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長安の悪党、乱世を喰らう  作者: ひまえび
第一章――「梁家の門」

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第9話(後編)――「店も家も取る」

 384年9月下旬。


 9月24日。


 沈徳昌(シェン・ドーチャン)は朝から役所へ人を走らせた。


 昼前に戻ってきた男は銭を持っていなかった。


「まだ検めが終わっていないそうです」


「いつ終わる」


「分からないと」


「誰に聞いた」


「帳場の書吏です」


「もう一度行け」


 男が店を出る。


 番頭の馬福成(マー・フーチョン)が帳場から来た。


「旦那様。田朔さんへの返済は29日になりましたな」


「あと5日ある」


「ほかから銭を用意しておいた方がよろしいのでは」


「5200入るのに、また高い利息を払うのか」


「万一を考えた方がよろしいかと」


「29日までに出ればいい」


 妻の許玉蓮(シュイ・ユーリエン)が奥から出てきた。


「まだそんなことを言っているの?」


「あと5日ある」


「5日前にも同じことを言ったわ」


「ではどうしろと言う」


「倉でも家でも、今のうちに一部を売るのよ。安くなってもいい。3900を作って田朔さんへ返す」


「5日でまともな値で売れると思うか」


「まともな値で売る必要なんてないでしょう。全部取られるよりましよ」


 沈徳昌は答えなかった。


「あなた。私は最初から止めたわ」


「今さら言ってどうなる」


「今だから言っているのよ」


 玉蓮は帳面を開いた。


「店に残っている商品を安く出す。古い荷車も売る。家を抵当に入れて別から借りる。それでも足りなければ倉の一部を売る。今ならまだ選べるでしょう」


「全部安く買い叩かれる」


「だから何?」


 玉蓮は夫を見る。


「田朔さんに全部取られるよりは残るわ」


 沈徳昌は帳面を閉じた。


「役所の銭が出れば、そんなことをしなくて済む」


 玉蓮は夫をしばらく見た。


「もう好きにして」


 その日の午後も、役所から銭は出なかった。


 ◇ ◇ ◇


 9月26日。


 沈徳昌は田家を訪ねた。


 以前とは立場が逆になっていた。


 田朔の家は相変わらず粗末だ。


 沈徳昌は入口で周囲を見た。


「ここに住んでいるのか」


「そうです」


「3400も貸す男の家には見えないな」


「家を買うより、沈旦那へ貸した方が得だと思いました」


 沈徳昌は笑えなかった。


「相談がある」


「何でしょう」


「返済を5日延ばせ」


「嫌です」


「まだ条件も言っていない」


「延ばしてほしいんでしょう」


「役所の支払いが遅れている。29日には間に合わないかもしれん」


「証文には29日と書いてあります」


「分かっている」


「では返してください」


「だから銭がない」


「ほかから借りればいいでしょう」


「3900だぞ」


「店を売る。倉を売る。家を売る。商品を安く出す。方法はいくらでもあります」


 沈徳昌が田朔を睨む。


「お前、それを分かって言っているな」


「何をです」


「あと3日で売れば、足元を見られる」


「俺も沈旦那の足元を見ました」


 沈徳昌の顔が変わった。


「最初からこれが狙いだったのか」


「最初は倉と土地だけでした」


「何?」


「沈旦那が900借りたから店が増えた。さらに700借りたから家、荷車、商品、役所の未収金まで増えました」


「全部お前が条件に入れたんだろう!」


「嫌なら借りなければよかったでしょう」


「役所から銭が出ると思ったから借りた!」


「そう思ったのは沈旦那です」


「お前はどう思っていた」


 田朔は答えなかった。


 沈徳昌が一歩前へ出る。


「知っていたのか」


「何をです」


「役所の支払いが遅れることをだ」


「役所が遅れることは珍しくありません」


「俺の銭が遅れると知っていたのか!」


 奥から田順が出てきた。


「何をしている」


 沈徳昌が足を止める。


 田朔が父を見る。


「商売の話だ」


「商売で殴り合いになるのか」


「俺は手を出していない」


 沈徳昌は田朔を睨んだ。


「29日にまた来る」


「3900持ってきてください」


 沈徳昌は返事をせず、田家を出た。


 田順が息子を見る。


「何をした」


「銭を貸した」


「いくら」


「3400」


 田順の顔が変わった。


「お前、4000ほどしか持っていなかっただろう」


「だからほとんど貸した」


「馬鹿か!」


「返せなければ、それ以上の物が入る」


「何を担保にした」


「店、倉、家。それぞれの土地。荷車4台、商品、役所から入る銭」


 田順は息子の顔を見た。


「相手は返せるのか」


「本人は返せると思っています」


「お前は?」


「29日になれば分かる」


「そういう顔をしている時のお前は嫌だな」


「父さんはいつも嫌がっているだろう」


