第1話(前編)――「値上がりの前に買う」
384年11月上旬。
11月1日の日の出前、田朔は家の裏庭で、兵役上がりの男と向かい合っていた。
10月から始めた稽古は、すでに1か月続いている。
田朔は荷運びをしていた頃から、重い荷を担ぎ、荷車を押してきた。肩、腕、腰には人並み以上の力がある。しかし、以前はその力を喧嘩で使う方法を知らなかった。拳を出せば腕だけで振り、掴まれれば力任せに振りほどこうとしたため、喧嘩慣れした杜三たちにはいいように殴られた。
今は足の置き方から習っている。
拳を打つ時には腰を使い、相手へ近づく時には正面から不用意に入らない。掴まれた時にも、ただ後ろへ引くのではなく、相手の力が向いている方を見て身体を動かす。
もっとも、理屈を覚えたからといって、すぐ強くなれるわけではなかった。
「来い」
男に呼ばれ、田朔は左足を前へ出した。
右の拳を相手の顔へ伸ばす。
男は左手で受け、すぐ田朔の右肩を掴んできた。
1か月前なら、ここで腕を引いて逃げようとしていた。田朔は逆に身体を寄せ、教わった通り腰を回して相手の身体を崩そうとした。
男の右足が半歩ずれた。
田朔はそのまま押し込もうとしたが、次の瞬間には自分の足を払われ、土の上へ背中から落ちた。
「今の入り方は悪くない」
男に言われ、田朔は身体についた土を払いながら立ち上がった。
「でも倒せなかった」
「1か月で俺を倒せるようになるなら、今まで払った銭を返してやる」
「そのうち返してもらう」
「そういう口だけは最初から強いな」
田朔は構え直した。
その後も何度か転がされたが、最初の頃ほど簡単には倒されなくなっている。
稽古を終える頃には、11月の冷たい朝だというのに、額から汗が流れていた。
暮らしが豊かになり、食事も変わっていた。以前のように粥で腹を満たすだけではない。肉や豆、卵も食えるようになり、荷運びで作った身体に毎朝の稽古が加わったことで、肩や胸、脚には以前より厚みが出ていた。
田朔は家へ戻って身体を拭き、朝飯を食ってから店へ向かった。
店主になっても、朝の稽古を休むつもりはなかった。
銭が増えれば、守る物も増える。いずれ護衛を雇うにしても、自分自身が何もできないままでいる気はなかった。
◇ ◇ ◇
店へ入ると、一番番頭の許玉蓮が帳場で帳面を開いていた。
「油が予定通り入っていないわ」
田朔は椅子へ座り、玉蓮が指した数字を見た。
「どこの分だ」
「東から来る商人よ。80壺の予定だったのに、昨日届いたのは46壺だけ」
「残り34壺は?」
「道が混んでいて遅れているそうよ」
「雨でも降ったのか」
「そうではないみたい。兵と軍の荷車が増えて、途中で何度も止められたと言っていたわ」
玉蓮は別の帳面も田朔の前へ置いた。
「縄も2日遅れている。麻袋は先月より少し上がったわ。薪はまだ大きく変わっていないけれど、寒くなるから安くはならないでしょうね」
田朔は油だけでなく、縄と麻袋の入荷日まで確かめた。
どれも以前から扱っている品で、どの程度なら倉に置けるかも分かる。
「昨日、油を持ってきた男はまだいるか」
「荷車の車輪を直してから帰ると言っていたから、裏にいると思うわ」
「呼んでくれ」
ほどなくして、油を運んできた男が帳場へ入った。
田朔は店の者に話す時とは口調を変えた。
「お疲れのところ申し訳ありません。道の様子をもう少し教えていただけますか」
「構いませんよ」
「普段より時間がかかったそうですね」
「ええ。東へ向かう兵も多いし、こちらへ戻る兵もいました。軍の荷車が通るたびに商人の荷車は脇へ寄せられますから、以前の倍近くかかりました」
「宿や馬の餌はどうでしたか」
「宿は混んでいました。飼葉も少し高くなっています。それに、東へ行きたがらない商人も増えていますよ」
「油そのものが足りないわけではない?」
「今のところは。ただ、運ぶ者が減れば長安へ入る量は減るでしょうね」
田朔は茶を出させた。
「ありがとうございます。次にこちらへ来られた時も、道の様子を教えていただけると助かります」
「それくらいなら構いません」
男が出ていくと、玉蓮が田朔を見た。
「買い増すつもりでしょう」
「ああ。油と縄、麻袋は増やす。薪も今より多く置く」
「穀物は?」
「手を出さない」
「値上がりするかもしれないわよ」
「するかもしれないが、俺は穀物の保存も買い付けもまだよく知らない。分からない物へ大金を入れる必要はない」
