第10話(中編)――「店の銭を盗む男」
384年10月中旬。
田朔が店を手に入れて半月ほどが過ぎた。
朝の稽古は続いていた。
拳を出す時に腰を使うことも、相手に掴まれた時に力だけで引かないことも少しずつ覚えた。
まだ喧嘩慣れした男に必ず勝てるほどではない。
それでも最初の頃のように、簡単に地面へ転がされる回数は減った。
稽古が終われば店へ向かう。
店では玉蓮が帳面を広げて待っていることが多くなった。
「昨日の売上」
玉蓮が帳面を出す。
「油が620銭。麻袋が310。縄が180。薪が240」
「質屋は?」
「貸したのが170。返ってきたのが80。利息が12」
「金貸しの方は?」
「今日返す人が2人いる」
「分かった」
「それから明日、油商へ460払う」
「銭は足りるか」
「十分あるわ」
田朔は帳面を見る。
「仕入れを増やしても大丈夫だな」
「油は増やしていい。でも薪はまだ早いわ」
「なぜだ」
「もう少し寒くなってから動く。今積みすぎると倉を使うだけよ」
「分かった。油だけ増やす」
田朔は判断を玉蓮へ丸投げしているわけではなかった。
理由を聞く。
自分でも帳面を見る。
納得すれば決める。
納得できなければ、さらに聞く。
玉蓮は同じ説明を何度もしなくてよかった。
一度教えれば、田朔は覚えた。
「あなた、本当に店をやったことがなかったの?」
「ない」
「嘘みたい」
「分からないから毎日聞いているだろう」
「聞いた後よ。普通はこんなに早く覚えないわ」
「覚えない奴は損をする」
「また銭なのね」
「ほかに何がある」
玉蓮は笑った。
以前より2人で話す時間が増えていた。
沈徳昌は、それを面白く思っていなかった。
◇ ◇ ◇
10月14日。
沈徳昌は古くから取引している陸家へ代金を受け取りに行った。
陸家は以前から油、薪、麻袋をまとめて買う客だった。
帳面では1,800銭の未収金がある。
昼過ぎ、沈徳昌が戻った。
「陸家から300受け取った」
沈徳昌は銭袋を帳場へ置いた。
玉蓮が帳面へ記した。
「残り1,500は?」
「月末まで待ってくれと言われた」
「陸家が?」
「商売が少し苦しいらしい」
玉蓮は夫を見る。
「今まで遅れたことはなかったのに」
「今回は仕方ない」
田朔は横で聞いていた。
「次から現金で売れ」
「長い客だぞ」
沈徳昌が言った。
「払えない客に長いも短いもない。次は現金だ」
「それでは客を失う」
「1,800払えない客へ、さらに売ってどうする」
沈徳昌は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
田朔も、この時は特に疑わなかった。
その2日後だった。
陸家の手代が店へ来た。
「旦那様はいらっしゃいますか」
田朔が帳場から出た。
「私が主人です。何かございましたか」
男が少し戸惑う。
以前の主人が沈徳昌だったことを知っているのだ。
「この前、沈旦那へお支払いした件ですが」
「はい」
「受取の札に店の印がありませんでした。こちらの主人が、後で揉めてはいけないから店の印をいただいてこいと」
田朔の表情が変わった。
「お支払いいただいた額はいくらでしたか」
「1,800銭です」
「全部ですか」
「はい。残りはございません」
田朔は玉蓮を見る。
玉蓮も手を止めていた。
「その札を見せていただけますか」
「もちろんです」
手代が札を出した。
田朔は受け取り、玉蓮へ渡した。
そこには、陸家から1,800銭を受け取ったことが書かれていた。
受取人は沈徳昌。
書いた字も印も残っている。
玉蓮は札を持ったまま、しばらく動かなかった。
「主人の字だわ」
田朔は手代へ向き直った。
「確認できました。こちらで店の印を入れます。お手数をおかけしました」
「では、よろしくお願いします」
「今後のお支払いは、店の帳場へ直接お願いいたします」
「分かりました」
手代が帰った。
店の中には、油と麻の匂いが漂っていた。
表では客と店の者が値段を話し、人足が荷を運んでいる。
帳場では、玉蓮がまだ夫の書いた札を見ていた。
田朔は帳面を開いた。
「300しか入っていない」
「私が受け取ったのも300よ」
「1,500抜いたな」
玉蓮は札と帳面を並べた。
数字は明らかだった。
「間違いないわ」
「ほかにもあるかもしれない」
「調べる」
玉蓮はすぐ別の帳面を出した。
沈徳昌がこの半月に回収した代金を1件ずつ確かめる。
今回以外に大きな差は見つからなかった。
だからこそ、1,800と300の違いがはっきりした。
「1,500銭」
玉蓮が夫の書いた札を卓へ置いた。
「小遣いに抜いた額ではないな」
田朔が言った。
「これだけあれば、別の町で小さな商売を始められるわ」
「そのつもりだったんだろう」
玉蓮の顔から、先ほどまでの驚きが消えていた。
代わりに怒りが出ていた。
「私には何も言わずに?」
「本人に聞けば分かる」
田朔は帳場の男へ言った。
「沈徳昌を呼んでこい」
「どちらに?」
「倉だ。さっき荷を見に行った」
「分かりました」
男が走っていった。
田朔は玉蓮を見る。
「どうする」
「まず本人に聞くわ」
「俺も聞く。俺の店の銭だからな」
「分かっている」
◇ ◇ ◇
沈徳昌が戻ってきた。
「何だ」
