第10話(前編)――「初めて持った店」
384年10月上旬。
10月1日。
田朔は、父の田順と母を連れ、長安城外の粗末な借家から新しい家へ移った。
9月末まで沈徳昌と妻の許玉蓮が暮らしていた家である。
通りに面して門があり、その内側に母屋、離れ、炊事場、物置が並ぶ。裏庭まで含めれば、以前の田家が借りていた家が何軒も入りそうな広さだった。
田順は荷物を置く前から庭を見回した。
「本当にここへ住むのか」
「俺の家だからな」
「先月まで住んでいた人間はどうした」
「離れだ」
沈徳昌と玉蓮は、その日の朝までに母屋から離れへ移っていた。住み込みの帳場係や人足も、離れの空いている部屋を使うことになった。
母は母屋へ入るなり、広い板敷きの部屋で足を止めた。
「掃除だけでも大変そうだね」
「人を使えばいい」
田朔が答えると、田順が顔をしかめた。
「もう自分で掃除もしないのか」
「俺が掃除をしている間に、店でいくら儲けられると思う」
「お前は本当に何でも銭だな」
「今さらだろう」
田順は言い返さず、自分たちの荷物を運び始めた。
田家が持ってきた物は少なかった。
衣類、寝具、鍋、椀、それに長年使ってきた荷車である。
大きな母屋へ運び込むと、かえって貧しかった頃の暮らしが目立った。
田朔は気にしなかった。
必要な物はこれから買えばよい。
1月には、自分の荷車1台すら持っていなかった。
今は家だけではない。店、倉、土地、荷車4台、商品、従業員まで持っている。
問題は、それらをどう動かせば最も銭が増えるかだった。
◇ ◇ ◇
暮らしが変わると、田朔の朝も変わった。
もう日の出前から父の荷車を押して長安へ向かう必要はない。
その代わり、田朔は夜明け前に起きるようになった。
近くで拳や蹴り、組み討ちを教えている兵役上がりの男へ銭を払い、毎朝稽古を始めたのである。
荷運びを続けてきた田朔の肩、腕、腰には、もともと力があった。重い荷を担ぎ、荷車を押してきたため、身体は自然に鍛えられている。
だが、喧嘩の技は知らなかった。
杜三たちに何度も殴られた時も、相手が3人だったこと以上に、喧嘩慣れしているかどうかの差が大きかった。
拳を出せば腕だけで振る。
掴まれれば力任せに外そうとする。
足の運びも知らない。
最初の朝、田朔は何度も地面へ転がされた。
土の冷たさが背中へ伝わる。
立ち上がってまた向かうと、今度は足を払われた。
「力はある。使い方が悪い」
教える男に言われ、田朔は衣についた土を払った。
「何日で強くなる」
「そんなことを聞く奴ほど長くかかる」
「銭を払っているんだ。早く覚えたい」
「なら毎朝来い」
「来る」
それから田朔は、夜明け前から半刻ほど拳と蹴り、組み討ちを続けた。
稽古を終える頃には汗で衣が背へ張りつく。
家へ戻って体を拭き、粥と野菜、干し肉を食う。
その後は店だった。
以前は夕方まで荷を運びながら商売をしていた。
今は違う。
自分で重い油壺を担ぐ必要も、荷車を押す必要もない。
27人いる従業員へやらせればよかった。
その代わり、田朔には覚えなければならないことが山ほどあった。
◇ ◇ ◇
10月3日。
朝から店には油壺が運び込まれていた。
田朔は帳場に座り、玉蓮が広げた帳面を見ていた。
「昨日入った油が40壺。今日が30壺。合わせて70だ」
「そう」
「売れたのが18。役所へ回すのが20」
「残りは?」
「32だ」
「そのうち12壺は、前から残っている油と入れ替えた方がいいわ」
「なぜだ」
「古い方から売らないと、いつまでも倉に残るでしょう」
田朔は帳面から顔を上げた。
「油なんて同じじゃないのか」
「違うわ。長く置けば匂いも変わる。壺の栓が悪ければ減ることもある」
「分かった。古い方から出せ」
田朔は近くにいた帳場の男へ言った。
「古い油に印を付けろ。今日から先に出せ」
「はい」
「それから昨日の縄を数え直せ。札と数が合っていない」
「分かりました」
男が帳場を離れた。
玉蓮が田朔を見る。
「人を使うのはもう慣れたみたいね」
「荷運びをやらせるのに、いちいち頼んでいたら日が暮れる」
「お客様には随分違う顔をするけれど」
「当たり前だろう」
ちょうど店へ中年の男が入ってきた。
田朔は立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
「麻袋を50枚欲しい」
「50枚ですね。大きさは前と同じ物でよろしいですか」
「ああ。明日の朝までに揃うか」
「揃えます。お届けもできますが、いかがしますか」
「荷車で頼む」
「分かりました。明日の朝、店を出します」
客が帰ると、田朔は帳場へ戻った。
玉蓮が笑った。
「別人みたい」
