第1話(中編)――「軍より先に動く」
384年11月中旬。
軍の買い付けが始まると、長安では麻袋と縄が急に品薄になった。
普段なら数日かけて売れる量を軍がまとめて買うため、店頭へ並ぶ分まで減り始めたのである。
11月11日の朝、田朔の店にも麻袋を求める客が来た。
「100枚欲しい。まだあるか」
「ございます。ただ、今すぐお渡しできるのは50枚までです」
「銭なら払う。100枚出してくれ」
「申し訳ありません。普段から買ってくださっているお客様の分も残しておりますので、今日は50枚まででお願いいたします」
客は不満そうだったが、結局50枚を買って帰った。
田朔は、値が上がったからといって軍へ在庫を全部出すつもりはなかった。
店を持つ前なら、その日の利益だけを見て全部売ったかもしれない。しかし今は、毎月油や薪、麻袋を買いに来る客がいる。
軍へ売れば一度に儲かる。
その代わり、いつもの客へ「品がない」と言い続ければ、ほかの店へ移られる。
田朔がその話をすると、玉蓮も同意した。
「全部売れば今月はもっと儲かるわ。でも、来月から客が減るでしょうね」
「せっかく取った店を1か月で潰すほど馬鹿じゃない」
「そこまで分かっているなら安心したわ」
「軍へ売る分と、いつもの客へ売る分は最初から分ける。残りはもう少し持つ」
「まだ値が上がると思うの?」
「分からない」
「分からないのに残す?」
「上がるか下がるか分からないからだ。全部売って明日もっと上がっても嫌だし、全部残して下がっても嫌だ」
玉蓮は納得した。
「だから分けるのね」
「ああ。全部を1つへ賭ける必要はない」
◇ ◇ ◇
軍の買い付け所には、朝から商人の荷車が列を作っていた。
油壺を積んだ車、縄を束ねた車、薪を載せた車が門の外まで続いている。
田朔の荷車も列へ加わった。
人足たちにはその場で待たせ、田朔は買い付けを担当する者がいる建物へ向かった。
ほどなく陳貴が姿を見せた。
「田朔の荷を先に見ろ。昨日から話がついている」
すると、近くで順番を待っていた商人が声を上げた。
「俺たちは朝から並んでいるんだぞ!」
陳貴は男へ顔を向けた。
「こいつは昨日のうちに数量を知らせてある。お前も先に話を通しておけばよかっただろう」
「そんな勝手が通るか」
「役所へ文句があるなら、中で聞く」
相手はまだ何か言いたそうだったが、役人と争って商売をしにくくなる方を恐れ、口を閉じた。
田朔はそこで得意になって口を挟まなかった。
陳貴へ銭を渡しているのは、こういう時に先へ通してもらうためである。わざわざ周囲へ見せつけ、恨みまで買う必要はない。
麻袋と縄の数量を確かめられた後、田朔は奥の部屋へ通された。
買い付けを担当する書吏が、田朔の出した値を見て顔をしかめた。
「高いな」
「現在の相場でございます」
「先月はもっと安かった」
「先月でしたら、その値でも集められました」
「軍の買い付けだぞ。もう少し下げろ」
「これだけの量を今すぐ揃えられる店は多くないと思います」
「ほかにも商人は来ている」
「それでしたら、そちらからお買い求めください」
田朔は立ち上がった。
書吏が顔を上げる。
「待て。本当に持って帰るつもりか」
「はい。この値より安くお売りするなら、店で普段のお客様へ売った方がよろしいので」
「役所へ逆らう気か」
「買い付けだと伺っております。もし徴発であれば、命令書を拝見してから従います」
田朔は郭安から字を習い、何度も証文で失敗してきた。
文字も役所のやり方も知らなかった頃なら、「軍が必要としている」と言われただけで、相手の言い値に従ったかもしれない。
今は、買い付けと強制的な徴発が同じではないことくらい分かる。
書吏は不機嫌そうに値札を見直した。
「全部その値では高い。少し下げろ」
「こちらまででしたら下げられます」
田朔は、最初から考えていた最低の値より少し高いところを出した。
しばらく押し引きが続いたが、最後には先月より3割近く高い値でまとまった。
軍は今日、品が必要だった。
田朔は先週、それを安く買っていた。
その違いが、そのまま利益になった。
◇ ◇ ◇
店へ戻ると、玉蓮が売った数量を帳面へ入れた。
「いくらで売れたの?」
田朔が値を言うと、玉蓮は手を止めた。
「そんな値で買ったの?」
「ああ」
「先週、仕入れた時より随分高いわよ」
「向こうは今日必要だ。俺は先週買った。その違いだ」
田朔は倉の在庫を確かめた。
「軍へ出した後でも、まだかなり残っているな」