玉蓮は少し笑った。
「欲張りなのに、妙なところで慎重ね」
「欲張りだからだ。欲しい物が多いのに、分からない商売で銭をなくしてどうする」
田朔は現在の在庫と、今月中に支払わなければならない銭を確かめた。
店を手に入れてから、玉蓮に教わりながら毎日帳面を見ている。仕入れへ回せる銭と、給金や支払いのために残しておかなければならない銭の区別もつくようになっていた。
「麻袋は今の在庫の倍まで増やす。縄は5割増しでいい。油は今の値なら買えるだけ買う。ただし、先月より2割以上高くなったら一度止めろ」
「薪は?」
「空いている倉を使う。ただし、ほかの品を置けなくなるほどは買わない」
「分かったわ。荷車はどうするの?」
「4台だけでは足りない。父さんに人を集めてもらう」
長年荷を運んできた田順なら、長安周辺で働く人夫を多く知っている。
以前の田朔は、銭も信用もなかったため、父の名を借りて農家から品を預かった。今は自分の店を持っているが、父が20年以上かけて作った人付き合いまで捨てる理由はなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、田順が声をかけた荷運び人夫6人が家へ集まった。
いずれも田朔が少し前まで一緒に荷車を押していた男たちである。
田朔は、仕入れ先を書いた札を広げた。
「3日ほど頼みたい。うちの荷車を使う者と、自分の荷車を持ってくる者に分かれてもらう。運賃は普段より1割増しで払う」
年上の男が笑った。
「ついこの前まで一緒に荷を担いでいたのに、もう俺たちを雇うのか」
「嫌ならほかを探す」
「誰も嫌とは言っていない。1割増しなら喜んでやる」
別の男が田順へ顔を向けた。
「順さん、息子に雇われる気分はどうだ」
田順は嫌そうな顔をした。
「俺に聞くな。こいつは昔から俺の言うことを聞かん」
「父さんにも同じだけ払うぞ」
「俺まで雇う気か」
「働くなら払う」
「親に給金を払う奴があるか」
「ただで働かせたら、そっちの方が文句を言うだろう」
周囲から笑いが起きた。
田順も最後には苦笑した。
田朔はそれ以上冗談に付き合わず、どこで何を積み、いつまでに店へ戻すかを説明した。
人夫たちを見下す気はなかった。
自分も少し前まで同じ仕事をしていた。
だからこそ、安い運賃で無理に使えば、次から来なくなることも分かっていた。
今必要なのは、3日間で品を集めきることだった。
◇ ◇ ◇
11月3日から、店の倉へ荷が続けて入った。
麻袋を積んだ荷車が来れば、馬福成が数を確かめて倉へ入れる。縄は湿っている物を弾き、油壺は栓の具合まで玉蓮が確認した。
田朔は仕入れ先を回り、値を詰めた。
ある麻袋商は、田朔がまとめて買うと知ると、最初に示した値より高くしようとした。
「この先はもっと上がるぞ。今の値では出せん」
「では買いません」
田朔は席を立った。
「待て。お前は今、品を集めているんだろう」
「集めています。でも高すぎる物まで買うつもりはありません」
「少しくらい上げても売れるはずだ」
「それなら、あなたがその値で売れる相手へお持ちください」
田朔が本当に戸口へ向かうと、男の方が呼び止めた。
「分かった。少しだけ下げる」
「最初に話した値なら、ここにある分を全部買います」
「全部か?」
「はい。今なら全部です」
売り手はしばらく迷ったが、最後には最初の値で応じた。
田朔は無理に安く買おうとしたのではない。
今後も上がると思うなら、売り手には売らない自由がある。田朔にも買わない自由がある。
必要だからといって、それを相手に見せれば値を吊り上げられる。
そこは草鞋を売っていた頃から何度も痛い目を見て覚えてきた。
◇ ◇ ◇
11月5日の夕方、店の裏口から陳貴が入ってきた。
陳貴は倉の前を通り、積み上がった麻袋と縄を見てから帳場へ来た。
「ずいぶん買い込んだな」
田朔は帳面から顔を上げた。
「何が必要になりますか」
「挨拶より先にそれか」
「陳さんが、わざわざ俺の倉を褒めるために来たとは思えません」
「本当に可愛げがないな」
「お客様にはもう少し丁寧ですよ」
「俺は客じゃないのか」
「銭を払ってくださるなら大事なお客様です」
陳貴が笑った。
玉蓮は2人の話が役所絡みだと察し、帳面を持って奥へ移った。
陳貴は田朔へ身体を寄せ、ほかの者に聞こえない声で話した。
