第10話(後編)――「一番番頭を抱く」
384年10月下旬。
沈徳昌がいなくなっても、店は止まらなかった。
むしろ誰が何を決めるのかが明確になり、仕事は以前より早く回るようになった。
一番番頭の玉蓮が帳面と支払いを見る。
二番番頭の馬福成が仕入れと人足を動かす。
田朔が売買と金の流れを決める。
大きな客との商談は田朔が行った。
玉蓮が隣で数量と値を確認することもある。
「油を100壺お願いしたいのですが」
客が言う。
田朔は答えた。
「ありがとうございます。100壺でしたら、5日あれば揃えられます」
「値はもう少し下がらないか」
「100壺まとめてでしたら、こちらまで下げられます」
田朔が値を示した。
客が考える。
「もう一声欲しいな」
「それ以上ですと、こちらも利益がほとんど残りません」
「では、その値で頼む」
「ありがとうございます」
客が帰った。
田朔は玉蓮を見る。
「今のでどうだ」
「もう10銭下げても利益は出たわ」
「なら下げればよかった」
「向こうが納得したのに、なぜ下げるの?」
「今、下げてもいいと言っただろう」
「利益が出ると言っただけよ。値切られなかったなら、そのまま取ればいいでしょう」
「分かった」
「本当に素直ね」
「儲かる話なら聞く」
「私の話を聞くのも?」
「儲かるからな」
玉蓮が田朔を睨んだ。
「そこは少しくらい別の言い方をしなさいよ」
「美人だから聞くと言えばいいのか」
「言わなくていい」
田朔が笑う。
玉蓮も笑った。
沈徳昌が店にいた頃とは違う。
2人の間を気にする者も、もういなかった。
◇ ◇ ◇
質屋の方も客が増えていた。
ある日は冬物の衣。
ある日は大工道具。
別の日には銀の耳飾りが持ち込まれた。
田朔は品物ごとに札を付け、貸した額、返す日、利息を書かせた。
期限までに返せなければ質流れになる。
田朔は催促に走り回らなかった。
返さなければ品物が手に入るからだ。
10月23日。
男が女物の簪を持ってきた。
細工のよい銀の簪だった。
玉蓮も手に取った。
「かなりいい物ね」
田朔は客へ尋ねた。
「こちらは、お客様の物ですか」
「ああ。女房のだ」
「200銭でしたらお貸しできます」
「これだけの物で200?」
「質としてお預かりするなら200です」
「400はするぞ」
「それでしたら、売られた方がよろしいと思います」
男は迷った末、200銭を借りて帰った。
玉蓮は男が店を出るのを待ってから言った。
「あの人、妻はいないわよ」
「知っているのか」
「前にこの店へ人足として来たことがあるもの。独り者よ」
田朔は簪を見る。
「では誰のだ」
「知らないわ」
「盗んだか」
「その可能性はあるわね」
「面白いな」
「何が?」
「盗んだ物なら、200しか貸さなくても文句を言いにくい」
玉蓮が田朔を見る。
「まさか、これからも取る気?」
「持ち主が騒いでいる品なら困る。でも、そうでなければ銭になる」
「盗品を扱うの?」
「俺が盗むわけじゃない」
「そういう問題?」
「安く取って高く売れるなら商売だ」
「本当に悪い男ね」
「知っていただろう」
「知っていたつもりだったわ」
田朔は簪を棚の奥へ入れた。
質屋を始めて分かったことがある。
銭に困っている者が、自分から店へ来る。
財産を持っている者も来る。
盗んだ物を銭へ替えたい者まで来る。
以前の田朔は、儲け話を探して長安中を歩いた。
今は違う。
店を構えて待っているだけで、銭に困った人間の方からやって来る。
田朔はそのことを気に入った。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕方。
小さな商人が店へ来た。
男は上等な帯留めを持っていた。
「300ほど借りたいのですが」
田朔は品を確かめた。
「200でしたらお貸しできます」
「250にはなりませんか」
「申し訳ありません。200までです」
「どうしても?」
「はい」
男は考えた末、200を借りた。
銭を受け取る時、ぽつりと言った。
「来月になれば返せるんだ」
「そうですか」
「今月、仕入れが重なってな」
「では期限までにお持ちください」
田朔はそれ以上聞かなかった。
