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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第二章――「長安崩壊、悪党は儲ける」

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第3話(後編)――「主人のいない夜」

 385年1月下旬。


 長安から出ていく者は、さらに増えていた。


 南門では家財を積んだ荷車を以前より多く見かけるようになり、質屋へ持ち込まれる品にも変化が出ていた。


 上等な衣や銀の器、鏡、装飾品など、これまでなら家の奥にしまわれていたような物まで銭に替えようとする者がいる。


 田朔は盗品の疑いが強い物には、相変わらず低い値しか付けなかった。


 市場で500銭ほどの品でも、持ち主についての説明がおかしければ100銭までしか貸さない。


 逆に、家族で南へ移るため、自分の持ち物を銭へ替えたい事情が確認できる者には通常の質草として扱った。


 戦の不安が広がっているからといって、何でも同じ値で買い叩くわけではない。


 品を失う危険が高いほど安く取り、問題の少ない品には相応の銭を出す。その方が長く続ければ儲かった。


 ◇ ◇ ◇


 1月22日。


 以前、店を担保に銭を借りたいと言っていた布商人が、再び田朔を訪ねてきた。


「前の話だが、まだ貸せるか」


「条件が同じなら」


「返す日は少し延ばしてほしい」


「それなら利息も変わります」


「高すぎる」


「では借りない方がいいでしょう」


 男は帰らなかった。


「店を売ったら、いくら出す」


 田朔は男の顔を見直した。


「本当に売るんですか」


「家族が先に南へ行った。俺も追いたい」


「いつまでに?」


「今月中だ」


「では店を見ます」


 田朔は玉蓮と馬福成を連れて布屋を調べた。


 建物だけでなく、裏の倉、屋根、柱、戸、周辺の人通りまで見る。


 布そのものを大量に買う気はなかった。


「品物はどうするんです」


 田朔が尋ねた。


「別に売る」


「では建物と倉だけですね」


「そうだ」


「2,400銭」


「安すぎる。4,000はする」


「平時なら、それに近いかもしれません」


「なら3,800」


「2,400です」


「話にならん」


「俺は急いで買う必要がありません」


 田朔は男を見た。


「南へ急いでいるのは、あなたです」


 男の顔が険しくなった。


「人の弱みにつけ込むのか」


「4,000で買う人を探す時間があるなら、探してください」


「……2,800」


「2,500」


「2,700」


「2,600なら買います。今日、韓さんへ書類を持っていきます」


 男は長く迷った末、承知した。


「2,600だ」


「では、権利を確かめて問題がなければ明日払います」


 田朔はまた1軒、店と倉を手に入れることになった。


 前年の初めには他人の荷車を押していた男が、1年後には自分の店や倉を増やしている。


 それでも田朔は満足していなかった。


 梁景成が持つ物と比べれば、まだ小さかった。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、田朔は書類を持って韓敬のところへ行った。


 韓敬は役所で内容を確かめた。


「また買うのか」


「安いので」


「お前、本当に長安から逃げる気がないんだな」


「今逃げたら、ここまで買った物を置いていくことになります」


「本当に城まで戦が来たらどうする」


「その時に考えます」


「遅いかもしれんぞ」


「早く逃げた人から安く買えるうちは、まだ残ります」


 韓敬は呆れた。


「筋金入りだな」


 書類を机へ置く。


「明日までに調べておく」


「お願いします」


「俺は今夜も帰れん。家や土地の売買が一気に増えて、帳面が追いつかん」


「大変ですね」


「お前が買うたび仕事を増やしているんだぞ」


「その分はお支払いしています」


「本当に可愛げがないな」


 韓敬は田朔を追い払うように手を振った。


「帰れ。俺はまだ仕事だ」


「失礼します」


 田朔は役所を出た。


 家へ帰らず、そのまま韓家へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 淑蘭は田朔を見ると、驚いた。


