第5話(前編)――「道にも値段がある」
385年3月上旬。
前話の収入:約68,000銭
前話の支出:約47,000銭
現在動かせる金:約50,000銭
3月1日の日の出前、田朔は家の裏庭で兵役上がりの男と組み合っていた。
男の名は段烈という。
田朔が朝の稽古を始めてから、すでに5か月近くになる。段烈にはまだ及ばないが、組み付かれた途端に何もできず転がされることは減った。
この朝も段烈が右腕を取りに来ると、田朔は身体を横へずらし、相手の肩へ自分の肩を当てた。そのまま足を絡めて崩そうとする。
段烈の身体が傾いた。
田朔がさらに押し込んだところで、逆に腕を取られた。次の瞬間には地面へ倒されていた。
「途中まではよかった」
「最後に俺が倒れているなら意味がない」
「5か月で欲張るな」
「欲張らないなら、こんな寒い朝から起きていない」
田朔は身体についた土を払いながら立ち上がった。
「段さん。話がある」
「何だ」
「今の仕事を減らして、俺のところへ来ないか」
「何をさせる」
「護衛をまとめてほしい」
段烈は田朔の顔を見た。
「倉の番なら、もう元兵を雇っているだろう」
「倉だけではない。荷車を城外へ出す回数を増やす。これからは今までより遠くへも行く」
「街道は危なくなっているぞ」
「だから段さんに頼む」
「今、何人いる」
「兵役を経験した男が4人。人夫の中にも喧嘩のできる男がいる。必要ならもっと雇う」
「俺を頭にするのか」
「ああ。毎月の給金を払う。遠くまで荷を守る時は別に手当も出す。朝の稽古も今まで通り頼む」
段烈が笑った。
「護衛をまとめさせたうえで、お前まで鍛えろと言うのか」
「両方できるだろう」
「給金はいくらだ」
田朔が額を示した。
段烈は首を振った。
「もう少し出せ」
「高い」
「命を張る仕事もあるんだろう」
「危険な場所まで行った時は手当を増やす」
「毎月の給金も少し上げろ」
2人はその場で条件を詰めた。
最後には田朔が少し上げ、段烈も承知した。
「では今日から頼む」
「随分急だな」
「もっと道が危なくなってから護衛を集めても遅い」
「そこまで考えていたのか」
「銭を積んだ荷車を奪われてから考えるよりましだ」
◇ ◇ ◇
その日の午前、田朔は段烈、馬福成、田順を連れ、1月に買った城外の倉へ向かった。
倉の前には荷車が8台止まっていた。
田朔の荷車ではない。東から来た商人たちのものだった。
長安へ入ろうとしたものの、軍の往来が増え、城門の検めにも時間がかかる。軍の車が来るたびに商人の荷車は道を譲らされ、城内へ入れば宿代や馬の飼葉も高くつく。
荷車には豆、乾物、油、麻布などが積まれていた。
田朔は荷を持ってきた商人たちから事情を聞いた。
「昨日からここにいるんですか」
「そうだ」
40歳ほどの商人が疲れた顔で答えた。
「昨日、城門まで行ったが、前に20台以上並んでいた。軍の荷車が来るたびに脇へどけられて、いつ入れるか分からん」
「今日も城内へ入るつもりですか」
「入れるなら入りたい。長安で売るために来たんだからな」
「でしたら、俺がここで買います」
商人の目が変わった。
「全部か」
「品を見てからです」
田朔は馬福成に中身を確かめさせた。
豆は傷んでいない。油壺にも問題はなく、乾物も湿っていない。
田朔は長安で売れる値から、運賃、損耗、役人への口利きに使う銭、自分の利益を引いて買値を示した。
「この値なら、まとめて買います」
商人の顔が険しくなった。
「安すぎる。長安なら、この倍近くで売れるぞ」
「城内へ入り、ご自分で買い手を探せば、その値で売れるかもしれません」
「だからここまで来たんだ」
「でしたら、そのまま長安へお入りください。無理に俺へ売る必要はありません」
田朔は引き止めなかった。
「俺へ売れば、ここで荷を渡した時点で銭を受け取り、今日中に空荷で帰れます。ご自分で売るなら、門前で順番を待ち、宿と飼葉へ銭を払い、売り終わるまで荷を守る必要があります」
「せめて長安の相場の6割は出せ」
「今申し上げた値までです」