客が帰った後、玉蓮が帳面を見た。
「あの人、南で麻布を売っている人ね」
「知っているのか」
「前に仕入れ先で会ったことがあるわ」
「店を持っている?」
「小さいけれど持っているはずよ」
「倉は?」
「そこまでは知らないわ」
田朔は客の名前を覚えた。
仕入れに困った商人。
銭が足りず、身につけている物まで質へ入れる。
田朔には見覚えのある形だった。
「また悪いことを考えているでしょう」
玉蓮が言った。
「まだ何もしていない」
「その顔は知っているわ」
「次に来たら話を聞く」
「何を?」
「いくら困っているかだ」
「貸すの?」
「条件が合えばな」
玉蓮は呆れた顔をした。
「沈徳昌の次を探しているの?」
「向こうから来たんだ」
田朔は質札を帳面へ挟んだ。
◇ ◇ ◇
10月26日。
店を閉めた後、玉蓮は帳場に残っていた。
明日の仕入れと支払いをまとめている。
田朔も横で金貸しの札を確かめていた。
外では人足たちが最後の荷車を倉へ入れている。
やがて戸が閉まり、店の中から人の声が消えた。
玉蓮が筆を置いた。
「終わったわ」
「俺もだ」
「今日は帰る」
「待て」
玉蓮が田朔を見る。
「何?」
「前に言ったことを覚えているか」
「何を?」
「お前が欲しいと言った」
玉蓮の表情が変わった。
「忘れると思う?」
「なら話が早い」
「夫と別れたばかりよ」
「もう夫じゃない」
「あなたの店から追い出したでしょう」
「追い出すと決めたのは玉蓮だ」
「そうだけど」
田朔は立ち上がった。
「俺は前から欲しかった。沈徳昌が店にいた時からだ」
「それも知っているわ」
「今は邪魔する夫もいない」
「ずいぶん勝手な言い方ね」
「嫌か」
玉蓮はすぐには答えなかった。
「嫌だと言ったら?」
「仕事は変えない。一番番頭もそのままだ」
「本当に?」
「玉蓮が店を回せることと、俺が玉蓮を欲しいことは別だ」
「そういうところだけは、妙にきちんとしているのね」
「嫌なのか」
「何度聞くのよ」
「答えないからだ」
玉蓮は田朔を見る。
田朔は逃げ道を塞ぐつもりはなかった。
だが、自分から諦める気もない。
しばらくして、玉蓮が先に目をそらした。
「離れへ帰るわ」
「俺も行く」
「何で?」
「玉蓮の部屋へ行く」
「勝手に決めないで」
「嫌なら追い返せ」
「本当に厚かましい男ね」
「知っている」
玉蓮は呆れながら店を出た。
田朔も後をついていった。
◇ ◇ ◇
離れの玉蓮の部屋には、小さな灯火が1つともっていた。
以前は隣の部屋に沈徳昌がいた。
今は空いている。
玉蓮は戸口で振り返った。
「本当に入るの?」
「そのために来た」
「少しくらい迷いなさいよ」
「何を迷う」
「私、あなたより6つ年上よ」
「知っている」
「夫と別れたばかり」
「それも知っている」
「元の主人の妻よ」
「元だろう」
玉蓮は返す言葉を失った。
「何を言っても無駄ね」
「嫌なら帰る」
「そう言うと、本当に帰るでしょう」
「帰れと言われたらな」
玉蓮はしばらく田朔を見た。
やがて戸を開いた。
「入れば」
田朔は中へ入った。
玉蓮が戸を閉める。
「これで満足?」
「まだだ」
「欲張りね」
「それも知っているだろう」
田朔は玉蓮の腰へ腕を回し、抱き寄せた。
玉蓮は田朔の胸へ手を置いた。
荷運びを続けてきた胸と肩は固く、朝の稽古を始めてから身体にはさらに張りが出ている。
玉蓮は押し返さなかった。
「主人から家も店も取って、最後は妻まで取るのね」
「玉蓮は物じゃない」
「珍しくまともなことを言うのね」
「自分で俺を選べ」
玉蓮は田朔の顔を見た。
「選ばなければ、今ここに入れていないわ」
田朔は玉蓮へ口づけた。
最初は唇を合わせただけだった。
玉蓮が離れないと分かると、田朔はもう一度抱き寄せた。
今度は玉蓮も田朔の背へ腕を回した。
息を継いだ玉蓮が田朔の胸を押す。
「随分せっかちね」
「ずっと待った」
「1か月も待っていないでしょう」
「俺には長い」
玉蓮は笑った。
田朔はそのまま彼女を抱き締め、首筋へ唇を移した。
玉蓮の息が乱れる。
田朔の手が背から腰へ下がると、玉蓮は一度その手を押さえた。
田朔が止まる。
