を思い出した」
「何を?」
「梁家へ来始めた頃だ。青蘭さんと彩児さんを初めて見た時は、俺は破れた袖で荷車を押していた」
青蘭が笑った。
「あの頃から見ていたのね」
「きれいな女を見るなという方が無理でしょう」
「今は女にも困っていないでしょうに」
「それとこれとは別です」
小玉が呆れた。
「本当に欲張り」
「知っている」
田朔は3人へ挨拶し、梁家を出た。
◇ ◇ ◇
3月25日、田朔は馬福成を帳場へ呼んだ。
「南へ行ってくれ」
「商隊を率いるんですか」
「今回は向こうへ着いてからも残ってほしい」
「何をします」
「店と倉を探す」
「買うんですか」
「まだ買わない。まず借りろ」
馬福成が田朔を見る。
「長安を捨てるつもりですか」
「まだだ」
「では、なぜ今から店を?」
「長安だけに全部置いておく必要がない。南でも商売ができるなら、今から始める」
「どこまで行きます」
「漢中だ」
「かなり遠いですよ」
「だから今のうちに行ってほしい」
田朔はまとまった銭、商品、紹介状を用意した。
「使える店を借りろ。倉も1棟確保してほしい。家賃が高すぎるなら無理に借りなくていい。長く使うか分からないから、今は買うな」
「何を売ります」
「まず塩、布、質流れの銀器や道具だ。それから、長安から逃れてきた者が銭に換えたがっている品があれば、値を見て買え。こちらで売って利益が出る値なら仕入れていい」
「分かりました。向こうへ着いた後、この荷車はどうします」
「荷を下ろした車には、帰りに粟、豆、乾物を積めるだけ積む。段さんが帰りの隊列をまとめる。馬さんは漢中に残って店を作ってくれ」
「行きも帰りも空にはしないんですね」
「ああ。南へ向かう客の荷を運んで銭を取り、帰りには長安で不足している食糧を積む」
「漢中の店が動けば、長安から商品を送ることもできますね」
「そのつもりだ。商売にならなければ店を畳めばいい。だから最初から建物を買う必要はない」
横で聞いていた玉蓮が尋ねた。
「では、今は私が長安に残るのね」
「ああ。長安の店と帳簿を任せられるのは玉蓮だ」
「危なくなったら?」
「玉蓮と父さん、母さんは先に南へ出す」
「春華さんと淑蘭さんは?」
「できれば一緒に出したい」
玉蓮の眉が上がった。
「2人とも旦那様がいるでしょう」
「夫と一緒に出られるなら、それでいい。役所の仕事で夫が残るなら、妻だけでも先に逃がした方がいい」
「それで済む?」
「何がだ」
「あなたのことよ。南へ連れていって、安全な場所へ着いたら、それで満足するの?」
田朔は笑った。
「玉蓮は俺をよく知っているな」
「嫌になるほどね」
「今は逃がすことが先だ。その後のことは、その時に考える」
「でも欲しいのでしょう」
「ああ」
「春華さんも淑蘭さんも?」
「ああ」
「私も?」
「今さら聞くな」
「この先またいい女が出たら?」
「欲しくなるだろうな」
玉蓮は呆れた。
「本当に救いようがないわ」
「嫌か」
「嫌なら、とっくに出ていっているわよ」
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は玉蓮の部屋で過ごした。
夜明け前、田朔が衣を着始めると、玉蓮は寝台から恨めしそうに見た。
「今日も稽古へ行くの?」
「ああ」
「昨夜は春華さんでも淑蘭さんでもなく、私のところにいたのよ」
「誰の部屋で寝ても、朝は朝だろう」
「本当に可愛くないわね」
「今日は早く寝ろ」
「私が疲れていることにするの?」
「違うのか」
玉蓮は枕を投げた。
田朔は身体をそらして避けた。
「前なら当たっていたぞ」
「朝の稽古の成果を、こんなところで使わないで!」
田朔は笑いながら部屋を出た。
◇ ◇ ◇
3月30日。
馬福成を乗せた南行きの商隊が長安を出た。
荷車は18台ある。7台には南へ向かう客の家財や商品を積み、田朔はすでに運賃と護衛料を受け取っている。5台には田朔の商品を積み、残る6台は途中や漢中で商品を買ったり、帰りに食糧を積んだりできるよう余裕を持たせた。
護衛の手当や道中の費用の多くは、客から取った銭で賄える。
その護衛が田朔の商品も守る。
漢中へ着けば馬福成が店と倉を借り、すぐ商売を始める。
帰りの隊列は段烈がまとめ、長安で高く売れる食糧を積めるだけ積んで戻る。
田朔は城門の外で、隊列が南へ小さくなるまで見送った。
3月には、城外で安く買った商品、護衛と運送、食糧の販売、貸付、債権回収から大きな銭が入った。動かせる現金は9万銭を超え、店、倉、商品、貸付債権、荷車、馬まで合わせれば、その何倍もの財産になっている。
それでも田朔が最後に見ていたのは、自分の店でも倉でもなかった。
南へ続く道だった。
長安を怖がる商人から商品を安く買う。逃げたい者から運賃と護衛料を取り、その銭で自分の商品まで同じ商隊に守らせる。南へ送った荷車は空で戻さず、長安で値の上がった食糧を積ませる。
長安から逃げる者が増えるほど、田朔の商隊には客が増える。
長安で食糧が不足するほど、南から運び込む荷の値は上がる。
戦乱が道を危険にするほど、その道を安全に通れる商隊の値打ちも上がった。
長安で儲け、長安を怖がる者からも儲け、その者たちが逃げる道からまで儲ける。
385年3月が終わった。




