第3話(中編)――「韓敬の奥方」
385年1月中旬。
1月11日の夕方、田朔は数日前に韓敬から誘われた食事のため、韓家を訪れた。
韓敬の家は田朔の家より広かった。大商人の屋敷ほどではないが、役人が家族と使用人を住まわせるには十分な広さがある。
田朔が案内されて客間へ入ると、韓敬の妻が待っていた。
王淑蘭。
36歳だった。
派手な衣ではないが、布地はよく、髪もきちんと結っている。顔立ちは整い、若い女とは違う落ち着きがあった。
田朔を見ると、淑蘭は少し驚いた顔をした。
「本当に若いのね」
韓敬が笑った。
「だから19だと言っただろう」
「あなたは話を大きくするから、半分くらい嘘だと思っていたのよ」
「俺がいつ話を大きくした」
「毎日しているでしょう」
淑蘭は田朔へ顔を向けた。
「主人がいつも世話になっています」
「こちらこそ、韓さんには助けていただいております」
淑蘭はもう1度田朔を見た。
「思ったより丁寧に話すのね」
韓敬が口を挟んだ。
「最初からではないらしいぞ」
「余計なことを言わないでください」
田朔が返すと、韓敬が笑った。
「ほら、すぐ出る」
淑蘭も笑った。
「それくらいの方が19歳らしいわ」
田朔は席へ着いた。
ほどなく食事が運ばれてきた。
羊肉と葱を煮た料理の湯気から肉と香味野菜の匂いが立ち、豆、蒸した餅、漬物も並んだ。冬の夕食としては十分な品数だった。
田朔が食べ始めると、淑蘭がすぐ気づいた。
「よく食べるのね」
「朝から動いていますから」
「商売だけでしょう?」
「日の出前に身体を鍛えています」
韓敬が驚いた。
「まだ続けているのか」
「毎朝です」
「商人が何を目指しているんだ」
「殴られた時に、前より痛い目を見ずに済むようにしています」
淑蘭が田朔を見る。
「殴られるようなことをしているの?」
「昔、よく殴られました」
「昔って、あなたはまだ19でしょう」
「去年です」
淑蘭は笑った。
「それなら本当に昔ではないわね」
韓敬は酒を飲みながら、田朔が草鞋を売って杜三に殴られた話まで始めた。
「それが今では店を持って、俺に値段を吹っかけてくる」
「吹っかけてはいません」
「軍へ売る塩を値切ったら、俺の方が条件を付けられたぞ」
「韓さんも了承されたでしょう」
「この通りだ」
淑蘭は2人のやり取りを聞きながら笑っていた。
◇ ◇ ◇
食事の途中で、淑蘭が田朔の右手を見た。
「手を見せて」
「手ですか」
「ひどく荒れているでしょう」
田朔は自分の手を見た。
朝の稽古と荷の確認が重なり、指の付け根が何か所か割れていた。
「これくらい何ともありません」
「何ともない人の手は割れないわよ」
淑蘭は使用人へ湯と布を持ってくるように言った。
「奥様、そこまでしていただかなくても」
「こういう時だけ奥様になるのね」
「いつも韓さんの奥様でしょう」
「さっきまで淑蘭と呼ばれていた気がするけれど」
「韓さんが呼んでいただけです」
韓敬が酒を飲みながら笑った。
「お前、妻には弱いな」
「何もしていません」
「俺より素直に言うことを聞いている」
「傷を見せろと言われただけでしょう」
湯が運ばれると、淑蘭は布を濡らして田朔の手を拭いた。
田朔は扱いに困った。
母親以外の女から、こうして手の傷まで気に掛けられることには慣れていなかった。
「痛い?」
「別に」
「強がらなくていいのよ」
「本当に痛くありません」
「そこは子供みたいね」
「子供ではありません」
「はいはい」
淑蘭は笑いながら薬を塗った。
田朔は言い返そうとしたが、やめた。
