第4話(後編)――「店ごと食う」
385年2月下旬。
2月21日、長安で穀物を卸してきた商人が田朔を訪ねた。
50歳前後の男で、以前なら田朔のような若い商人を相手にする必要もなかった。
今は自分から田朔の店へ来ていた。
「商売を買わないか」
男は挨拶を済ませると、すぐ本題へ入った。
田朔が尋ねた。
「何を売るんです」
「店と倉2棟、荷車6台、馬2頭。それから今ある粟と豆だ」
田朔はさらに尋ねた。
「番頭や人夫は?」
「残りたい奴は残るだろう」
「仕入れ先と得意先の帳面は?」
「渡す」
「売掛金も?」
「ああ」
「借金はありますか」
男の顔が少し険しくなった。
「ある」
「いくらです」
「3,200ほどだ」
「では帳面を全部見せてください」
「先に値を決めたい」
「借金がいくらあるか分からなければ値段を決められません」
男は不満そうだったが、持ってきた帳面を出した。
玉蓮と馬福成も加わり、仕入れ先、売り先、在庫、荷車、馬、借金、売掛金を順番に確認した。
ただ店と倉を買う話ではない。
この商人が築いた取引先と働く人間まで手に入れれば、田朔は翌日から穀物商いをそのまま続けられる。
「いくら欲しいんです」
田朔が尋ねた。
「20,000銭」
「高すぎます」
「平時なら25,000でも売らん」
「今は平時ではありません」
「だから20,000だ」
「10,000」
「ふざけるな」
「では買いません」
田朔は帳面を閉じた。
男が顔を赤くした。
「店も倉も荷車も馬もあるんだぞ」
「借金もあります」
「売掛金もある」
「全部取れる保証はありません」
「在庫もある」
「それは欲しいです。それでも10,000です」
「安すぎる」
「長安を出るのはいつですか」
男は答えなかった。
「今月中でしょう」
「……そうだ」
「あと7日ですね。20,000で買ってくれる人を、それまでに探してください」
男は田朔を睨んだ。
「お前は本当に人の足元を見るな」
「見せているのはそちらです」
男は立ち上がった。
田朔は止めなかった。
男は店の出口まで歩き、そこで足を止めた。
「12,000なら売る」
田朔は玉蓮を見る。
玉蓮は帳面へ書いた数字を指した。
「11,000」
「11,500」
「在庫と倉をもう一度確認します。問題がなければ11,500出します」
「分かった」
男は承知した。
◇ ◇ ◇
翌日、田朔は馬福成とともに店、倉、荷車、馬、在庫をすべて確かめた。
粟と豆は思っていたより多く残っている。倉も使える。荷車6台のうち5台はすぐに動かせ、1台だけ車輪の修理が必要だった。馬2頭も痩せてはいない。
田朔は11,500銭を払った。
そこで終わらせず、店で働いていた番頭2人と人夫7人を集めた。
「前の主人は長安を出る。ここへ残る者は、俺のところでそのまま働ける」
年長の番頭が尋ねた。
「給金は同じですか」
「同じではありません」
男たちの顔が曇った。
田朔は続けた。
「少し上げます。ただし、前より仕事は増える。荷車も今より動かします」
「人夫の飯は?」
「今まで通り出します。番頭は給金へ上乗せします」
人夫の1人が尋ねた。
「嫌なら?」
「前の主人と一緒に行くか、ほかの仕事を探してください」
結局、人夫7人のうち6人が残り、番頭2人も田朔の下で働くことを選んだ。
田朔は店と倉だけでなく、荷車、馬、在庫、番頭、人夫、仕入れ先と得意先の帳面までまとめて手に入れた。
店は1日も閉めなかった。
翌朝から田朔の店として、そのまま商売を続けた。
◇ ◇ ◇
新しく手に入った荷車は、すぐ城外へ出した。
田順が知る農家、前の主人が長く取引してきた農家、衛成が知る運送人にも声をかけた。
使えるつながりを、そのまま使う。
田朔は城外で粟や豆を買う際、ほかの商人よりわずかに高い値を出した。
玉蓮が尋ねた。
「逃げる人からはあれだけ値切るのに、農家からは高く買うの?」
「長安へ持ってくれば、もっと高く売れる」
「それなら村でも安く買えば、さらに儲かるでしょう」
「今は銭をその場で払える商人が減っている。俺が少し高く買い、約束した日に銭を払えば、次も俺へ売る」
「仕入れ先は潰さないのね」
「潰したら何を売るんだ」
田朔は相手によって取り方を変えた。
これからも品を売ってほしい農家には少し多く払う。食糧を借りるしかない者からは高い利息を取る。長安から逃げたい商人からは、店も倉も安く買う。
全員から同じように搾り取る必要はない。
一番多く儲かる方法を相手ごとに選べばよかった。
◇ ◇ ◇
2月24日、韓敬から軍の食糧買い付けについて話が来た。
「粟を出せるか」
「量によります」
韓敬が必要な数を示した。
かなり多い。
「値はいくらですか」
韓敬が軍の提示額を教えた。
市場より安い。
「その値で全部は無理です」
「また値切るのか」
「今回は値ではありません。前金をください」
韓敬が田朔を見る。
「前金?」
「軍が必要としている粟を、全部俺の銭で先に集める必要はないでしょう」
「軍の銭で、軍へ納める粟を買う気か」
「はい」
「平然と言うな」
「きちんと納めれば同じです」
「いくら欲しい」
「代金の3分の1」
「多い」
「それなら受ける量を減らします」
韓敬は顔をしかめた。
「お前は役所相手でも本当に変わらんな」
「粟を急いで必要としているのは俺ではありません」
「分かった。上へ話してみる」
「もう1つあります」
「まだあるのか」
「俺の荷車が食糧を運んでいると分かる札もお願いします。城門で半日止められたら、その分だけ人夫と馬の銭がかかります」
「塩の時にも似たことをしたな」
「役に立ちましたから」
「お前は一度使えた手を何度でも使うな」
「使える物を捨てる理由がありません」
韓敬は呆れながらも、田朔の条件を上へ伝えた。
2日後、軍から前金5,000銭が出た。
田朔はその銭を金庫へしまわなかった。
その日のうちに荷車を城外へ出し、粟と豆を買わせた。
