第3話(前編)――「逃げる者から買う」
385年1月上旬。
前話の収入:約23,000銭
前話の支出:約14,000銭
現在動かせる金:約19,000銭
1月2日の日の出前、田朔は霜の残る裏庭で、兵役上がりの男と組み合っていた。
朝の稽古を始めて3か月になる。
男が田朔の襟をつかみ、身体を引き寄せた。
以前の田朔なら腕力で振りほどこうとした。今は相手の足を見る。
男の右足へ体重が移った瞬間、田朔は身体を寄せ、左足を相手の右足の外へ入れた。腰を回しながら肩で押す。
男の足が浮いた。
田朔はそのまま身体を回し、相手を地面へ落とした。
「取った」
田朔が言った。
男は仰向けになったまま田朔を見た。
「ようやく1回か」
「倒しただろう」
「今まで何十回、俺に転がされたと思っている」
「数えていない」
「俺は覚えているぞ」
「では、これから減らしてやる」
男は起き上がり、衣についた土を払った。
「今日はもう1回やるか」
「当たり前だ」
次の組み合いでは、田朔がすぐ地面へ転がされた。
「まだ俺の方が上だ」
「分かっている。もう1回」
「お前は本当に終わらんな」
「勝ってから言え」
稽古が終わる頃には、冬の朝にもかかわらず田朔の額から汗が流れていた。
3か月で兵役上がりの男と互角になったわけではない。それでも、杜三たちに一方的に殴られていた頃とは違う。足の運びや腰の使い方を覚え、相手の動きを見ながら身体を動かせるようになっていた。
田朔は家へ戻って身体を拭き、肉と豆の入った粥を腹へ入れてから店へ向かった。
12月には塩で大きく稼いだ。
年が明けた今、田朔が狙っているのは塩ではなかった。
家と土地だった。
◇ ◇ ◇
店へ着くと、許玉蓮が3枚の札を机へ並べていた。
「韓さんから届いたわ」
「もう来たのか」
「朝一番に役所の者が持ってきた」
田朔は椅子へ座り、札を1枚ずつ確かめた。
1枚目には長安城内の小さな家と倉、2枚目には南門に近い通り沿いの店、3枚目には城外にある畑と小さな家が書かれている。
どれも持ち主が長安を離れるため、買い手を探している物件だった。
「値は?」
玉蓮が答えた。
「家と倉が3,500銭。店が4,200。城外の土地と家が2,400」
「高い」
「まだ見てもいないでしょう」
「逃げたい奴が普段と同じ値で売ろうとしているなら高い」
「でも、最初から半値にはならないわよ」
「だから話す」
田朔は3枚の札を取った。
「全部見に行く」
「全部買うつもり?」
「安ければな」
「銭を使い切らないでよ。仕入れも給金もあるんだから」
「分かっている」
「あなたの『分かっている』は時々怖いのよ」
「全部使うつもりなら、最初から玉蓮には言わない」
「それは安心していいのかしら」
「少しはな」
田朔は二番番頭の馬福成を呼び、店と倉を見る支度をさせた。
建物を見る目では、田朔より馬福成の方が確かだった。田朔は、自分で分からない物まで分かったふりをして買うつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
最初に見たのは、長安城内の小さな家と倉だった。
持ち主は50歳ほどの男で、家族を連れて南へ移るつもりだという。
「3,500銭だ。倉だけでもかなり使える」
田朔は敷地を歩いて確かめた。
家は古く、屋根瓦の一部がずれ、裏庭の塀にもひびが入っている。
倉は家より状態がよかった。戸はしっかりしており、屋根から雨が入った跡もない。
馬福成が柱や戸口を確かめた。
「少し直せば使えます」
田朔が尋ねた。
「いくらくらいかかる」
「家まで全部直すなら300から400は見た方がいいでしょう。倉だけなら100もかからないと思います」
持ち主が口を挟んだ。
「家は十分住めるぞ」
「住めることと、直さなくていいことは別です」
田朔は庭へ戻った。
「2,200で買います」
「馬鹿を言うな。3,500だぞ」
「3,500なら買いません」
「倉まで付いているんだぞ」
「知っています」
「せめて3,200だ」
「2,200です」
「話にならん」
「では、ほかの方へ売ってください」
田朔は馬福成へ声をかけた。
「次へ行くぞ」
本当に門へ向かうと、持ち主が慌てて呼び止めた。
「待て。いくらまで出せる」
「2,200と言いました」
「2,800」
「2,300」
「そんなに下げられるか」
「俺は急いでいません」
田朔は男を見た。
「急いでいるのは、そちらでしょう」
男の顔が険しくなった。
田朔は構わなかった。
家族を連れて南へ向かうなら、家と倉は持っていけない。今日売れなければ、明日も買い手を探さなければならない。
戦の噂が広がり、売り手が増えれば、値段はさらに下がるかもしれない。
「2,600」
「2,400」
「2,500だ。それ以下なら売らん」
田朔は倉をもう1度見た。
「分かりました。2,500で買います。ただし、役所で権利を確かめてからです」
「もちろんだ」
「借金の担保になっていたり、親族が後から自分の物だと言い出したりしたら買いません」
「そんなことはない」
「それも確かめます」
田朔はその場で銭を渡さなかった。
証文を役所へ持ち込み、韓敬を通して持ち主と権利関係を確認してから代金を払うことにした。
◇ ◇ ◇
南門近くの店は買わなかった。
場所は悪くなかったが、持ち主が4,000銭からほとんど値を下げなかったからだ。
「3,600なら売る」
「いりません」
「さっきより600も下げたぞ」
「俺は2,800までしか出しません」
「そんな値では売れん」
「では買いません」
田朔はあっさり店を出た。
馬福成が通りを歩きながら尋ねた。
「場所はよかったと思いますが」
「俺もそう思う」
「なら、もう少し出してもよかったのでは?」
「よい物なら、いくらでも払っていいわけじゃない」
田朔は店が並ぶ通りを見た。
「これから売る奴が増えるかもしれない。今日4,000を出したら、明日3,000で同じような店が出ても買えなくなる」
「なるほど」
「銭を持っているだけでは駄目だ。使わずに残すのも商売だ」
その日の最後に見た城外の土地も買わなかった。
家はかなり傷み、畑も田朔が欲しい場所から離れていた。
安い物を探しているからといって、売りに出た物を何でも買うつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
1月5日。
韓敬が手続きを済ませ、最初の家と倉の持ち主に問題がないことを知らせてきた。
田朔は2,500銭を払い、正式に家と倉を手に入れた。
帰りに韓敬へ100銭を入れた袋を渡す。
韓敬は袋を受け取って重さを確かめた。
「俺は不動産屋ではないぞ」
「知っています」
「では毎回持ってくるな」
「いりませんか」
「誰がそう言った」
韓敬は袋を懐へ入れた。
「お前は人が逃げるほど儲かるな」
「逃げる人が安く売るからです」
「そのうち罰が当たるぞ」
「役所の書類をきちんと通しています」
「そういう罰ではない」
「なら分かりません」
韓敬は呆れて笑った。
「今夜、暇か」
「夜ですか」
「妻がお前を1度見てみたいと言っている」
「俺を?」
「塩の話をしたら、19の若造に俺が言い負かされていると思っているらしい」
「言い負かしたつもりはありません」
「分かっている。俺もお前の銭を受け取っているからな」
韓敬は田朔の肩を叩いた。
「飯でも食っていけ。妻は人に食わせるのが好きなんだ」
「では、お邪魔します」
田朔は頭を下げた。
385年1月上旬が終わった。