手の傷を世話されることは嫌ではなかった。
◇ ◇ ◇
その後、田朔が韓家へ立ち寄る回数は増えた。
家や土地の売買が増え、韓敬へ書類を頼む用事が続いたからだ。
1月13日には、小さな酒屋を売りたいという男を紹介された。
1月15日には、城内の家を担保に銭を借りたいという話が来た。
1月17日には、城外に小さな倉を持つ男が、家族を連れて西へ向かうため急いで買い手を探していた。
田朔は全部に手を出したわけではない。
酒屋は値が高すぎたため断った。家を担保にした貸付では、返済期限と担保を証文へ明記してから銭を貸した。城外の倉は場所と建物の状態を確かめ、売り手が急いでいたこともあって安く買った。
韓敬へ会うため家へ寄れば、淑蘭とも顔を合わせる。
「今日は朝飯を食べた?」
最初に聞かれるのは、たいていそんなことだった。
「食べました」
「本当に?」
「食べないと稽古ができません」
「昼は?」
「まだです」
「ほら、やっぱり」
「今は昼前でしょう」
「言い訳ばかりね」
淑蘭は田朔が頼んでもいないのに食事を出させた。
田朔も2度目からは遠慮しなくなった。
「よく食べるわね」
「出されたので」
「残してもいいのよ」
「もったいないでしょう」
「そこまで銭勘定なの?」
「食べ物を捨てる方がおかしいでしょう」
「それはそうね」
淑蘭は、田朔が出された物を残さず食べる様子をよく見ていた。
田朔にも、それは分かっていた。
◇ ◇ ◇
1月18日。
韓敬は役所からまだ戻っていなかった。
田朔は書類を届けるため韓家を訪ね、用件だけ済ませて帰るつもりだった。
淑蘭が書類を受け取る。
「主人は遅くなるそうよ」
「では、これを渡しておいてください」
「もう帰るの?」
「店がありますから」
「少しくらい座っていけばいいでしょう」
田朔は淑蘭を見た。
「何か用がありますか」
「用がなければ引き止めてはいけないの?」
「いえ」
「では座って」
田朔は客間へ戻った。
淑蘭は茶を入れさせた。
「あなたは忙しすぎるわ」
「今は買える物が多いんです」
「家や土地?」
「はい」
「人が逃げるのを見て買っているのでしょう」
「安いですから」
「主人が、あなたは人が怖がっている時ほど元気になると言っていたわ」
「韓さんは言い方が悪いですね」
「違うの?」
「間違ってはいません」
淑蘭が笑った。
「やっぱり正直ね」
田朔は茶を飲んだ。
淑蘭は向かいに座ったまま、田朔の顔を見た。
「疲れていない?」
「何がですか」
「目の下が少し黒いわ」
「昨夜遅かったので」
「仕事?」
田朔は答える前に一瞬だけ考えた。
「いろいろです」
「女ね」
田朔は淑蘭を見た。
「なぜそう思うんです」
「36年も生きていれば、それくらい分かるわよ」
「韓さんには言わないでください」
「本当にそうなの?」
「聞いたのは淑蘭さんでしょう」
初めて名前で呼ばれ、淑蘭は田朔を見返した。
「私を、そう呼ぶのね」
「嫌でしたか」
「嫌ではないわ」
淑蘭は茶碗へ目を移した。
田朔はそれ以上進まなかった。
韓敬との関係を壊せば、役所を利用した商売にも響く。
それでも田朔は、淑蘭を韓敬の妻としてだけ見ることが難しくなっていた。
帰る時には、淑蘭が門まで見送った。
「また来る?」
「韓さんに用があれば」
「主人に用がなくても来ればいいのに」
淑蘭はそう言った後、自分で笑った。
「食事くらい出すわよ」
「では、そのうち」
田朔は家を出た。
次に韓家を訪れる時、韓敬への用事だけが理由になるとは、自分でも思わなくなっていた。
385年1月中旬が終わった。