田朔は陸家の札を卓へ置いた。
「これを見ろ」
沈徳昌は札を見た途端、顔を強張らせた。
玉蓮が夫を見る。
「陸家から1,800受け取ったのね」
「それは」
「帳場には300しか入っていない」
「事情がある」
「どんな事情?」
「俺が使う予定だった」
「何に?」
沈徳昌は答えなかった。
玉蓮は夫から目をそらさない。
「1,500銭よ。何に使うつもりだったの」
「ここを出るためだ」
沈徳昌が吐き出すように言った。
「いつまであの若造の下で働けと言うんだ。俺が30になるまでかかって作った店だぞ。それを全部取られて、今度はそいつの使い走りだ」
田朔が口を挟む。
「だから店の銭を盗んだのか」
「元は俺の店だ!」
「今は俺の店だ」
「お前が騙し取ったんだろう!」
「証文に印を押したのはお前だ」
「役所の支払いを遅らせた!」
「証拠があるのか」
沈徳昌は言葉に詰まった。
玉蓮が言った。
「そんな話は今していないわ」
「玉蓮」
「1,500銭を店から盗んだのかと聞いているの」
「盗んだんじゃない。元は俺が作った客から入った銭だ」
「だから?」
「少しくらい俺が持って何が悪い」
玉蓮の顔から迷いが消えた。
「少しくらい?」
「俺が何年この店を」
「1,500銭を少しと言うの?」
「玉蓮、お前まであいつの側につくのか」
「誰の側かという話ではないわ」
玉蓮は帳面を夫の前へ押し出した。
「これは店の銭よ。今の店主は田朔。あなたは店から給金をもらって働いている。客から受け取った1,800のうち1,500を自分の懐へ入れた。それを盗んだと言うのよ」
「俺はお前の亭主だぞ」
「それが何?」
沈徳昌の口が止まった。
玉蓮は夫を見た。
「私は借金を増やすなと言った。店を縮めろとも言った。家を売ってでも返せと言った。それを全部聞かなかったのはあなたでしょう」
「今さら何を」
「それでも、店を失った後は一緒に働こうと思っていたわ」
「なら」
「でも泥棒と一緒には働けない」
沈徳昌の顔が強張った。
玉蓮ははっきり言った。
「泥棒を店には置いておけない。解雇すると同時に貴方とは別れるわ」
「玉蓮!」
「もう決めた」
「お前まで俺を捨てるのか!」
「私が捨てるんじゃない。あなたが自分で全部なくしたのよ」
沈徳昌が田朔を見る。
「お前が言わせたのか」
「俺は何も言っていない」
「嘘をつけ!」
田朔は卓の上の札を指した。
「1,500を返せ」
「何?」
「店の銭だ。返せ」
「俺には」
「離れに隠してあるんだろう」
沈徳昌が黙った。
田朔はその顔を見て確信した。
「持ってこい。今すぐだ」
沈徳昌は玉蓮を見た。
玉蓮は夫を見返したが、助けようとはしなかった。
やがて沈徳昌は離れへ向かった。
しばらくして布袋を持って戻り、卓へ置いた。
田朔が中身を数えた。
1,500銭。
全部あった。
「これでいいだろう」
「ああ」
「なら俺は」
「今日で終わりだ」
田朔は銭袋を帳場へ渡した。
「店から出ろ。自分の衣類と身の回りの物だけ持っていけ。この家も離れも俺の物だ」
「お前」
「聞こえなかったか」
沈徳昌は拳を握った。
田朔も立った。
朝の稽古を始めてまだ日が浅い。沈徳昌が殴りかかってくれば、確実に勝てるとは言えなかった。
それでも田朔は下がらなかった。
「殴るならやれ。店の者が見ている」
店の奥では、馬福成をはじめ何人もの従業員がこちらを見ていた。
沈徳昌は拳を握ったまま田朔を睨んだ。
だが、殴らなかった。
最後に玉蓮を見る。
「本当に来ないのか」
「行かない」
「俺はお前の夫だぞ」
「今まではね」
沈徳昌の顔が歪んだ。
何も言わず店を出た。
夕方までに自分の衣類をまとめ、長年暮らした家からも出ていった。
玉蓮は見送りに出なかった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
田朔は店の者を集めた。
馬福成をはじめ、帳場、人足、仕入れ担当まで、その場にいる者が土間へ集まった。
玉蓮も立っている。
田朔は余計な説明をしなかった。
「沈徳昌は昨日で辞めた」
従業員たちは事情をある程度知っていた。
「今日から玉蓮を一番番頭にする」
何人かが玉蓮を見る。
玉蓮自身も驚いた。
「私?」
「そうだ」
「待って。福成さんが番頭でしょう」
「福成は二番番頭だ」
馬福成が田朔を見る。
「旦那様、私は構いません。奥方様は、以前から帳場も仕入れも私以上に見ておられました」
「もう奥方様ではないわ」
玉蓮が言った。
馬福成は言葉に詰まった。
田朔が続ける。
「呼び方は好きにしろ。店の話だ。今日から帳面、仕入れ、支払い、人の配置は玉蓮が先に見る。福成は二番番頭として店と倉を回せ」
「承知しました」
馬福成が答えた。
田朔は玉蓮を見る。
「できるな」
「急すぎるわ」
「できないのか」
「できるけれど」
「なら決まりだ」
「あなた、本当に勝手ね」
「店主だからな」
玉蓮は呆れた顔をした。
だが断らなかった。
その日から、24歳の許玉蓮が田朔の店の一番番頭になった。
46歳の馬福成は二番番頭となり、その下で店と倉を動かした。
店を築いた沈徳昌は追い出された。
その妻だった玉蓮が、今度は店を動かす中心に立った。
384年10月中旬が終わった。