「3日後から軍が買い付けを始める」
「何を買いますか」
「麻袋と縄が多い。油もいる。薪も少し出る」
田朔は驚いた顔をしなかった。
「量は分かりますか」
陳貴が、おおよその数を教えた。
田朔は頭の中で、倉に入った量と、まだ入荷予定の分を合わせた。軍の注文全部を賄えるほどではないが、かなりの量を出せる。
「今日決まったんですか」
「ああ」
「買い付けるのは前と同じ方々ですか」
「ほぼ同じだ」
「値はまだ?」
「これからだ」
そこで田朔は笑った。
陳貴が眉を上げた。
「何だ」
「間に合ったと思っただけです」
「何が?」
「今週に入ってから、麻袋と縄と油を買い増していました」
陳貴は倉の方へ顔を向けた。
「お前、軍が買うと知っていたのか」
「知りません。入荷が遅れ、道も悪くなっていると聞いたので、値が上がる前に買っただけです」
「お前は本当に気味が悪いな」
「郭安にも同じことを言われました」
「それなら俺が知らせる必要もなかったじゃないか」
「いいえ。軍が買う日と量が分かっただけで違います。こちらも売る時期を決められますから」
「結局、銭か」
「今回も利益が出たら、約束通り陳さんへお渡しします」
「それを最初に言え」
陳貴は機嫌を直した。
3日後に軍の買い付けが始まれば、ほかの商人も麻袋や縄を探し始める。
その時になってから品を集める者と、すでに倉へ入れている者では、同じ商売にはならない。
田朔は、軍が動くと知る前に買っていた。
陳貴から得た情報は、その品をいつ売るかを教えてくれた。
◇ ◇ ◇
その夜、田朔は店を閉めた後、離れにある玉蓮の部屋へ向かった。
仕入れが続いたため、玉蓮の部屋へ泊まるのは3日ぶりだった。
戸を叩くと、中から返事があった。
「誰?」
「俺だ」
「入って」
田朔が戸を開けると、玉蓮は寝間着姿のまま灯火のそばで帳面を見ていた。
「まだ仕事をしているのか」
「誰かさんが急に倉をいっぱいにしたからよ。明日の支払いまで見ておかないと落ち着かないの」
「明日でもいいだろう」
「明日も荷が来るでしょう」
「来るな」
「他人事みたいに言わないで」
田朔は玉蓮の横へ座り、帳面を覗いた。
数字に問題がないことを確かめると、帳面を閉じた。
「今日はもうやめろ」
「私が決めることよ」
「なら続けるか」
玉蓮は田朔の顔を見てから笑った。
「そのために来たんじゃないでしょう」
「何のためだと思う」
「言わせる気?」
田朔が玉蓮の腰へ腕を回した。
玉蓮はその腕を払わず、代わりに田朔の胸を指先で押した。
「明日も夜明け前から稽古でしょう」
「ああ」
「前に泊まった時だって、ほとんど寝なかったじゃない」
「少しは寝た」
「足りていないのは私の方よ」
「嫌なら今日は寝るか」
「そういう聞き方をするのね」
玉蓮は呆れながらも、田朔の首へ腕を回した。
田朔はそのまま口づけた。
その夜も、田朔が母屋へ戻ることはなかった。
翌朝、外がまだ薄暗いうちに田朔が衣を着始めると、玉蓮が寝台の上で目を開けた。
「本当に稽古へ行くの?」
「毎朝行っているだろう」
「昨夜も随分元気だったのに」
「それと稽古は別だ」
「商売も稽古も女も、全部欲しいのね」
「減らす理由がない」
玉蓮は布団を胸まで引き上げた。
「私は、たまには少し減らしてほしいと思うけれど」
「嫌な時は言え」
「そういうところだけは聞くのね」
「嫌がる女を無理に抱いても面白くない」
玉蓮は枕を投げようとして、結局やめた。
「分かったから、早く行きなさい」
田朔は部屋を出ると、そのまま朝の稽古へ向かった。
睡眠は長くなかったが、身体を動かせば目は覚めた。
夜に女の部屋へ通ったからといって、朝の稽古まで捨てる気はなかった。
◇ ◇ ◇
11月8日。
軍の買い付けが始まった。
その朝には、市場の麻袋と縄の値が目に見えて上がった。
仕入れようとする商人が増え、前日まで品を置いていた店でも、売り惜しみを始めるところが出た。
玉蓮は倉の中を確かめながら言った。
「今回は運もよかったわね」
「運だけなら、今日になってから買いに走っている」
「そうね。あなたは5日前から買っていたものね」
田朔は積み上がった麻袋へ手を置いた。
「高くなったなら、高く売る」
店の外では、軍へ納める品を探して商人たちが走り回っていた。
田朔は走らなくてよかった。
売る品は、すでに自分の倉にあった。
384年11月上旬が終わった。