軍から受け取った銭で軍へ納める食糧を仕入れる。その分だけ自分の現金を、食糧の貸付、証文の買い取り、逃げる商人の店や倉を買うために残すことができる。
戦が続けば軍は食う。
軍が食えば食糧を買う。
田朔が役所の注文を受ければ前金が入り、その銭で農家から食糧を集める。農家には現金が入るため、次も田朔へ売る。
兵が増えるほど、田朔の荷車も忙しくなった。
◇ ◇ ◇
2月27日。
前編で粟20袋を借りた酒屋の主人が再び来た。
まだ返済日ではない。
「もう返すんですか」
田朔が尋ねた。
「違う。追加で借りたい」
「今の分を返してからです」
「店は担保に入っているだろう」
「だから、これ以上は貸しません」
「食糧が足りない。このままでは店で飯を出せなくなる」
「それはあなたの店の都合です」
「あと10袋だけでいい」
「担保が足りません」
男は顔をゆがめた。
「だったらどうすればいい」
「店を売りますか」
男の表情が変わった。
「何?」
「今なら買います」
「粟を借りた相手から、今度は店まで買うのか」
「嫌なら返済日まで店を持っていればいいでしょう」
「まだ期限前だぞ」
「ですから、まだ取りません」
田朔は帳面を閉じた。
「ただし、追加で10袋欲しいなら別です。店を今売るなら、借りた粟の返済はなくし、そのうえで銭を払います」
男はその場では決めなかった。
翌日、妻と家族を連れて再び来た。
「売る」
田朔は高い値を付けなかった。
男も、それは分かっていた。
今からほかの買い手を探している間にも、家族は飯を食う。店に客が来ても、出す食糧がない。
条件がまとまり、郭安が証文を作った。
男が内容を確かめ、印を押した。
また1軒、田朔の店が増えた。
◇ ◇ ◇
2月末。
玉蓮と馬福成が、今月の帳面をまとめた。
田朔の手には本店、布屋跡の店、穀物商から買った店、酒屋だった店がある。倉は城内外を合わせて7棟となり、荷車と馬も増えた。住み込みの人夫と護衛は20人を超え、買い取った借金の証文と、新たに食糧を貸した証文もかなりの数になっている。
玉蓮は帳面を見ながら言った。
「1月に家を買い始めた頃より、ずっとひどくなったわね」
「何がだ」
「今は家だけではないでしょう。食糧を貸して返せない相手から店を取り、逃げる金貸しから借金を買って倉を取り、長安を出たい商人からは店も倉も荷車も商売ごと買っている」
「安いからな」
「本当に全部、戦のおかげね」
田朔は首を振った。
「戦があるだけでは銭にならない」
「では、何が銭になるの?」
「怖くなって店を売る奴がいる。腹が減って食糧を借りる奴がいる。道が危なくて品を運べない奴がいる。兵を食わせるため、役所は銭を出す」
田朔は机の上に積まれた証文へ手を置いた。
「その全部に俺が入っているから儲かる」
玉蓮は帳面へ目を落とした。
「去年まで荷車を押していた人の言うこととは思えないわ」
「去年まで荷車を押していたから、荷を動かす人間が何を嫌がるか分かる」
「それでも、もう十分増えたでしょう」
「まだ梁家より小さい」
「また梁旦那?」
「ああ」
田朔は店の外へ目を向けた。
長安では食糧を求める者が増え、家を売る者も、店を閉じる者も増えていた。
逃げる者からは財産を安く買い、残る者には高い利で食糧を貸す。軍には食糧を売り、その前金で次の食糧を集める。担保を持たない者は飯を与えて人夫にし、腕の立つ者には倉と荷車を守らせる。
人々が戦乱に追われるほど、田朔の店、倉、荷車、証文、人手は増えていった。
385年2月が終わった。
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『長安の悪党、乱世を喰らう』
第二章「長安崩壊、悪党は儲ける」
第5話(前編)「道にも値段がある」
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385年3月上旬。
前話の収入:約68,000銭
前話の支出:約47,000銭
現在動かせる金:約50,000銭
3月1日の日の出前、田朔は家の裏庭で兵役上がりの男と組み合っていた。
男の名は段烈という。
田朔が朝の稽古を始めてから、すでに5か月近くになる。段烈にはまだ及ばないが、組み付かれた途端に何もできず転がされることは減った。
この朝も段烈が右腕を取りに来ると、田朔は身体を横へずらし、相手の肩へ自分の肩を当てた。そのまま足を絡めて崩そうとする。
段烈の身体が傾いた。
田朔がさらに押し込んだところで、逆に腕を取られた。次の瞬間には地面へ倒されていた。
「途中まではよかった」
「最後に俺が倒れているなら意味がない」
「5か月で欲張るな」
「欲張らないなら、こんな寒い朝から起きていない」
田朔は身体についた土を払いながら立ち上がった。
「段さん。話がある」
「何だ」
「今の仕事を減らして、俺のところへ来ないか」
「何をさせる」
「護衛をまとめてほしい」
段烈は田朔の顔を見た。
「倉の番なら、もう元兵を雇っているだろう」
「倉だけではない。荷車を城外へ出す回数を増やす。これからは今までより遠くへも行く」
「街道は危なくなっているぞ」
「だから段さんに頼む」
「今、何人いる」
「兵役を経験した男が4人。人夫の中にも喧嘩のできる男がいる。必要ならもっと雇う」
「俺を頭にするのか」
「ああ。毎月の給金を払う。遠くまで荷を守る時は別に手当も出す。朝の稽古も今まで通り頼む」
段烈が笑った。
「護衛をまとめさせたうえで、お前まで鍛えろと言うのか」
「両方できるだろう」
「給金はいくらだ」
田朔が額を示した。
段烈は首を振った。
「もう少し出せ」
「高い」
「命を張る仕事もあるんだろう」
「危険な場所まで行った時は手当を増やす」
「毎月の給金も少し上げろ」
2人はその場で条件を詰めた。
最後には田朔が少し上げ、段烈も承知した。
「では今日から頼む」
「随分急だな」