「客に嫌われて銭が増えるなら嫌われる。でも減るなら丁寧に話す」
「そこまで考えているのね」
「郭安に習った」
「何を?」
「客と役人には、口の利き方で損をするなって」
「いい先生ね」
「字を習いに行ったのに、余計なことばかり教えられた」
「その余計なことが役に立っているじゃない」
田朔は帳面へ目を戻した。
「次は何を覚えればいい」
「掛け売り」
「客に銭を貸すのか」
「少し違うわ。毎月買ってくれる相手なら、そのたびに現金を取らず、月末にまとめて払ってもらうことがあるの」
「払わなかったら?」
「だから相手を見るのよ」
「誰なら信用できる」
玉蓮は別の帳面を開いた。
「ここに書いてあるわ」
田朔は身を寄せた。
店を奪うことはできた。
だが、その店を回す方法は知らない。
田朔はそのことを恥じなかった。
知らないなら覚えればよい。
玉蓮は、田朔が思っていた以上に商売を知っていた。
仕入れ先の支払日。
値引きしてよい客。
掛け売りをしてはいけない客。
油を多く買う時期。
薪が値上がりしやすい時期。
荷車を遊ばせない組み方。
田朔は毎日聞いた。
そして一度聞いたことをほとんど忘れなかった。
玉蓮も次第に、教えることを面白がるようになった。
◇ ◇ ◇
店の仕事だけで1日が終わるわけではなかった。
田朔は金貸しも続けた。
以前の田朔なら、担保を持たない貧しい者には大きな銭を貸せなかった。
今は店がある。
品物を置いていかせればよい。
10月5日。
田朔は店の奥の一角を空けた。
棚を置き、木札を用意する。
馬福成が聞いた。
「旦那様、ここは何に使うので?」
「質を取る」
「質?」
「銭が欲しい奴から物を預かって貸す。返せなければ品物をもらう」
玉蓮が棚を見る。
「衣や道具も?」
「売れる物なら何でもいい」
「誰が値を決めるの」
「俺と玉蓮で見る。分からない物は福成にも聞く」
その日の午後、最初の客が来た。
40歳ほどの職人だった。
風呂敷から銅の鍋を出した。
「これで50銭貸してもらえませんか」
田朔は鍋を裏返した。
傷はあるが、穴は空いていない。
玉蓮にも見せる。
玉蓮が首を振った。
「50は無理ね」
田朔は客へ向き直った。
「30銭ならお貸しできます」
「これなら70はする鍋です」
「売る値と、質に取る値は違います。30銭です」
「40では?」
「30までです」
男はしばらく迷った。
「いつまでに返せばいい」
田朔は期限と利息を説明した。
男は最後に承知した。
田朔は30銭を渡し、鍋へ木札を付けた。
客が帰ると、玉蓮が言った。
「随分安く取るのね」
「返せなかったら俺が売るんだ。70で売れる物に50も貸す必要はない」
「30で取って70で売るの?」
「返さなければな」
「悪い顔をしているわよ」
「商売の顔だ」
「同じでしょう」
田朔は笑った。
数日すると、質屋を始めた話が広がった。
衣、鍋、農具、工具、帯飾り、小さな装身具まで、様々な物が持ち込まれるようになった。
田朔は品を安く見積もり、その値打ちの一部だけを貸した。
返せば利息が入る。
返さなければ品物が残る。
田朔には、どちらでもよかった。
◇ ◇ ◇
10月9日。
夕方。
店を閉める前に、田朔は帳場の銭を数えていた。
沈徳昌が外から戻ってきた。
「西の趙家から注文を取ってきた」
「いくらだ」
「油30壺と麻袋80枚だ」
「支払いは?」
「半分を納品時。残りは月末」
「玉蓮、趙家は掛けても大丈夫か」
「今まで遅れたことはないわ」
「なら受けろ」
沈徳昌の顔がわずかに歪んだ。
「俺が取ってきた客だぞ」
「だから何だ」
「俺に聞かずに玉蓮へ聞くのか」
「金を払うかどうかは玉蓮の方が知っている」
「俺がこの店を何年やったと思っている」
「今の主人は俺だ」
店に残っていた従業員たちの手が止まった。
田朔は沈徳昌を見た。
「客を取ってくる仕事は任せている。帳面と支払いは玉蓮にも見せる。それだけだ」
「18の若造が」
「その18の若造から給金をもらっているのは誰だ」
沈徳昌は何も言わなかった。
「明日は北の客を回れ。福成から札を受け取っておけ」
田朔はそれだけ言い、また銭を数え始めた。
沈徳昌はしばらく立っていたが、やがて店の奥へ消えた。
玉蓮が夫の背中を見る。
「前より機嫌が悪くなっているわ」
「俺には関係ない」
「あなたが家も店も取ったからでしょう」
「借りた銭を返さなかったのは沈徳昌だ」
「分かっているわ」
玉蓮は帳面を閉じた。
「だから余計に腹が立つんでしょうね。自分で失ったと分かっているから」
田朔は沈徳昌が消えた戸口を見る。
「働くなら使う。働かないならいらない」
それだけだった。
384年10月上旬が終わった。




