第2話(中編)――「河東から来ない塩」
384年12月中旬。
12月11日。
田朔は再び韓敬を訪ねた。今度は陳貴も同席している。
韓敬は塩を大量に扱う際の決まりを、田朔にも分かるように説明した。
「市場で家に使う塩を1袋買うのと、商人が荷車何台分も動かすのは同じではない。大口になれば誰が運び、どこから入り、誰へ売るか役所の帳面に残る」
「俺の名前も載るんですね」
「そうだ。変な塩を持ち込めば、お前だけではなく、通した役人まで疑われる」
「では、今まで河東の塩を扱ってきた商人から買います」
「その方が早い」
「韓さんから紹介していただけますか」
韓敬が笑った。
「そこまで俺にやらせるのか」
「お願いした分はお支払いします」
田朔は300銭を入れた袋を卓へ置いた。
韓敬は袋を見たが、すぐには手を伸ばさなかった。
「陳貴には?」
「別にお渡しします」
「2人へ払えば、お前の取り分が減るぞ」
「2人へ払っても残る商売だけします」
「塩を買う前から、ずいぶん強気だな」
「残らないと分かったらやめます」
韓敬はようやく銭袋を取った。
「いいだろう。会わせてやる」
陳貴が田朔へ目を向けた。
「俺の分まで忘れるなよ」
「忘れません」
「そこだけは信用できる」
「銭を払わなくなったら、陳さんが俺を役所へ入れてくれなくなるでしょう」
「やっぱり人情ではないんだな」
陳貴は呆れながらも、取り分が入るなら不満はなかった。
◇ ◇ ◇
韓敬から紹介された塩商人は、38歳の衛成だった。
衛成は以前から河東と長安を往復し、池塩を長安へ運んでいる。自分の店先で少量ずつ塩を売る商人ではなく、まとまった量を仕入れ、市中の塩屋や大口の客へ卸す商人だった。
田朔が会った時、衛成は道中の遅れで頭を悩ませているらしく、機嫌が悪かった。
「塩を買いたい若者がいると聞いたが、お前か」
「田朔です」
「いくら欲しい」
「衛さんは、今どれくらい動かせますか」
「質問に質問で返すな」
「少ない量なら、別の店から買います。衛さんに会わせていただいた以上、大口の話だと思っています」
衛成は田朔の顔を見た。
「河東に12台分ある」
「長安へ来る予定の塩ですか」
「そうだ」
「では12台分、全部買います」
衛成が笑った。
「韓さんから若いとは聞いていたが、馬鹿とは聞いていなかった」
「値を聞いてから馬鹿かどうか決めてください」
「12台だぞ」
「聞こえています」
「今ここに塩があるわけではない。河東にあるんだ」
「知っています」
「道が荒れている。何日に着くか俺にも分からん」
「それも聞いています」
衛成は田朔の顔を確かめ、冗談ではないと分かると値を示した。
「全部買うなら、この値だ」
田朔はすぐには返事をしなかった。
河東での塩の値だけでなく、運賃、護衛に必要な銭、馬や人夫にかかる費用、現在の長安での相場まで1つずつ確認した。
「高いですね」
「今の長安の値よりは安い」
「今、長安にある塩ならその値でもいい。でも衛さんの塩は河東です」
「俺が運ぶ」
「届かなければ売れません」
「だから安くしている」
「もう少し下げてください」
「無理だ」
「では6台分にします」
衛成の顔が変わった。
「12台全部と言っただろう」
「12台買うつもりなら、この値では買えません。6台なら今払えます」
「残りは?」
「長安へ入った時に俺へ先に売ってください」
「その頃にはもっと上がっているかもしれんぞ」
「ですから、今、値を決めます」
「お前に都合がよすぎる」
「衛さんにも今すぐ銭が入ります」
衛成は返事をしなかった。
田朔は、衛成が河東にある塩を到着前に売ろうとする理由を考えていた。塩が長安へ着けば、今より高く売れる可能性が高い。それでも先に現金を欲しがるなら、道中の費用に困っていると考えるのが自然だった。
「人と馬に払う銭が足りないんですか」
「誰から聞いた」
「誰からも」
「なら勝手なことを言うな」
「銭が足りているなら、塩が長安へ着いてから売った方が高いでしょう。今、河東にある塩を売る理由がありません」
衛成は答えなかった。
田朔は続けた。
「護衛も増やしたい。荷車も押さえたい。道が止まれば宿代も餌代もかかる。だから先に銭が欲しい」
「18のくせに、よく喋るな」
「違っていますか」
「違っていないから腹が立つ」
田朔は笑った。
「では、6台分を今買います。残り6台は長安へ着いた時に、決めた値で俺が先に買う。俺が買わなければ、衛さんはほかへ売って構いません」
「6台分はいくら出す」
「5,400銭」
「安い」
「河東にある塩の値です」
「5,800」
「5,500」
「5,700」
「5,600。それ以上ならやめます」
衛成はかなり迷った末に承知した。
「5,600だ。先に6台分をお前へ売る」
「ありがとうございます」
「ただし、河東を出た後の道中で何かあっても、俺に全部押しつけるな。兵に荷車を取られたら俺にもどうにもならん」
「そこも証文に書きましょう」