「もっと道が危なくなってから護衛を集めても遅い」
「そこまで考えていたのか」
「銭を積んだ荷車を奪われてから考えるよりましだ」
◇ ◇ ◇
その日の午前、田朔は段烈、馬福成、田順を連れ、1月に買った城外の倉へ向かった。
倉の前には荷車が8台止まっていた。
田朔の荷車ではない。東から来た商人たちのものだった。
長安へ入ろうとしたものの、軍の往来が増え、城門の検めにも時間がかかる。軍の車が来るたびに商人の荷車は道を譲らされ、城内へ入れば宿代や馬の飼葉も高くつく。
荷車には豆、乾物、油、麻布などが積まれていた。
田朔は荷を持ってきた商人たちから事情を聞いた。
「昨日からここにいるんですか」
「そうだ」
40歳ほどの商人が疲れた顔で答えた。
「昨日、城門まで行ったが、前に20台以上並んでいた。軍の荷車が来るたびに脇へどけられて、いつ入れるか分からん」
「今日も城内へ入るつもりですか」
「入れるなら入りたい。長安で売るために来たんだからな」
「でしたら、俺がここで買います」
商人の目が変わった。
「全部か」
「品を見てからです」
田朔は馬福成に中身を確かめさせた。
豆は傷んでいない。油壺にも問題はなく、乾物も湿っていない。
田朔は長安で売れる値から、運賃、損耗、役人への口利きに使う銭、自分の利益を引いて買値を示した。
「この値なら、まとめて買います」
商人の顔が険しくなった。
「安すぎる。長安なら、この倍近くで売れるぞ」
「城内へ入り、ご自分で買い手を探せば、その値で売れるかもしれません」
「だからここまで来たんだ」
「でしたら、そのまま長安へお入りください。無理に俺へ売る必要はありません」
田朔は引き止めなかった。
「俺へ売れば、ここで荷を渡した時点で銭を受け取り、今日中に空荷で帰れます。ご自分で売るなら、門前で順番を待ち、宿と飼葉へ銭を払い、売り終わるまで荷を守る必要があります」
「せめて長安の相場の6割は出せ」
「今申し上げた値までです」
「お前は城門にも顔が利くと聞いたぞ」
「はい」
「だったら俺たちより簡単に入れられるじゃないか」
「そのために俺は、これまで役人へ何度も銭を払ってきました。城内へ運ぶ手間も費用も、買った後は俺が負います。それを考えた買値です」
商人は黙った。
「今売れば、あとは俺の仕事です。売らないなら、ご自分で長安へ運んでください。どちらでも構いません」
商人は荷車を見た。
馬は疲れている。人夫にも飯を食わせなければならない。帰り道がさらに悪くなる可能性もある。
「……あと500銭乗せろ」
「200なら足します」
「300」
「200です」
「本当に動かんな」
「俺は今日、この荷を買えなくても困りません」
結局、商人は売った。
その様子を見ていた別の商人も声をかけてきた。
「俺の荷も見るか」
「見ます」
午前中だけで、田朔は荷車5台分の商品を買った。
いずれも長安の相場より大幅に安い。
その場で銭を払ったため、売った商人たちは空荷の車で東へ戻ることができた。
田順が息子へ尋ねた。
「これを全部、城内へ入れるのか」
「ああ。ただし、今日全部は入れない」
「門で止められるからか」
「ここで俺の荷車へ積み替え、品ごとの荷札も付ける。韓さんと陳さんにも先に話を通して、何回かに分けて入れる」
田朔は倉を見た。
「これからは、長安まで入りたくない商人の商品をここで買う。自分で売りたい奴には、荷を置かせて保管料を取る」
「倉まで商売にするのか」
「空いている場所をただで貸す理由がないだろう」
「保管料を払う銭もない奴は?」
「荷に十分な値打ちがあれば、その荷を担保に銭を貸す。返せなければ、約束通り商品で返してもらう」
田順は息子を見た。
「お前、倉1つで何回儲ける気だ」
「使い道が3つあるなら、3つとも銭にした方がいい」
◇ ◇ ◇
翌日から城外の倉には料金を決めた。
荷を一晩置けば保管料を取る。夜の番人を増やしてほしければ別料金を取る。長安まで運んでほしい者には運賃を取り、道中の護衛まで求める者にはさらに銭を払わせる。
自分で運ぶ者には何も強要しなかった。
それでも客は来た。
品を奪われればすべてを失う。田朔へ銭を払ってでも、長安まで安全に運びたい商人は増えていた。
3月4日、麻布を積んだ商人が田朔へ尋ねた。
「ここから長安まで運んでくれるのか」
「運びます」
「いくらだ」
田朔が値を示すと、男は声を上げた。
「高い! 前ならこの3分の1で運べたぞ」
「前のように安全なら、その値で運ぶ人を探してください。今は護衛も付けます」
「そこを何とかしろ」
「護衛なしなら安くできます」
「盗賊が出たらどうする」
「護衛なしを選ぶなら、ご自分で荷を守っていただくことになります」
男は顔をしかめた。
「……護衛を付けろ」
「ありがとうございます」
田朔は段烈へ声をかけた。
その日の護衛料は、段烈たちへ払う手当を引いても十分に残った。
しかも護衛するのは客の荷だけではない。同じ隊列の中央には、田朔自身が城外で安く買った豆、油、乾物も積んでいる。
客から護衛料を取り、その銭で雇った男たちに自分の商品まで守らせる。
話を聞いた許玉蓮が呆れた。
「客の荷を守る銭で、自分の荷まで守っているじゃない」
「客の荷もきちんと守っている」
「でも一番多く積んでいるのは、あなたの商品でしょう」
「だから同じ隊列へ入れる意味がある」
「本当に、使える物は何でも使うのね」
「使えるのに別々に銭を払う方がおかしい」
◇ ◇ ◇
3月6日の午後、田朔は陳貴のところへ行った。
陳貴は、田朔の荷車が増えたことをすでに知っていた。
「お前、最近は城外で商人の商品まで買っているそうだな」
「売りたい方から買っています」
「門へ入る前にか」
「はい。向こうはすぐ帰れる。俺は安く買える。双方に都合があります」
「一番得をするのはお前だろう」
「陳さんにも得をしていただきます」
田朔は銭袋を卓へ置いた。
陳貴はすぐに手を伸ばした。