「今回は特にだ」


 ◇ ◇ ◇


 9月28日。


 田朔は陳貴と会った。


「沈徳昌の書類はどうです」


「まだ後ろだ」


「明日は?」


「出ない」


「30日は」


「俺が手を離せば進む」


「では30日に進めてください」


 陳貴が呆れた顔をした。


「本当に1日違いで全部取るのか」


「期限は29日です」


「恨まれるぞ」


「好かれるために銭を貸したわけではありません」


「俺まで恨まれるのは嫌だぞ」


「200銭受け取ったでしょう」


「こういう時だけよく覚えているな」


「銭のことは忘れません」


 陳貴は杯を空にした。


「明日はどうする」


「店へ行きます」


「用心しろ。従業員が大勢いるんだろう」


「だから陳さんにも来てもらいます」


「俺が?」


「証文があります。争いになった時に陳さんがいれば、向こうも簡単には騒げません」


「また俺を使うのか」


「今さらでしょう」


「あと100」


「50」


「100」


「全部終わったら100」


「先に寄こせ」


「50だけです」


 陳貴は田朔を見る。


「お前、誰に似たんだ」


「陳さんではありませんか」


「俺はそこまで悪くない」


 田朔は笑った。


 ◇ ◇ ◇


 9月29日。


 朝から空は曇っていた。


 田朔は証文を懐へ入れ、陳貴、郭安、証人2人とともに沈徳昌の店へ向かった。


 店は開いていた。


 人足が麻袋を下ろし、帳場では馬福成が朝の札を確かめている。


 田朔たちを見ると、馬福成の顔がこわばった。


「旦那様を呼びます」


 沈徳昌が奥から出てきた。


 玉蓮も一緒だった。


「銭は?」


 田朔が尋ねた。


 沈徳昌は答えなかった。


「3900です」


「役所からまだ出ていない」


「では返せませんね」


「今日1日待て」


「今日は返済日です」


「夕方までなら」


「夕方に払えますか」


 沈徳昌は黙った。


「どこから3900持ってくるんです」


「それは」


「役所からは今日出ません」


 沈徳昌の顔が変わった。


「なぜお前が知っている」


 田朔は答えなかった。


「やっぱり知っていたのか」


「証文を確認しましょう」


「答えろ!」


 沈徳昌が前へ出た。


 陳貴が間に入る。


「店の中で騒ぐな」


「陳さん。こいつは最初から知っていたんじゃないのか」


「俺は役所の支払い全部を知っているわけではない」


 陳貴はそれ以上言わなかった。


 田朔は郭安へ証文を渡した。


 郭安が内容を読み上げる。


 元金3400銭。


 返済額3900銭。


 期限は9月29日。


 期限までに全額を返せない場合、倉とその敷地、店とその敷地、沈家の住居とその敷地、荷車4台、在庫商品、役所から受け取る未収代金を田朔へ譲る。


 沈徳昌自身の印がある。


 証人の名もある。


 玉蓮も証人として名を書いている。


 馬福成をはじめ、店の者たちが仕事を止めていた。


「仕事は続けてください」


 田朔が言った。


 誰も動かなかった。


「店を閉めるつもりはありません」


 馬福成が尋ねる。


「どういうことです」


「今日から俺がこの店を引き継ぎます」


 沈徳昌が怒鳴った。


「まだ今日が終わっていない!」


「3900ありますか」


「夕方まで待て!」


「夕方に用意できる当てがあるなら待ちます」


 沈徳昌は答えられなかった。


 玉蓮が夫を見る。


「もうやめて」


「玉蓮」


「昨日までに売れと言ったでしょう」


「今それを言うな」


「ではいつ言うの」


 玉蓮は声を荒らげなかった。


 だが、夫を見る目は冷えていた。


「私は何度も止めたわ」


 沈徳昌は何も言えなかった。


 田朔は馬福成へ向き直った。


「馬さん。店は今日も開けてください」


「私がですか」


「今まで通り番頭をお願いします。給金も変えません」


 店の者たちがざわついた。


「辞めたい人は止めません。ただし残るなら、仕事は今まで通りです。油も薪も縄も麻袋も売ります。役所への納めも続けます」


「帳場は?」


「そのままです」


「仕入れ先は?」


「急に変えません」


 馬福成は少し考えた。


「分かりました」


 沈徳昌が番頭を見る。


「福成」


「旦那様」


 馬福成は言いかけて止まった。


 もう旦那様と呼んでよいのか迷ったのだ。


 田朔は沈徳昌を見る。


「沈さんにも働いてもらえます」


「何?」


「この店の仕入れ先も客も、役所への納め方も知っている。追い出すより働いてもらった方が得です」


「誰がお前の下で働く!」


「嫌なら構いません」


 田朔は証文を指した。


「ただし店も倉も家も、もう沈さんの物ではありません」


「俺が30までかかって作った店だぞ」


「今日から俺の店です」


「お前は18だろう!」


「それが何です」


 沈徳昌は言い返せなかった。


 年齢を持ち出しても証文の内容は変わらない。


 玉蓮が口を開いた。


「田朔さん」