「主人は?」


「今夜は役所から帰れないそうです」


「そうなの」


「聞いていませんでしたか」


「遅くなるとは聞いたけれど、泊まりになるとは聞いていないわ」


 淑蘭は田朔の顔を見た。


「それを知らせに来てくれたの?」


「それもあります」


「ほかにも?」


「淑蘭さんの顔を見たかったので」


 田朔は隠さなかった。


 淑蘭は返事をしなかった。


 ただし、帰れとも言わなかった。


「入って」


 田朔は家へ入った。


 食事を済ませていないと知ると、淑蘭はすぐ用意させた。


「また食べていないのね」


「店からそのまま役所へ行ったので」


「あなたは本当に、自分のことになると雑ね」


「腹が減れば食べます」


「腹が減る前に食べなさい」


「母さんと同じことを言いますね」


 淑蘭が田朔を見た。


「やっぱり私は母親くらいの年に見える?」


「そういう意味ではありません」


「私は36よ」


「知っています」


「あなたは19」


「それも知っています」


「17も違うのよ」


「数えればそうですね」


「気にならないの?」


 田朔は箸を置いた。


「何がですか」


「私の年よ」


「年を数えるために来たわけではありません」


 淑蘭は田朔を見た。


 やがて笑った。


「あなたは時々、ひどく大人みたいなことを言うのね」


「時々ですか」


「時々よ。それ以外は欲張りな若者でしょう」


「否定しません」


「銭も欲しい。店も欲しい。家も土地も欲しい」


「はい」


「女も?」


 田朔は淑蘭から目をそらさなかった。


「欲しいと思ったら」


 淑蘭の指が止まった。


「それを私に言うの?」


「淑蘭さんが聞いたので」


「主人の妻よ」


「知っています」


「主人には世話になっているでしょう」


「はい」


「それでも?」


 田朔はしばらく考えてから答えた。


「だから、嫌がるなら何もしません」


 淑蘭の表情が変わった。


「嫌がらなければ?」


「帰りません」


 淑蘭は田朔を見た。


 部屋の外では、冬の風が戸を鳴らしていた。


 やがて淑蘭が席を立った。


 田朔も立つ。


 淑蘭は田朔のすぐ前まで来た。


「最初は、本当に子供みたいだと思ったのよ」


「今もですか」


「それなら、こんなに困っていないわ」


 淑蘭が田朔の胸へ手を置いた。


 朝の稽古を続けてきた身体は、衣の上からでも厚みが分かる。


「主人より若いどころか、私より17も若いのに」


「嫌ですか」


「またそれを聞くの?」


「大事でしょう」


 淑蘭は田朔の衣をつかんだ。


「嫌なら、家へ入れていないわ」


 田朔は淑蘭の腰へ腕を回した。


 淑蘭は離れなかった。


 田朔が口づけると、淑蘭もその首へ腕を回した。


 その夜、田朔は韓家を出なかった。


 ◇ ◇ ◇


 夜明け前。


 田朔が衣を着始めると、淑蘭が寝台から顔を上げた。


「まさか、稽古へ行くの?」


「行きます」


「今から?」


「いつもの時間です」


「昨夜あれだけ……」


 淑蘭は途中で言葉を止めた。


 田朔が笑った。


「何ですか」


「笑わないで」


「淑蘭さんが言いかけたんでしょう」


「あなた、本当に疲れないのね」


「少しは疲れています」


「では寝ていなさい」


「稽古代を払っています」


 淑蘭が呆れた。


「そんな理由で?」


「休んでも銭は返ってきません」


「こんな時まで銭なの?」


「それだけではありません。続けないと弱くなる」


 淑蘭は寝台から手を伸ばし、田朔の腕をつかんだ。


「もう少しいて」


 田朔はその手を見た。


「韓さんが帰る前には出ます」


「分かっているわ」


「稽古には遅れます」


「1日くらい遅れなさい」


 田朔は少し考えた。


「では少しだけ」


「本当に可愛くないわね」


 淑蘭はそう言いながら笑った。


 田朔はもう1度寝台へ戻った。


 その朝だけは、いつもより遅れて稽古へ向かった。


 ◇ ◇ ◇


 1月30日。


 玉蓮と馬福成が、今月増えた資産と貸付の帳面をまとめていた。


 田朔は1月だけで、長安城内の家と倉を1組、城外の倉を1棟、さらに布屋だった店と倉を1組手に入れた。このほか、家を担保にして銭も貸している。


 売りに出た物をすべて買ったわけではない。


 値が高ければ断り、場所が悪ければ見送った。


 長安から逃げたい者が増えているからこそ、急いでいない田朔には選ぶ余地があった。


 玉蓮が帳面から顔を上げた。


「1年前には草鞋20足を買う100銭をお父様から借りていたのよね」


「ああ」


「今は家と店を買っている」


「まだ足りない」


「また梁旦那?」


「梁家はこんなものじゃない」


「あなた、本当に一生満足しないんじゃない?」


「満足したら、その時は銭を増やす理由がなくなるだろう」


 玉蓮は呆れた。


「そのうえ、最近は韓さんの家へ行く回数まで増えているし」


 田朔の手が止まった。


「仕事だ」


「そういうことにしておくわ」


「何を知っている」


「何も」


 玉蓮は帳面へ目を戻した。


「でも、あなたが役人の家へ行く時だけ妙に機嫌がいいのは知っている」


 田朔は答えなかった。


 玉蓮も追及しなかった。


 陳貴の正妻である春華との関係まで知っている女である。田朔が別の役人の妻へ近づいているとしても、今さら驚く話ではなかった。


 384年の初め、田朔は18歳で、梁家の門前で父の荷車を押し、趙六に殴られていた。


 それから1年が過ぎ、19歳になった田朔は自分の店と倉を持ち、金を貸し、役人へ銭を渡してさらに上の役人へ近づいた。軍へ品を売り、河東の塩で利益を増やし、今度は戦を恐れて逃げる者から家や店、倉を安く買い始めている。


 韓敬の妻、淑蘭との関係まで始まった。


 それでも、梁景成が築いた財産には遠く及ばない。


 田朔は満足しなかった。


 長安から逃げる者が増えるほど、売りに出される物も増える。


 田朔は、その中から値打ちのある物だけを選んで自分の物にしていくつもりだった。


 385年1月が終わった。

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