「話が早いな」
「お願いがあります。俺の荷車は、荷札や届けに問題がなければ、門前で半日も待たずに検めを受けられるようにしてください」
「横入りさせろというのか」
「軍へ納める荷なら、これまで通り軍用として先に見てください。それ以外は普通の商品として扱って構いません。ただ、書類を前もって出しておき、門へ着いたら早く検めてもらえるようにしたいんです」
「軍の荷に見せかける気はないんだな」
「ありません。後で調べられて困るのは俺です」
「人の弱みには平気で付け込むくせに、役所相手では慎重だな」
「儲ける前に首を取られたら損ですから」
陳貴は笑い、銭袋を懐へ入れた。
「分かった。書類が揃っている荷なら、前もって見るよう話しておく」
「お願いします」
田朔が帰ろうとすると、陳貴が呼び止めた。
「今夜、うちへ寄るか」
田朔は振り向いた。
「何か御用ですか」
「俺にはない。春華がお前の話をしていた」
「何と?」
「最近、顔を見せないと言っていたぞ」
陳貴は笑った。
「お前、妻に随分気に入られたな」
「陳さんの奥様ですから、大事にしています」
「俺は今夜、紅玉のところへ行く。春華が退屈しているなら、話し相手にでもなってやれ」
「よろしいんですか」
「何がだ」
陳貴は田朔の顔を見た。
「お前が俺の妻に妙な真似をするわけでもあるまい」
「そうですね」
田朔は顔色を変えずに答えた。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は陳家を訪ねた。
周春華は田朔を見ると、玄関先で腕を組んだ。
「随分久しぶりね」
「仕事が増えました」
「韓家へ行く暇はあるのに?」
田朔は春華を見た。
「誰から聞いたんです」
「主人の話を聞いていれば分かるわよ。最近、韓家へよく出入りしているのでしょう」
「仕事でも行きますから」
「仕事だけ?」
「今夜は春華さんに会いに来ました」
「主人から言われたからでしょう」
「陳さんが言わなくても、そろそろ来るつもりでした」
「本当?」
「少なくとも、今夜ここへ来たのは俺が来たかったからです」
春華は田朔をしばらく見てから、家へ入れた。
部屋へ入ると、春華は田朔の衣についた土を見た。
「毎日、城外へ出ているの?」
「荷が増えましたから」
「危ないでしょう」
「危ないから、護衛料も運賃も高く取れます」
「また銭の話」
「安全なら皆、自分で運びます」
春華は田朔の向かいへ座った。
「あなた自身は怖くないの?」
「怖いですよ」
「そうは見えないわ」
「怖いから護衛を雇っています。危ない道を1人で歩いて、自分は度胸があると威張るほど馬鹿ではありません」
「それでも長安に残るのね」
「今はまだ儲かりますから」
「本当に危なくなったら?」
「その時になって初めて道を調べるつもりはありません。南への道は今から見ています」
春華の表情が変わった。
「そんなに悪くなると思っているの?」
「分かりません。ただ、悪くなった時の準備は今でもできます」
「主人は何も言わないわ」
「役所で見えるものと、商人のところへ入ってくる荷の動きは違います」
「もし本当に逃げなければならなくなったら、私はどうなるのかしら」
「陳さんと一緒に出られるなら、それが一番です」
「主人が役所を離れられなかったら?」
「先に俺の商隊で南へ出てください」
春華は田朔を見た。
「主人の妻なのに?」
「陳さんから頼まれて送り出す形なら、何もおかしくありません」
「あなたは、それで終わるつもり?」
田朔は笑った。
「春華さんは俺をよく知っていますね」
「何を考えているの?」
「今は安全に逃がすことしか考えていません」
「今は、なのね」
「その先のことは、その時になってから考えます」
「本当にずるい男」
「俺が春華さんを欲しいことは、もう知っているでしょう」
春華は田朔の肩を叩いた。
「もっとましな言い方はできないの?」
「嘘よりいいでしょう」
「本当にひどい男」
「嫌いになりましたか」
「なれたら、とっくに家へ入れていないわよ」
田朔は春華の手を取り、そのまま抱き寄せた。
その夜も陳貴は戻らなかった。
385年3月上旬が終わった。
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『長安の悪党、乱世を喰らう』
第二章「長安崩壊、悪党は儲ける」
第5話(中編)「逃げるなら払え」
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385年3月中旬。
3月11日の日の出前、城外の倉には荷車が集まっていた。
田朔の荷車が12台、別の商人から預かった荷車が9台ある。護衛は段烈を頭に28人を揃えた。
長安から南へ向かう隊列である。
田朔は商人5人から運賃と護衛料を受け取っていた。戦がさらに近づく前に、家財や商品だけでも南へ移しておきたい者が増えていた。
大きな箱4つを運ばせる男が、田朔の示した料金を見て顔をしかめた。
「箱4つで800銭も取るのか」
「荷車、人夫、護衛を合わせた値です」
「箱は俺の物だぞ」
「もちろんです。箱の値段ではありません。南まで運び、道中を守る仕事に800銭いただきます」
「以前なら200銭もかからなかった」
「以前なら、これだけの護衛も必要ありません」
「700にしろ」
「800です」
「750」
「800です」
「少しくらい客に譲れ」
「安く運んでくれる人が見つかるなら、そちらへ頼んでいただいて構いません」
男は周囲を見た。
長安から南へ向かうまとまった商隊は少なく、これだけの護衛を付けている隊列はほかになかった。
「……分かった。800払う」
「ありがとうございます」
田朔は箱を隊列の中央へ積ませた。
その隣には、自分の銀、絹、質流れの装飾品など、軽くて値の張る物を入れた箱も載せている。