「あるわ。どうする?」
「半分ほど残す」
「まだ上がると思う?」
「分からない」
「またそれ?」
「分からないから全部は売らない」
玉蓮は帳面へ数字を記しながら笑った。
「意外と大勝負をしないのね」
「梁景成ほど銭がないからな。1回外したくらいで店が傾くような賭けはしない」
「また梁旦那と比べているの?」
「まだあの人の倉1つにも届かない」
「あなた、本当にしつこいわね」
「追いつくまではな」
◇ ◇ ◇
質屋にも、戦の気配が別の形で現れていた。
長安を離れるための旅費を作りたい者や、仕事が減って銭に困る職人、仕入れ代が足りない小商人が以前より増えている。
持ち込まれる物も、衣や鍋だけではなくなった。
11月14日、粗末な衣を着た30歳ほどの男が銀の腕輪を持ってきた。
「これで300銭借りたい」
田朔は品を受け取った。
銀の量もあり、細工も悪くない。普通に売れば400銭ほどにはなる。
だが、目の前の男の身なりには似合わなかった。
「こちらはどなたの物でしょうか」
「妹のだ」
「妹さんのお名前を伺っても?」
男の返事が一瞬遅れた。
「そんなことまで質に関係あるのか」
「ございます。持ち主の分からない品を高くお預かりすることはできません」
「300は無理か」
「80銭でしたらお貸しできます」
「馬鹿にするな。400はするぞ」
「でしたら、400で扱ってくださる店へお持ちください」
「100にしろ」
「80までです」
「せめて90だ」
「申し訳ありません。80です」
男は田朔を睨んだ。
本当に自分や妹の品なら、もっと強く怒ってもおかしくない。
しかし男は周囲へ聞こえるほど声を上げることもなく、最後には80銭を受け取った。
男が店を出ると、玉蓮が腕輪を手に取った。
「盗んだ物かもしれないわね」
「俺もそう思う」
「400くらいはするでしょう」
「だから80にした」
「本当に5分の1にするのね」
「盗品なら、持ち主が見つかった時に取り上げられるかもしれない。普通の質草と同じだけ貸したら、こっちが損をする」
田朔は腕輪へ札を付けた。
「それに、本当に盗んだ男なら『400の品だから300貸せ』と大声で役所へ訴えることもできない」
「弱みまで値段に入れるのね」
「危ない品なら、その分は安くする」
その日の午後には、別の男が馬具を持ってきた。
革も金具もよく、かなり使える品だったが、軍の印がはっきり残っている。
田朔は受け取る前に首を振った。
「こちらはお預かりできません」
「いい品だぞ」
「軍の印があります」
「拾ったんだ」
「それでしたら役所へお届けください」
「50銭でいい」
「いりません」
「安くていいと言っているだろう」
「軍の物を店へ置くつもりはありません」
男は諦めて帰った。
玉蓮が不思議そうに聞いた。
「盗品らしい物でも取るのに、あれは駄目なの?」
「持ち主が個人なら話をつけられることもある。でも軍の印が付いた物を隠していたら、質屋の損では済まない」
「捕まる?」
「下手をすれば店まで取られる。そんな品を50銭で買って何になる」
玉蓮は笑った。
「悪いことにも線を引いているのね」
「儲かるならやる。儲かる前に首を取られることはやらない」
「それなら、少しは安心していいのかしら」
「俺の心配をしているのか」
「店主が捕まったら、この店を誰が持つのよ」
「それだけ?」
「余計なことを聞くなら、仕事に戻るわ」
玉蓮は腕輪を棚の奥へ置き、帳場へ戻った。
◇ ◇ ◇
11月16日の夕方、田朔は店へ来た陳貴と軍の追加注文について話していた。
話が終わりかけたところで、陳貴が愚痴をこぼした。
「今夜は南門で夜番だ。明日の朝まで帰れん」
「それは大変ですね」
「口だけだな」
「酒でも差し入れましょうか」
「それなら歓迎する」
「仕事中でしょう」
「仕事中だから飲みたくなるんだ」
田朔は笑った。
陳貴本人は、その何気ない話が田朔にとって別の意味を持つとは考えていなかった。
その夜、店を閉めてから田朔は玉蓮と翌日の支払いを確認した。
帳面を閉じると、外套を手に取る。
玉蓮が田朔を見た。
「今夜は帰らないの?」
「遅くなる」
「春華さんのところ?」
「ああ」
「まだ続いているのね」
「やめる理由がない」
「あなたならそう言うと思ったわ」
玉蓮は田朔が周春華と関係を持っていることをすでに知っている。
その春華は陳貴の正妻だった。
「陳さんに見つからないでよ。あなた1人が殴られるだけならともかく、店まで巻き込まれたら困るわ」
