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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第二章――「長安崩壊、悪党は儲ける」

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第2話(前編)――「塩は腐らない」

 384年12月上旬。


 前話の収入:約13,500銭

 前話の支出:約9,000銭

 現在動かせる金:約10,000銭


 12月1日の日の出前、田朔(ティエン・シュオ)は白い息を吐きながら、家の裏庭で兵役上がりの男と組み合っていた。


 11月よりさらに冷え込み、踏み固められた土は硬くなっている。霜の降りたところは白く、足を滑らせれば受け身を取っても痛そうだった。


 男が田朔の右腕を取り、身体を引き寄せた。


 田朔は力任せに逃げようとはせず、相手の胸へ肩を入れた。そのまま足を差し込み、教わった通り腰を回す。


 男の身体が傾いた。


 田朔がさらに足へ力を入れると、男の左膝が地面についた。


「取った」


 田朔が言うと、男は立ち上がりながら首を振った。


「膝をつかせただけだ。俺は倒れていない」


「先月は俺が寝転がっていた」


「それと比べれば上達した」


「では、もう1回だ」


「お前は褒めても休まんな」


「倒していないからな」


 2人は再び組み合った。


 今度は田朔が足を払われて地面へ落ちたが、身体についた土を払うとすぐに立ち上がった。


 朝の稽古を始めて2か月になる。兵役を経験した男と互角に戦えるほどではないものの、身体の使い方は確実に変わっていた。以前は腕力だけに頼っていたが、今では足の運びや腰の使い方を意識し、相手の力を外すことも少しずつ覚えている。


 食事も貧しかった頃とは違う。店を持ってからは肉や卵、豆を十分に食えるようになり、長年の荷運びで鍛えた肩や背中にはさらに厚みが加わっていた。


 稽古を終えた田朔は家へ戻って身体を拭き、朝飯を食べてから店へ向かった。


 帳場では、一番番頭の許玉蓮(シュイ・ユーリエン)が11月の帳面を机に広げて待っていた。


「これで全部よ」


 玉蓮は月末の計算を田朔の前へ置いた。


「11月に入った銭が約13,500。仕入れ、給金、役人へ渡した分、家や店で使った分を合わせて約9,000。前からあった銭も合わせれば、今すぐ動かせるのは10,000くらいね」