商人たちから受け取った運賃と護衛料だけで、今回の護衛28人へ払う手当や道中の食糧代の大半を賄えた。
段烈が隊列を見ながら言った。
「客の銭で、お前の荷まで守るのか」
「客の荷を守るために護衛を雇った。同じ隊列に俺の商品も積む。それだけだ」
「お前の商品が一番多いだろう」
「だから得なんだ」
「客が聞いたら嫌な顔をするぞ」
「約束した荷はきちんと守る。客に損はさせない」
「それで自分はもっと得をするわけか」
「ああ」
段烈は呆れながらも笑った。
◇ ◇ ◇
隊列は南へ向かった。
田朔自身も同行した。
目的は荷を運ぶことだけではない。
南から長安へ向かう商人がどこで減っているのか、どの宿場なら泊まれるのか、馬へ水を飲ませる場所は残っているのか、どこで兵に止められるのか、帰りに食糧を買える村があるのか。
今後も使う可能性がある道なら、自分の目で確かめておく必要があった。
出発から2日目の午後、道端で荷車が止まっていた。
車軸が折れている。
商人と人夫4人が荷を下ろし、壊れた車の前で困っていた。荷は乾物と豆で、長安へ運ぶ途中だという。
田朔は隊列を止めた。
「車軸が折れたんですか」
「見れば分かるだろう」
商人は苛立っていた。
「長安へ行くんですね」
「ああ。この荷を売りに行く」
「うちの人夫なら直せます。材料もあります」
男の顔が明るくなった。
「いくらだ」
「300銭です」
「高い!」
「自分で直せるなら、その方が安く済みます」
「そんなことができたら困っていない」
「でしたら300銭です」
男は顔をしかめた。
「もう少し下げろ」
「それとは別に、この商品そのものを俺へ売る方法もあります」
「買うのか」
「値が合えば」
田朔が買値を示すと、男はさらに怒った。
「安すぎる。長安へ着けば、その倍近くになるぞ」
「無事に長安へ着き、売り切れればそうなります」
「足元を見やがって」
「今ここで買う値ですから」
「お前の護衛を付けて長安へ行けばいい」
「俺たちは今から南へ向かいます。長安とは反対です」
「では、帰りに一緒に行け」
「帰りは数日後です。待てるなら、その時に合流できます。荷をこの近くへ置いておくなら、保管場所と番人も手配できますが、それには別に銭がかかります」
「修理代に保管料、帰りには護衛料まで取るのか」
「全部必要なら、全部に人と銭がかかります。嫌なら修理だけでも構いません」
男は考え込んだ。
数日待てば宿代や馬の飼葉まで必要になる。修理して自分たちだけで長安へ向かえば、途中で襲われる危険がある。
「……商品を買うなら、もう少し出せ」
「この値なら今すぐ払います」
「あと300」
「100なら足します」
「200」
「100です」
商人は長安の方角を見た後、とうとう承知した。
「分かった。商品は売る」
田朔はその場で品を調べ、銭を払った。
商品は田朔の空いている荷車へ積み替えた。
商人は空になった自分の荷車で帰るため、壊れた車軸の修理も頼んだ。
「修理は300銭です」
「商品を買ったんだから、少しくらいまけろ」
「商品の代金と、荷車を直す仕事は別です」
「最後まで取る気か」
「直さなくていいなら取りません」
「……分かった。直せ」
田朔は人夫へ指示を出した。
困っている相手だからこそ、商品を安く買える。
壊れた荷車を直せる人間と材料を持っているからこそ、修理代も取れる。
田朔はどちらも見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
さらに南へ進むと、6人ほどの男が離れた場所から商隊を見ているのに気づいた。
農民には見えない。棒や刀を持っていた。
段烈が護衛を前後へ分け、荷車同士の間隔を詰めさせた。
「人夫は荷から離れるな。田朔、お前は中央だ」
「俺も前へ出る」
「28人も雇っているのに、何のためにお前が前へ出る」
「俺の荷だぞ」
「だから中央にいろ。お前が怪我をして動けなくなったら、商人への支払いも行き先の判断も止まる」
それなら田朔にも分かった。
「分かった。任せる」
男たちはしばらくこちらを見ていたが、護衛の数を見て近づいてこなかった。
段烈が言った。
「6人で28人へ向かってくるほど馬鹿ではないらしい」
「こっちが人夫だけなら来たかもしれない」
「そのために俺たちを雇ったんだろう」
「高い給金を払った甲斐がある」
「その給金の大半は客から取った護衛料だろう」
「だからもっといい」
段烈は呆れた。
1年前なら、杜三を含む3人に囲まれただけで殴られ、銭を取られていた。
今は28人の護衛を連れ、その費用の大半を商隊へ加わった客が負担している。
田朔は、危ない道そのものから銭を取れるようになっていた。
◇ ◇ ◇
3月15日、田朔は南から来る商人が集まる宿場で、長安へ食糧を運ぶ者を探した。
だが、長安まで行きたがる者は少なかった。
「長安へ持っていけば高く売れますよ」
田朔が言うと、豆を扱う商人が首を振った。
「高く売れても、帰ってこられなければ意味がない」
「俺の商隊へ加わりませんか。帰りは長安まで行きます」
「護衛料を取るんだろう」
「取ります」
「いくらだ」
田朔が値を示した。
「高い」
「長安で売れる値も高いでしょう」
「この護衛料を払えば、せっかく高く売っても利益が減る」
「でしたら、俺がここで豆を買います」
田朔は長安の相場よりかなり低い買値を示した。
男が田朔を睨んだ。
「自分で長安へ持っていけば護衛料を取り、ここで売れば安く買うのか」
「はい」
「どちらを選んでも、お前が儲かるわけだ」
「だから商売にしています」
「嫌な奴だな」
「無理に売れとは言いません。ほかの商隊を待つ方法もあります」
男はしばらく考えた末、荷車3台分の豆を田朔へ売った。
別の商人は護衛料を払い、自分で長安まで行くことを選んだ。
田朔にとっては、どちらでもよかった。
安く買えれば、自分の店で高く売れる。買えなくても、護衛料が入る。
商人が自分の荷車で隊列へ加われば、帰りの商隊そのものも大きくなる。