「お前は城門にも顔が利くと聞いたぞ」
「はい」
「だったら俺たちより簡単に入れられるじゃないか」
「そのために俺は、これまで役人へ何度も銭を払ってきました。城内へ運ぶ手間も費用も、買った後は俺が負います。それを考えた買値です」
商人は黙った。
「今売れば、あとは俺の仕事です。売らないなら、ご自分で長安へ運んでください。どちらでも構いません」
商人は荷車を見た。
馬は疲れている。人夫にも飯を食わせなければならない。帰り道がさらに悪くなる可能性もある。
「……あと500銭乗せろ」
「200なら足します」
「300」
「200です」
「本当に動かんな」
「俺は今日、この荷を買えなくても困りません」
結局、商人は売った。
その様子を見ていた別の商人も声をかけてきた。
「俺の荷も見るか」
「見ます」
午前中だけで、田朔は荷車5台分の商品を買った。
いずれも長安の相場より大幅に安い。
その場で銭を払ったため、売った商人たちは空荷の車で東へ戻ることができた。
田順が息子へ尋ねた。
「これを全部、城内へ入れるのか」
「ああ。ただし、今日全部は入れない」
「門で止められるからか」
「ここで俺の荷車へ積み替え、品ごとの荷札も付ける。韓さんと陳さんにも先に話を通して、何回かに分けて入れる」
田朔は倉を見た。
「これからは、長安まで入りたくない商人の商品をここで買う。自分で売りたい奴には、荷を置かせて保管料を取る」
「倉まで商売にするのか」
「空いている場所をただで貸す理由がないだろう」
「保管料を払う銭もない奴は?」
「荷に十分な値打ちがあれば、その荷を担保に銭を貸す。返せなければ、約束通り商品で返してもらう」
田順は息子を見た。
「お前、倉1つで何回儲ける気だ」
「使い道が3つあるなら、3つとも銭にした方がいい」
◇ ◇ ◇
翌日から城外の倉には料金を決めた。
荷を一晩置けば保管料を取る。夜の番人を増やしてほしければ別料金を取る。長安まで運んでほしい者には運賃を取り、道中の護衛まで求める者にはさらに銭を払わせる。
自分で運ぶ者には何も強要しなかった。
それでも客は来た。
品を奪われればすべてを失う。田朔へ銭を払ってでも、長安まで安全に運びたい商人は増えていた。
3月4日、麻布を積んだ商人が田朔へ尋ねた。
「ここから長安まで運んでくれるのか」
「運びます」
「いくらだ」
田朔が値を示すと、男は声を上げた。
「高い! 前ならこの3分の1で運べたぞ」
「前のように安全なら、その値で運ぶ人を探してください。今は護衛も付けます」
「そこを何とかしろ」
「護衛なしなら安くできます」
「盗賊が出たらどうする」
「護衛なしを選ぶなら、ご自分で荷を守っていただくことになります」
男は顔をしかめた。
「……護衛を付けろ」
「ありがとうございます」
田朔は段烈へ声をかけた。
その日の護衛料は、段烈たちへ払う手当を引いても十分に残った。
しかも護衛するのは客の荷だけではない。同じ隊列の中央には、田朔自身が城外で安く買った豆、油、乾物も積んでいる。
客から護衛料を取り、その銭で雇った男たちに自分の商品まで守らせる。
話を聞いた許玉蓮が呆れた。
「客の荷を守る銭で、自分の荷まで守っているじゃない」
「客の荷もきちんと守っている」
「でも一番多く積んでいるのは、あなたの商品でしょう」
「だから同じ隊列へ入れる意味がある」
「本当に、使える物は何でも使うのね」
「使えるのに別々に銭を払う方がおかしい」
◇ ◇ ◇
3月6日の午後、田朔は陳貴のところへ行った。
陳貴は、田朔の荷車が増えたことをすでに知っていた。
「お前、最近は城外で商人の商品まで買っているそうだな」
「売りたい方から買っています」
「門へ入る前にか」
「はい。向こうはすぐ帰れる。俺は安く買える。双方に都合があります」
「一番得をするのはお前だろう」
「陳さんにも得をしていただきます」
田朔は銭袋を卓へ置いた。
陳貴はすぐに手を伸ばした。
「話が早いな」
「お願いがあります。俺の荷車は、荷札や届けに問題がなければ、門前で半日も待たずに検めを受けられるようにしてください」