「今夜は朝まで南門にいる」
「そこまで確かめたの?」
「向こうから話した。俺は聞いただけだ」
「自分が夜番だと教えた男が、その夜に正妻の部屋へ行くとは思わないでしょうね」
「思わない方がいい」
玉蓮は呆れた顔で田朔を見た。
「明日の朝は?」
「稽古へ行く」
「今夜も寝ないつもり?」
「寝る時間はある」
「あなたの『ある』は信用できないのよ」
田朔は笑って店を出た。
◇ ◇ ◇
陳家へ着くと、春華自身が戸口まで出てきた。
田朔を中へ入れる前に、通りへ目をやる。
「今日は本当に主人は戻らない?」
「明日の朝まで南門です」
「あなた、主人から仕事の話を聞いて、そのまま私のところへ来る日を決めているでしょう」
「役所の話を聞くついでです」
「私まで商売のついでみたいに言わないで」
「春華さんは別ですよ」
「それならいいわ」
春華は田朔を部屋へ通した。
田朔が外套を脱ぐと、その肩へ春華の目が止まった。
「前より身体が大きくなっていない?」
「毎朝鍛えていますから」
「前から荷運びで鍛えていたでしょう」
「力はありましたが、喧嘩の仕方を知らなかったので」
「まだ毎朝続けているの?」
「続けています」
「商売であれだけ忙しいのに?」
「店は人を使えます。稽古は人にやらせても俺が強くならないでしょう」
春華は笑った。
「そういうところは妙に真面目ね」
「欲しい物は自分で取りに行きます」
「銭も?」
「はい」
「女も?」
田朔は春華を見た。
「それもです」
春華が田朔の胸を軽く叩いた。
「玉蓮さんのところにも通っているんでしょう」
「はい」
「少しは隠したら?」
「春華さんは知っているでしょう」
「知っているけれど、今夜くらいはほかの女の話をしないで」
「分かりました」
田朔は春華を抱き寄せた。
春華も離れなかった。
その後、部屋の灯火がかなり低くなった頃、春華は寝台の上で田朔の胸へ手を当てた。
「少し休ませて」
「もう寝ますか」
「そういう意味じゃないわ。あなたと同じ調子で付き合っていたら、明日起きられなくなるの」
「嫌ならやめます」
「だから、その聞き方をすると私がやめたがっているみたいでしょう」
「違うんですか」
「嫌ではないけれど、もう少し加減しなさいと言っているの」
春華はそう言いながらも、しばらく休むと自分から田朔の肩へ腕を回した。
「玉蓮さんも大変でしょうね」
「本人に言ってください」
「そんなこと言えるわけないでしょう」
夜明け前になると、田朔は春華より先に起きた。
衣を整えていると、春華が寝台の中から声をかけた。
「もう帰るの?」
「このまま家へ戻って着替えたら、稽古へ行きます」
「昨夜、どのくらい寝たと思っているの?」
「少しは寝ました」
「本当に疲れないのね」
「昼になれば眠くなるかもしれません」
「では稽古を休めばいいでしょう」
「それは別です」
「何でも別にするのね」
田朔は春華へ口づけして部屋を出た。
まだ人通りの少ない道を家へ戻り、汗をかいてもよい衣へ着替える。
いつもの時間には稽古場へ立っていた。
ただし、身体に全く疲れがないわけではなかった。
教える男と組み合うと、いつもより足が半歩遅れ、続けて2度地面へ倒された。
「今日は動きが鈍いぞ」
「分かっている。もう1回だ」
「少し休むか」
「まだできる」
田朔は構え直した。
夜の楽しみを捨てる気はない。
そのために朝の稽古をやめる気もなかった。
両方欲しいなら、両方続けられる身体にすればよいと考えていた。
◇ ◇ ◇
11月18日、軍から追加の注文が入った。
最初の買い付けで在庫をほとんど売り切った商人は、慌てて麻袋や縄を探しに走った。
そのため、値はさらに上がった。
田朔の倉には、最初の注文でも売らずに残した分がある。
玉蓮は在庫を確かめてから尋ねた。
「今度は出す?」
「ああ。ただし、いつもの客へ売る分は残す」
「軍には前より高く売るの?」
「今の相場で売る」
「また文句を言われるわよ」
「買わないなら、ほかへ行ってもらえばいい」
「強くなったわね」
「品を持っている時だけだ。俺に品がなければ頭を下げて買わせてもらう」
田朔は、自分の立場がいつでも強いとは思っていなかった。
相手が急いでいて、自分が品を持っている時には高く売る。
自分が急いでいて、相手しか品を持っていない時には、こちらが譲る。
商売はその繰り返しだった。
384年11月中旬が終わった。