◇ ◇ ◇
長安へ戻る時には、出発時より荷車が7台増えていた。
護衛料を払って加わった商人の車もあれば、田朔が買った食糧を積んだ車もある。
段烈が列の長さを見た。
「この調子で増えたら、そのうち軍隊みたいになるぞ」
「軍隊はいらない」
「なぜだ」
「軍隊は食わせるだけで銭が減る。商隊は動くたびに銭を持ってくる」
「お前らしいな」
◇ ◇ ◇
3月18日の夜、長安へ戻った田朔は韓家を訪ねた。
数日顔を見せていなかった。
王淑蘭は田朔を見ると、まず顔と手を確かめた。
「怪我はない?」
「ありません」
「本当に?」
「顔にも手にもないでしょう」
「衣の下は分からないわよ」
「では確かめますか」
淑蘭が田朔の腕を叩いた。
「そういうことを平気で言うようになったのね」
「もう何度も来ていますから」
「遠慮がなくなっただけでしょう」
「それもあります」
淑蘭は呆れながらも家へ入れた。
夕食には豆を煮た物、羊肉、漬物が出た。
田朔は残さず食べた。
「南まで行ってきたの?」
淑蘭が尋ねた。
「まだ漢中までは行っていません。道と宿場を見ながら、数日南へ下りました」
「主人から聞いたわ。今度は護衛を連れて、商人から随分高い運賃を取っているそうね」
「運賃だけではありません。護衛の銭も一緒に取っています」
「昔より何倍もするのでしょう」
「昔より危険ですから」
「困っている人から高く取るのね」
「困っていない人は、俺に護衛を頼みません」
淑蘭は笑った。
「本当に悪い商人になったわね」
「前からです」
「自分で言うの?」
「それでも淑蘭さんは家へ入れてくれます」
淑蘭は少し黙った。
「南の道を調べているということは、長安を出ることも考えているのね」
「今すぐではありません」
「では、なぜ今から?」
「本当に出なければならなくなった日に、初めて道を探したくないからです」
淑蘭の表情から笑みが消えた。
「長安は、そこまで危なくなると思う?」
「分かりません。ただ、食糧の値は下がっていません。城外から入る荷車も減っています」
「主人も、荷が以前より入らないと言っていたわ」
「戦で勝ったという話があっても、長安へ入る食糧が増えなければ、俺には安心する理由になりません」
淑蘭は卓上の皿へ目を落とした。
「もし本当に逃げなければならなくなっても、主人は簡単に役所を放り出せないでしょうね」
「そうでしょう」
「私はどうしたらいいのかしら」
「韓さんと一緒に出られるなら、それが一番です」
「主人が残ると言ったら?」
「淑蘭さんだけでも、俺の商隊で先に南へ出します」
淑蘭は田朔を見た。
「主人の妻を?」
「韓さんから頼まれてお送りするなら、何もおかしくありません」
「主人には世話になっているでしょう」
「世話になっています」
「それでも私を連れていくのね」
「危ないところへ置いていきたくありません」
「なぜ?」
「欲しい女だからです」
淑蘭は田朔を見つめた。
「あなたには玉蓮さんがいるでしょう。陳さんの奥方とも親しいと聞いたわ」
「春華さんのことですか」
「やっぱり本当なのね」
「どこで聞きました」
「女の噂を甘く見ない方がいいわよ。それで、私が嫉妬したら困る?」
「嫉妬されたからといって、嫌いにはなりません」
「では春華さんのところへ行くのをやめる?」
「それは嫌です」
淑蘭は呆れて笑った。
「本当に勝手ね」
「淑蘭さんが俺との関係をやめたいと言うなら、それは受け入れます」
「ほかの女との関係をやめろと言っても?」
「それは受け入れません」
「本当に好色ね」
「知っています」
淑蘭は田朔の隣へ座った。
「私は何番目になるのかしら」
「順番を決める必要がありますか」
「女には気になるものよ」
「俺は、1人増えたから前の女を粗末にするつもりはありません」
「いい女なら全部欲しい?」
「ああ」
「最低ね」
「帰った方がいいですか」
「帰したいなら、最初から食事なんて出していないわよ」
淑蘭は田朔の衣をつかんだ。
その夜、田朔が韓家を出たのは夜明け前だった。
385年3月中旬が終わった。
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『長安の悪党、乱世を喰らう』
第二章「長安崩壊、悪党は儲ける」
第5話(後編)「逃げる前に店を出す」
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385年3月下旬。
3月21日、田朔の店へ、これまで何度か取引した商人が訪ねてきた。
男は家族の一部をすでに南へ送り、残る家族と使用人を連れて自分も長安を離れるつもりだった。
「荷車12台を南へ出したい」
「何を積みますか」
「家財と商品だ」
「同行する人は?」
「俺を入れて18人だ」
「いつ出たいんです」
「5日以内だ」
田朔は荷の量、人数、必要な人夫と護衛を計算し、値を示した。
男は目を見開いた。
「6,000銭?」
「はい」
「高すぎる!」
「荷車12台と18人を、まとまった護衛を付けて南へ出します。道中の人夫と宿場の手配もこちらでします」
「荷車は俺の物だぞ」
「荷車を貸す銭は入れていません。護衛、人夫、隊列をまとめて南まで運ぶための値です」
「半分にしろ」
「できません」
「5,000」
「6,000です」
「知り合いだろう」
「だから5日以内に引き受けています。今は同じように南へ出たい人が多い」
男は苛立った。
「去年まで荷車を押していた若造が、俺から6,000銭も取るのか」
「去年なら、俺に頼む必要はなかったでしょう」
「払えなければどうする」
「荷を減らしてください」
「何を置いていけと言うんだ」
「手放してもよい商品があるなら、俺が買います。そこで受け取った銭を護衛料へ回すこともできます」
男が田朔を睨んだ。
「結局、商品まで安く買う気か」
「高いと思うなら売らなくて構いません。全部運ぶなら6,000銭です」