玉蓮は顔を赤くしたまま田朔を見た。
「止まるの?」
「嫌ならやめる」
「今さら聞くのね」
玉蓮は田朔の手を離した。
田朔は答えを確かめるように、もう一度唇を重ねた。
やがて玉蓮の帯がほどけた。
田朔の上衣も床へ落ちた。
灯火の下で向き合うと、玉蓮は田朔の身体を見て少し驚いた。
「荷運びをしていただけには見えないわね」
「毎日やっていたからな」
「今は朝から殴り合いまでしているものね」
「稽古だ」
「同じようなものじゃない」
玉蓮は笑いながら田朔の胸へ触れた。
今度は田朔が彼女を寝台へ抱き上げた。
「ちょっと、自分で歩けるわ」
「知っている」
「では下ろしなさいよ」
「嫌だ」
「本当に勝手ね」
言葉では文句を言いながら、玉蓮は田朔の首へ腕を回していた。
寝台へ下ろされると、田朔もその横へ身体を寄せた。
衣がさらに解かれ、肌が触れ合う。
玉蓮は最初こそ緊張していたが、田朔が急がずに抱くうちに肩から力が抜けた。
やがて自分から田朔の身体を引き寄せた。
2人はその夜、初めて夫婦のように身体を重ねた。
玉蓮は18歳の田朔を若い男と見ていたが、すぐに考えを改めた。
長年の力仕事で鍛えた身体は強く、田朔は簡単には疲れなかった。
しばらくして玉蓮が寝台へ身体を沈め、乱れた髪を直そうとした時だった。
田朔がまた抱き寄せる。
「まだなの?」
「まだだ」
「明日も朝から稽古でしょう」
「だから何だ」
「本当に18歳?」
「年は関係ないだろう」
玉蓮は呆れたように笑った。
「仕事でも女でも欲張りなのね」
「玉蓮が嫌ならやめる」
「そこで急に聞き分けがよくなるのね」
玉蓮は田朔の頬へ触れた。
「嫌だとは言っていないわ」
今度は玉蓮の方から口づけた。
灯火が小さくなるまで、2人が眠ることはなかった。
その夜、田朔は玉蓮の部屋から母屋へ戻らなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
まだ外が薄暗いうちに田朔は目を覚ました。
隣では玉蓮が眠っている。
衣は寝台の脇へ散らばり、昨夜の灯火はほとんど燃え尽きていた。
田朔が衣を拾って着始めると、玉蓮が目を開けた。
「もう行くの?」
「稽古だ」
「こんな朝から?」
「毎日だ」
「昨夜あれだけ元気だったのに?」
「関係ない」
玉蓮は田朔を見て、呆れたように笑った。
「あなた、本当に疲れないのね」
「眠っただろう」
「少しだけね」
「十分だ」
「私は十分じゃないわよ」
玉蓮は布団を胸元まで引き上げた。
「商売だけでなく、そんなことまで人並み以上なのね」
「褒めているのか」
「少し呆れているの」
田朔は帯を締めた。
「店にはいつも通り来い」
「一番番頭に命令?」
「そうだ」
「昨夜一緒に寝た女にも?」
「店では一番番頭だ」
玉蓮は少し田朔を見たあと笑った。
「分かったわ、旦那様」
田朔の手が止まった。
「何よ」
「初めてそう呼んだな」
「店では皆そう呼んでいるでしょう」
「今は店じゃない」
玉蓮は枕を田朔へ投げた。
「早く行きなさい」
田朔は枕を受け止め、寝台へ戻した。
「今夜も来る」
「勝手に決めないで」
「嫌か」
玉蓮は布団へ顔を半分隠した。
「仕事が終わってからにしなさい」
「分かった」
田朔は笑って部屋を出た。
外の空気は冷えていた。
東の空が明るくなり始めている。
母屋には父と母がいる。
離れには、一番番頭になった玉蓮がいる。
店へ行けば馬福成以下の従業員が働く。
倉には商品がある。
荷車が4台ある。
店の奥では金を貸し、質を取る商売まで始まった。
そして、銭に困った人間は田朔が探しに行かなくても、自分から店へ来るようになった。
1月には100銭を母から借りて草鞋を買った。
10月には、自分の店で人へ銭を貸し、返せなければ品物を取っている。
30歳の商人から店も家も奪った。
その商人は店の銭を盗んで追放された。
妻だった玉蓮は田朔の一番番頭となり、今では田朔の女にもなった。
それでも田朔が見ている先は変わらなかった。
梁景成である。
店1軒を手に入れた程度では、まだ比べるところまで届かない。
田朔は朝の道を稽古場へ向かった。
384年10月が終わった。