「横入りさせろというのか」
「軍へ納める荷なら、これまで通り軍用として先に見てください。それ以外は普通の商品として扱って構いません。ただ、書類を前もって出しておき、門へ着いたら早く検めてもらえるようにしたいんです」
「軍の荷に見せかける気はないんだな」
「ありません。後で調べられて困るのは俺です」
「人の弱みには平気で付け込むくせに、役所相手では慎重だな」
「儲ける前に首を取られたら損ですから」
陳貴は笑い、銭袋を懐へ入れた。
「分かった。書類が揃っている荷なら、前もって見るよう話しておく」
「お願いします」
田朔が帰ろうとすると、陳貴が呼び止めた。
「今夜、うちへ寄るか」
田朔は振り向いた。
「何か御用ですか」
「俺にはない。春華がお前の話をしていた」
「何と?」
「最近、顔を見せないと言っていたぞ」
陳貴は笑った。
「お前、妻に随分気に入られたな」
「陳さんの奥様ですから、大事にしています」
「俺は今夜、紅玉のところへ行く。春華が退屈しているなら、話し相手にでもなってやれ」
「よろしいんですか」
「何がだ」
陳貴は田朔の顔を見た。
「お前が俺の妻に妙な真似をするわけでもあるまい」
「そうですね」
田朔は顔色を変えずに答えた。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は陳家を訪ねた。
周春華は田朔を見ると、玄関先で腕を組んだ。
「随分久しぶりね」
「仕事が増えました」
「韓家へ行く暇はあるのに?」
田朔は春華を見た。
「誰から聞いたんです」
「主人の話を聞いていれば分かるわよ。最近、韓家へよく出入りしているのでしょう」
「仕事でも行きますから」
「仕事だけ?」
「今夜は春華さんに会いに来ました」
「主人から言われたからでしょう」
「陳さんが言わなくても、そろそろ来るつもりでした」
「本当?」
「少なくとも、今夜ここへ来たのは俺が来たかったからです」
春華は田朔をしばらく見てから、家へ入れた。
部屋へ入ると、春華は田朔の衣についた土を見た。
「毎日、城外へ出ているの?」
「荷が増えましたから」
「危ないでしょう」
「危ないから、護衛料も運賃も高く取れます」
「また銭の話」
「安全なら皆、自分で運びます」
春華は田朔の向かいへ座った。
「あなた自身は怖くないの?」
「怖いですよ」
「そうは見えないわ」
「怖いから護衛を雇っています。危ない道を1人で歩いて、自分は度胸があると威張るほど馬鹿ではありません」
「それでも長安に残るのね」
「今はまだ儲かりますから」
「本当に危なくなったら?」
「その時になって初めて道を調べるつもりはありません。南への道は今から見ています」
春華の表情が変わった。
「そんなに悪くなると思っているの?」
「分かりません。ただ、悪くなった時の準備は今でもできます」
「主人は何も言わないわ」
「役所で見えるものと、商人のところへ入ってくる荷の動きは違います」
「もし本当に逃げなければならなくなったら、私はどうなるのかしら」
「陳さんと一緒に出られるなら、それが一番です」
「主人が役所を離れられなかったら?」
「先に俺の商隊で南へ出てください」
春華は田朔を見た。
「主人の妻なのに?」
「陳さんから頼まれて送り出す形なら、何もおかしくありません」
「あなたは、それで終わるつもり?」
田朔は笑った。
「春華さんは俺をよく知っていますね」
「何を考えているの?」
「今は安全に逃がすことしか考えていません」
「今は、なのね」
「その先のことは、その時になってから考えます」
「本当にずるい男」
「俺が春華さんを欲しいことは、もう知っているでしょう」
春華は田朔の肩を叩いた。
「もっとましな言い方はできないの?」
「嘘よりいいでしょう」
「本当にひどい男」
「嫌いになりましたか」
「なれたら、とっくに家へ入れていないわよ」
田朔は春華の手を取り、そのまま抱き寄せた。
その夜も陳貴は戻らなかった。
385年3月上旬が終わった。