「お前には都合がいいことばかりだな」
「選ぶのはあなたです」
男は結局、商品を何点か田朔へ売った。
田朔は現在の長安で買い手を探す手間と、男が5日以内に出たい事情を織り込んだ安い値を付けた。
荷車は12台から9台に減った。
輸送する荷が減ったため料金も少し下がったが、田朔は商品を安く買う利益と、南へ運ぶ利益の両方を取った。
◇ ◇ ◇
こうした話は1件ではなかった。
家族だけ先に逃がしたい者、銀や絹を別の町へ移したい者、店の商品を南へ運びたい者が田朔のところへ来た。
田朔は荷物の量、同行する人数、行き先、出発日によって値を変えた。
急ぐ者からは高く取る。数日待てる者は、ほかの客と同じ隊列へまとめて少し安くする。荷物を減らしたい者からは、双方が値に納得すれば商品を買う。銭が足りない者には、長安に残す家や店を担保として貸した。
食糧を積んで長安へ戻る商人については、帰りの隊列を大きくできるため護衛料を少し下げた。
1人の客から1度だけ利益を取る必要はなかった。
荷を預かれば倉代が入る。運べば運賃が入り、危ない道なら護衛料が入る。銭が足りない客には貸し、返せなければ契約に従って担保を受け取る。商品を減らしたい客がいれば、それを相場より安く買う。
戦から逃げたい者が田朔の店へ来れば、その者が抱えている問題のどこかを商売に変えることができた。
◇ ◇ ◇
3月23日、田朔は梁家を訪れた。
以前のように荷運び人としてではない。
穀物を買うための商談だった。
客間へ通されると、梁景成が帳面を見ていた。
「随分大きくなったそうだな」
「まだ梁旦那ほどではありません」
「店が4軒、倉が7棟。荷車も増え、護衛を連れて商隊まで動かしていると聞いた」
「よくご存じですね」
「長安でそれだけ動けば、嫌でも耳に入る」
梁景成は帳面を閉じた。
「今日は何をしに来た」
「粟を売っていただきたいと思いまして」
「お前も随分持っているだろう」
「足りません」
「どれだけ集める気だ」
「売れる間は、売れるだけ集めます」
「今の長安では、食糧を持っている者が強いか」
「家だけ持っているよりは安心です」
梁景成が田朔を見る。
「お前、最近は家や店を前ほど買っていないそうだな」
「安ければ買います。ただ、1月ほどではありません」
「なぜだ」
「家は逃げる時に荷車へ積めませんから」
梁景成の目が細くなった。
「逃げるのか」
「まだです」
「なら、なぜ南へ商隊を出している」
「今は運賃と護衛料が取れるからです。それに、本当に逃げる日が来た時、初めて道を通るよりは今から知っておいた方がいい」
「秦がこのまま負けると思っているのか」
「分かりません」
「またそれか」
「秦が戦に勝っても、長安へ入る食糧が増えなければ、俺の商売には関係ありません」
「戦が収まれば道も戻る」
「戻れば長安で今まで通り儲けます」
「戻らなかったら?」
「南にも店を出し、そちらで商売を続けます」
梁景成は少し驚いた。
「長安でこれだけ店を増やして、今度は南にも出すのか」
「全部を長安へ置いておくのが怖くなりました」
「ようやく怖くなったか」
「怖いから、その逃げ道でも儲けています」
梁景成は声を上げて笑った。
「普通は逃げ道を確保したら安心するものだ」
「同じ道を使いたい人が多いなら、運賃を取った方が得でしょう」
「やはり嫌な商人になったな」
「梁旦那に教わりました」
「俺はそこまで教えていない」
「頭を使えとは言われました」
「都合のよいところだけ覚えているな」
梁景成は笑いながら、ようやく本題へ戻った。
「粟は200袋までなら売る」
「値は?」
梁景成が示した額は高かった。
「高いですね」
「長安の今の値を見れば分かるだろう」
「200袋まとめて買います。もう少し下げてください」
「お前の店なら、今日買って明日もっと高く売れる」
「運ぶ銭もかかります」
「お前は自分で荷車を持っている」
「人夫と護衛へは払います」
「そこまで俺が面倒を見る必要はない」
田朔はさらに値を詰め、最初に示された額から少し下げさせた。
それでも平時なら高すぎる値だったが、現在の長安なら十分に利益が残る。
「では、その値で200袋すべて買います」
「随分あっさり決めたな」
「欲しい物を買える値まで下がりましたから」
「前なら、もう少し粘っただろう」
「今は粟200袋を早く押さえる方が大事です」
梁景成は笑った。
「その口なら、もう荷運びには戻れんな」
「戻るつもりもありません」
商談は成立した。
田朔が客間を出る時、梁家の庭には何台もの荷車が見えた。
倉も店も使用人も、田朔の何倍もある。
それだけに、梁家が本当に長安を離れるとなれば、動かさなければならない物も桁違いだった。
大きいことは強い。
だが、動かなければならない時には、その大きさが重荷にもなる。
田朔は初めて、梁家の大きさを羨むだけではなくなっていた。
◇ ◇ ◇
梁家を出る途中、田朔は何小玉と顔を合わせた。
小玉は田朔を見ると、しばらく顔を眺めた。
「本当に田朔?」
「ほかに見えるか」
「衣も履物も変わったから」
「前より少し銭がある」
「少し?」
小玉は笑った。
「旦那様が、あなたは随分大きくなったと言っていたわ」
「梁旦那に比べれば、まだ小さい」
「まだ比べているの?」
「ああ」
「本当にしつこいわね」
「よく言われる」
小玉の後ろから、蘇青蘭と馮彩児も歩いてきた。
田朔は2人へ挨拶した。
青蘭が田朔を見て笑った。
「昔、荷車の横からこちらを見ていた人とは思えないわね」
「覚えていたんですか」
「私は人の顔を覚えるのが得意なの」
「聞いたことがあります」
「誰に?」
田朔が小玉を見ると、小玉が困った顔をした。
「私、昔そんなことまで話した?」
「随分前です」
彩児は田朔より、門の外に止めてある馬を見ていた。
「あの馬はあなたの?」
「店の馬です」
「悪くない馬ね」