田朔は、自分だけに都合のよい曖昧な約束を結ぶつもりはなかった。途中で兵に荷を奪われた場合や、予定より遅れた場合の責任まで書いておかなければ、問題が起きた時に揉める。
証文は郭安に書いてもらい、韓敬にも取引の相手と内容を確認してもらった。
田朔は5,600銭を支払った。
自由に動かせる約10,000銭の半分以上が、一度に河東の塩へ変わった。
◇ ◇ ◇
店へ戻ると、玉蓮が金庫の中を確かめて顔をしかめた。
「本当に5,600も使ったの?」
「ああ」
「全部買うと言っていたでしょう」
「12台全部買うつもりで話した」
「でも買ったのは6台」
「全部欲しいと言わなければ、衛成もあの値まで下げなかった」
「最初から6台だけ欲しいと言えば?」
「小口の客だと思われて終わりだ」
玉蓮は帳面へ5,600銭の支出を書き込んだ。
「残り6台は?」
「長安へ来たら先に買える」
「銭はどうするの?」
「先の6台を売る」
「先に売れなかったら?」
「その時は残りを買わない」
玉蓮は筆を止めた。
「ずるいわね」
「衛成も承知した」
「全部買うと言った人とは思えない」
「全部買いたいことと、全部に今すぐ銭を出すことは別だ」
「それを衛さんにも言ったの?」
「言った」
「それで売る方もよく納得したわね」
「今、銭が欲しいからな」
玉蓮は呆れたが、田朔が10,000銭すべてを1度の取引へ突っ込まなかったことには安心した。
田朔自身も、塩値が必ず上がるとは思っていない。だからこそ、最初の6台を売ってから次へ進める形を残していた。
◇ ◇ ◇
最初の塩車は、12月14日に長安へ着く予定だった。
しかし14日になっても姿を見せず、15日になっても到着しなかった。
田朔は衛成の店へ人を出したが、衛成にも詳しい事情は分からない。
「河東は出たらしい。ただ、途中で道を止められた」
「どこで?」
「そこまでは分からん」
「荷は無事なんですね」
「出た時にはな」
田朔が店へ戻ると、玉蓮が待っていた。
「5,600銭よ」
「分かっている」
「心配じゃないの?」
「心配しても荷車は速くならない」
「随分落ち着いているのね」
「塩が届くまでは、儲かったとも損したとも思わないことにしている」
田朔が落ち着いている間にも、長安の塩値は上がった。
田朔が買い付けた時より2割ほど高くなり、店によっては3割近い値を付け始めている。河東へ行くのを嫌がる商人が増えているため、在庫を持たない塩屋ほど焦っていた。
12月17日の夕方、店先から人足の大きな声が聞こえた。
「旦那様! 塩です!」
田朔は帳場を出た。
泥の付いた荷車3台が、店の前へ入ってくるところだった。馬は汗と泥で汚れ、人足たちの衣も道中の埃をかぶっている。
衛成も一緒だった。
「まず3台だ」
「残りは?」
「後ろにいる。道が混んで別れた」
田朔は塩袋を1つ開かせ、中の塩を指先で確かめた。
少し湿って固まった箇所はあるが、商品として売るには問題ない。
「これなら売れる」
衛成が笑った。
「俺を疑っていたのか」
「5,600払っていますから」
「お前は本当に銭の話しかせんな」
「無事に着いたので、今は衛さんを信用しています」
「残りが来なければ?」
「その時はまた考えます」
玉蓮が帳面を持って出てきた。
「今の値なら、すぐ売ってもかなり儲かるわよ」
「3台全部は売らない」
「どれくらい?」
「1台分だけ売る。残りは倉へ入れろ」
「まだ上がると思う?」
「残りの3台が遅れている。俺の塩だけじゃなく、ほかの塩も遅れているなら上がる」
「全部来たら?」
「今の値で売ればいい」
田朔は1台分だけを市中へ出した。
塩が足りなくなっていた小売商がすぐに買い、田朔の仕入れ値より3割以上高い値が付いた。
数日前まで田朔よりはるかに塩商いに詳しかった商人まで、塩を求めて店へ来た。
「塩を持っているそうだな」
「ございます」
「2袋売れ」
田朔が値を示すと、男が声を上げた。
「高すぎる!」
「今の相場です」
「お前は河東で安く買ったんだろう」
「はい」
「なら、もう少し安く出せ」
「申し訳ありません。その値ではお売りできません」
「若造が人の足元を見るな」
「でしたら、河東まで買いに行かれてはいかがでしょう」
男は返事に詰まった。
田朔は相手を怒鳴り返すこともなく、客へ話す時の口調を崩さなかった。
「今、河東まで行って買ってこられるのでしたら、私から買う必要はございません」
「……1袋だけだ」
「ありがとうございます」
男は結局、田朔の値で1袋を買った。
客が帰ると、玉蓮が田朔を見た。
「随分楽しそうね」
「河東まで行けと言ったら黙った」
「悪い顔をしていたわよ」
「今は俺が塩を持っているからな」
同じ日の夜、衛成から使いが来た。
残り3台は、まだ長安へ着いていないという。
田朔は倉に積んだ塩を見たが、慌てて売り切ることはしなかった。
河東から入る塩の量が戻らない限り、長安の値はまだ上がる可能性がある。逆に塩車がまとまって到着すれば、その時点で売ればよい。
田朔は初めて扱う塩でも、すべてを一度に賭けるやり方はしなかった。
384年12月中旬が終わった。