 田朔は帳面の数字を確かめた。


「10,000か」


「少ないような言い方をしないで。1年前のあなたなら、見たこともない額でしょう」


「1年前どころか、今年の初めには母さんから100借りていた」


「では喜べばいいじゃない」


「喜んでいる」


「そうは見えないわ」


「10,000あれば何ができるか考えているからな」


 玉蓮は呆れた。


「普通の人なら、10,000もあればしばらく安心して暮らせるわよ」


「普通に暮らすために稼いでいるんじゃない」


「やっぱりそう言うと思った」


 玉蓮は別の帳面を開き、ここ数日の仕入れ値を書いた箇所を田朔へ見せた。


「それなら、考える物を1つ増やして」


「何だ」


「塩よ」


 田朔は帳面へ身を寄せた。


「塩がどうした」


「先月より上がっている。まだ大きくはないけれど、ここ数日で値を変えた店が何軒もあるわ」


「どこの塩だ」


「長安へ入ってくる物なら、河東(ホードン)の池塩が多いでしょう」


 田朔は塩を商品として扱ったことがなかった。


 家で食う分を買ったことはあっても、油や麻袋のように大量に仕入れ、倉へ置いて売った経験はない。


「塩そのものが足りないのか」


「そこまでは分からないわ。ただ、河東から来る荷車が減っているとは聞いた」


「誰からだ」


「昨日、油を持ってきた商人よ。東から来たので、道の話をしている時に聞いたの」


 田朔はすぐに店の者を呼んだ。


「昨日の商人はもう帰ったのか」


「今朝まで宿にいるはずです」


「使いを出して、時間があれば寄ってほしいと伝えろ」


「分かりました」


 昼前、その商人が店へ来た。


 田朔は茶を出させ、河東から長安へ通じる道の様子を尋ねた。


「河東の塩車が減っていると聞きました。本当ですか」


「減っていますよ。塩が取れなくなったわけではありません。運ぶ方が面倒になっているんです」


「何が起きているんです」


蒲坂(プーバン)の辺りが落ち着きません。兵が動けば道を止められるし、荷車も徴用を嫌がって迂回します。護衛を増やす商人もいます」


「塩車は通れない?」


「通る時は通ります。ただ、以前のように何日に出れば何日に長安へ着くとは言えませんね」


「荷を出したまま戻ってこない商人もいますか」


「いますよ。途中で何日も待たされれば、人にも馬にも銭がかかります。だったら今は河東へ行かない方がいいと考える者も出ます」


 田朔は、河東から塩を運んでいる商人の名前まで聞いた。相手が知っている範囲で数人の名を教えてくれたので、礼を言って帰した。


 玉蓮は、商人の姿が店先から消えるのを待って尋ねた。


「どうするの?」


「塩を買う」


「あなた、塩商いを知らないでしょう」


「だから調べる」


「麻袋みたいに好きなだけ買って倉へ積めると思っている?」


「違うのか」


「少し売るくらいならともかく、荷車何台分も扱えば役所が見るはずよ。塩は銭になるから、昔から役人がうるさいの」


「なら都合がいい」


「何が?」


「役人なら知っている」


 玉蓮は田朔が誰を頼るつもりなのか察した。


「陳さん?」


「ああ」


「嫌な顔をされるわよ」


「銭を渡せば笑う」


「本当に役人を何だと思っているの」


「銭を払えば仕事をしてくれる相手だ」


 玉蓮は呆れたものの、それ以上は止めなかった。


 田朔は改めて帳面の塩値を見た。


「塩は油みたいに悪くならないな」


「湿らせれば固まるけれど、きちんと置けば長く持つわ」


「毎日食う」


「そうね」


「金持ちだけじゃなく、貧乏人も買う」


「食べなければ困るもの」


「それなのに河東から来る量が減っている」


 田朔は帳面を閉じた。


「やっぱり買う」


「今ので何が変わったの?」


「買う理由が増えた」


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、田朔は陳貴(チェン・グイ)のところへ向かった。


 陳貴は塩の話を聞くなり、面倒そうな顔をした。


「今度は塩か」


「はい」


「お前、何屋になるつもりだ」


「儲かる物を扱う店です」


「塩は麻袋や縄とは違うぞ」


「玉蓮にも言われました」


「大量に動かせば役所へ届けが要るし、誰から買ったかも見られる。勝手に河東へ行って、塩車を何台も連れて帰れると思うな」


「ですから、陳さんへ来ました」


「俺に塩を許す権限なんてない」


「知っています」


「では何をしろと?」


「前に言っていた上役へ会わせてください」


 陳貴は顔をしかめた。


「早速そこへ行くのか」


「陳さんから紹介していただきます」


「俺を飛ばしたら承知しないぞ」


「飛ばしませんよ」


「本当か?」


「陳さんを飛ばしたら、次に別の方を紹介してもらえないでしょう」


 陳貴は田朔の顔をしばらく見た。


「お前は人情というものがないのか」


「陳さんにも取り分は渡します」


「そういう意味じゃない」


「でも受け取るでしょう」


「受け取る」


 陳貴は迷わず答えた。


 田朔は笑った。


 ◇ ◇ ◇


 2日後、田朔は陳貴に連れられて役所の一室へ入った。


 待っていたのは42歳の韓敬(ハン・ジン)だった。


 陳貴より役所内での立場は上で、南門を通る大口の荷や軍へ納める物資の書類にも関わっている。


 韓敬は田朔の姿を上から下まで見た。


「お前が、最近軍へ麻袋や縄を売っている若い商人か」


「田朔と申します。陳さんにはいつもお世話になっております」


「18だそうだな」


「はい」


「18で店を持ち、役所へ品を売り、金まで貸していると聞いた」


「まだ小さな店です」


「小さい店の主人は、陳貴へあれほど銭を渡さん」


 陳貴が横から口を挟んだ。


「韓さん、その話までしましたか」


「お前が自分から話したんだろう」


「そうでしたかね」


 韓敬は陳貴を相手にせず、田朔へ話を戻した。


「それで、俺に何をしてほしい」


「河東の塩を扱いたいと思っています」


 韓敬の表情が変わった。


「塩?」


「はい」


「麻袋や縄で少し儲けたからといって、随分大きな物へ手を出すな」


「大きいから来ました」


「どういう意味だ」


「俺だけで買える物なら、韓さんへお願いする必要がありません」


 韓敬は田朔を見た。


 陳貴が横で笑いをこらえている。


「塩を荷車何台分も扱うなら、勝手にはできんぞ」


「承知しております」


「誰でも好きなだけ河東から運べると思うな」


「ですから、どうすれば扱えるのか教えていただきたいんです」


「教えたら、お前は何をする」


「安いうちに買います」


「それだけか」


「高くなったら売ります」


 韓敬が笑った。


「正直な若造だな」


「嘘をついても、帳面を見られれば分かります」


「お前は本当に塩が上がると思っているのか」


「分かりません」


 韓敬は眉を寄せた。


「分からんのに買うのか」


「河東から来る荷が減っています。塩は毎日売れます。腐りません。それなら、買っておく価値はあります」


「外れたら?」


「俺が損をします」


「役所のせいにはしない?」


「俺が買うと決めるんですから」


 韓敬は椅子へ深く腰を下ろし、しばらく田朔を見ていた。


 18歳の若者が勢いだけで塩へ手を出そうとしているわけではないことは分かったらしい。


「話くらいは聞いてやる」


 田朔は頭を下げた。


 麻袋や油のように、自分の銭だけで自由に仕入れられる商品ではない。役所の目が届く塩を扱うには、これまでとは違う人脈が必要になる。


 田朔はその入口を、陳貴から韓敬へつないでもらった。


 384年12月上旬が終わった。

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