「買う時に彩児さんに見てもらえばよかった」
「銭を取るわよ」
「高すぎなければ払います」
「そこは相変わらずなのね」
3人が笑った。
田朔も笑った。
1年前、梁家へ荷を運んでいた頃には、この女たちを遠くから見るだけだった。
今は梁景成との商談を終えた帰りに、こうして立ち話をしている。
それでも欲が満たされたわけではなかった。
梁景成には正妻を含めて8人の女がいる。
田朔にも玉蓮、春華、淑蘭がいる。
それでも、きれいな女を見れば欲しいと思う。
銭が増えて欲が減るどころか、手を伸ばせる範囲が広がった分だけ、欲しい物も増えていた。
「何を見ているの?」
小玉が尋ねた。
「昔を思い出した」
「何を?」
「梁家へ来始めた頃だ。青蘭さんと彩児さんを初めて見た時は、俺は破れた袖で荷車を押していた」
青蘭が笑った。
「あの頃から見ていたのね」
「きれいな女を見るなという方が無理でしょう」
「今は女にも困っていないでしょうに」
「それとこれとは別です」
小玉が呆れた。
「本当に欲張り」
「知っている」
田朔は3人へ挨拶し、梁家を出た。
◇ ◇ ◇
3月25日、田朔は馬福成を帳場へ呼んだ。
「南へ行ってくれ」
「商隊を率いるんですか」
「今回は向こうへ着いてからも残ってほしい」
「何をします」
「店と倉を探す」
「買うんですか」
「まだ買わない。まず借りろ」
馬福成が田朔を見る。
「長安を捨てるつもりですか」
「まだだ」
「では、なぜ今から店を?」
「長安だけに全部置いておく必要がない。南でも商売ができるなら、今から始める」
「どこまで行きます」
「漢中だ」
「かなり遠いですよ」
「だから今のうちに行ってほしい」
田朔はまとまった銭、商品、紹介状を用意した。
「使える店を借りろ。倉も1棟確保してほしい。家賃が高すぎるなら無理に借りなくていい。長く使うか分からないから、今は買うな」
「何を売ります」
「まず塩、布、質流れの銀器や道具だ。それから、長安から逃れてきた者が銭に換えたがっている品があれば、値を見て買え。こちらで売って利益が出る値なら仕入れていい」
「分かりました。向こうへ着いた後、この荷車はどうします」
「荷を下ろした車には、帰りに粟、豆、乾物を積めるだけ積む。段さんが帰りの隊列をまとめる。馬さんは漢中に残って店を作ってくれ」
「行きも帰りも空にはしないんですね」
「ああ。南へ向かう客の荷を運んで銭を取り、帰りには長安で不足している食糧を積む」
「漢中の店が動けば、長安から商品を送ることもできますね」
「そのつもりだ。商売にならなければ店を畳めばいい。だから最初から建物を買う必要はない」
横で聞いていた玉蓮が尋ねた。
「では、今は私が長安に残るのね」
「ああ。長安の店と帳簿を任せられるのは玉蓮だ」
「危なくなったら?」
「玉蓮と父さん、母さんは先に南へ出す」
「春華さんと淑蘭さんは?」
「できれば一緒に出したい」
玉蓮の眉が上がった。
「2人とも旦那様がいるでしょう」
「夫と一緒に出られるなら、それでいい。役所の仕事で夫が残るなら、妻だけでも先に逃がした方がいい」
「それで済む?」
「何がだ」
「あなたのことよ。南へ連れていって、安全な場所へ着いたら、それで満足するの?」
田朔は笑った。
「玉蓮は俺をよく知っているな」
「嫌になるほどね」
「今は逃がすことが先だ。その後のことは、その時に考える」
「でも欲しいのでしょう」
「ああ」
「春華さんも淑蘭さんも?」
「ああ」
「私も?」
「今さら聞くな」
「この先またいい女が出たら?」
「欲しくなるだろうな」
玉蓮は呆れた。
「本当に救いようがないわ」
「嫌か」
「嫌なら、とっくに出ていっているわよ」
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は玉蓮の部屋で過ごした。
夜明け前、田朔が衣を着始めると、玉蓮は寝台から恨めしそうに見た。
「今日も稽古へ行くの?」
「ああ」
「昨夜は春華さんでも淑蘭さんでもなく、私のところにいたのよ」
「誰の部屋で寝ても、朝は朝だろう」
「本当に可愛くないわね」
「今日は早く寝ろ」
「私が疲れていることにするの?」
「違うのか」
玉蓮は枕を投げた。
田朔は身体をそらして避けた。
「前なら当たっていたぞ」
「朝の稽古の成果を、こんなところで使わないで!」
田朔は笑いながら部屋を出た。
◇ ◇ ◇
3月30日。
馬福成を乗せた南行きの商隊が長安を出た。
荷車は18台ある。7台には南へ向かう客の家財や商品を積み、田朔はすでに運賃と護衛料を受け取っている。5台には田朔の商品を積み、残る6台は途中や漢中で商品を買ったり、帰りに食糧を積んだりできるよう余裕を持たせた。
護衛の手当や道中の費用の多くは、客から取った銭で賄える。
その護衛が田朔の商品も守る。
漢中へ着けば馬福成が店と倉を借り、すぐ商売を始める。
帰りの隊列は段烈がまとめ、長安で高く売れる食糧を積めるだけ積んで戻る。
田朔は城門の外で、隊列が南へ小さくなるまで見送った。
3月には、城外で安く買った商品、護衛と運送、食糧の販売、貸付、債権回収から大きな銭が入った。動かせる現金は9万銭を超え、店、倉、商品、貸付債権、荷車、馬まで合わせれば、その何倍もの財産になっている。
それでも田朔が最後に見ていたのは、自分の店でも倉でもなかった。
南へ続く道だった。
長安を怖がる商人から商品を安く買う。逃げたい者から運賃と護衛料を取り、その銭で自分の商品まで同じ商隊に守らせる。南へ送った荷車は空で戻さず、長安で値の上がった食糧を積ませる。
長安から逃げる者が増えるほど、田朔の商隊には客が増える。
長安で食糧が不足するほど、南から運び込む荷の値は上がる。
戦乱が道を危険にするほど、その道を安全に通れる商隊の値打ちも上がった。
長安で儲け、長安を怖がる者からも儲け、その者たちが逃げる道からまで儲ける。
385年3月が終わった。