「はい」


「この人が働けば、今までの家に住めるの?」


「住んでも構いません」


 沈徳昌が顔を上げる。


 田朔は続けた。


「ただし、家は俺の物になりました。家賃は払ってもらいます」


「自分の家に住んで、お前へ家賃を払うのか」


「もう自分の家ではありません」


 沈徳昌の顔が赤くなった。


 玉蓮は夫を見ず、田朔へ尋ねた。


「私も働いていい?」


 田朔は少し驚いた。


「何をするんです」


「今までも帳面を見ていたわ。仕入れの支払いも確認していた。人足の家族も大体分かる。店の中で誰が何をしているかも知っている」


 馬福成が横から言った。


「奥方様には、以前から帳場を手伝っていただいております」


「どのくらいできます」


 田朔が尋ねる。


 玉蓮は答えた。


「帳面は読めるし書ける。仕入れ値も分かる。主人が外へ出ている時は、私が支払いを決めることもあったわ」


「それなら残ってください」


 田朔はすぐ答えた。


「給金も払います」


「主人の妻だからではなく?」


「仕事ができるなら使います」


 玉蓮は田朔の顔を見た。


「本当に何でも銭で考えるのね」


「その方が話が早いでしょう」


「そうかもしれないわね」


 玉蓮は初めて少し笑った。


 ◇ ◇ ◇


 午後。


 田朔は店、倉、自宅を順に確かめた。


 馬福成と帳場の男2人、それに玉蓮もついてきた。


 倉には油壺、麻袋、縄、薪などが残っている。


「全部でどのくらいになります」


 田朔が尋ねると、馬福成が帳面を開いた。


「仕入れ値なら1000銭を少し超えます」


 玉蓮が横から言った。


「でも油は今の値なら仕入れ値より2割ほど高く売れるわ。麻袋は役所へ回した方が町で売るよりいい」


 田朔が玉蓮を見る。


「役所へ納める値まで知っているんですか」


「帳面を見ていると言ったでしょう」


「沈さんより詳しいところもありますね」


 馬福成が咳払いをした。


 玉蓮は笑わなかった。


「主人は外の客を取るのが上手なの。私は店の中を見ていた。それだけよ」


「荷車は?」


 田朔が尋ねる。


「2台はすぐ使えます。1台はこの前直したばかり。古い1台も、城内ならまだ使えるわ」


「従業員は何人です」


 馬福成が答えた。


「今日いる者が23人。城外へ仕入れに出ている者が4人です」


「27人ですね」


「はい」


 田朔は人数を覚えた。


 玉蓮が言った。


「でも、全員をそのまま残すなら給金日までに銭が要るわよ」


「いつです」


「次が10月5日」


「いくら」


 玉蓮はすぐ答えた。


「人足まで含めて270銭ほど。仕入れ代も別に要る」


「帳面をあとで見せてください」


「分かったわ」


 田朔は初めて、玉蓮を正面から見た。


 美人だから目に入ったのは最初からだった。


 だが今は別の意味でも欲しくなっていた。


 店を手に入れても、田朔には大きな商家を動かした経験がない。


 馬福成だけでも助かる。


 そこへ玉蓮まで残れば、店の中のことをほとんどそのまま引き継げる。


 田朔は沈徳昌から、財産だけを取ったのではない。


 商売そのものまで取ろうとしていた。


 ◇ ◇ ◇


 9月30日。


 陳貴から知らせが来た。


 沈徳昌が役所へ納めていた品の支払いが通った。


 田朔は証文を持って役所へ出向いた。


 5200銭余り。


 本来なら沈徳昌が受け取るはずだった銭が、田朔の前に積まれた。


 田朔はその場で数えた。


 陳貴が横で見ている。


「全部あるか」


「あります」


「これで貸した3400は戻ったどころではないな」


「はい」


「その上、店も倉も家も取った」


「土地もあります」


「荷車も商品もだろう」


「はい」


「沈徳昌は?」


「店で働かせます」


「妻はどうした」


 田朔が陳貴を見る。


「なぜ奥方様まで聞くんです」


「お前が妙に気にしていただろう」


「仕事ができます」


「それだけか」


「今は」


 陳貴が笑った。


「春華に聞かせられんな」


「言わなければいいでしょう」


「お前は本当に俺の周りで女ばかり増やすな」


「陳さんが紅玉を欲しがったところから始まったんですよ」


「俺のせいにするな」


 田朔は約束した残りの50銭を渡した。


「少ないな」


「先に50渡しました」


「覚えていたか」


「銭のことは忘れません」


 ◇ ◇ ◇


 田朔はその足で新しい店へ向かった。


 馬福成は帳場に座り、従業員たちは前日までと同じように働いていた。


 沈徳昌もいた。


 自分が主人だった店で、今は田朔に雇われる側として仕入れ札を確かめている。


「役所から出たのか」


 沈徳昌が尋ねた。


「出ました」


「いくら」


「5200余りです」


 沈徳昌の顔が歪んだ。


「1日」


「何です」


「たった1日違いじゃないか」


「そうですね」


「昨日出ていれば返せた」


「返せましたね」


「それだけか」


「ほかに何を言えばいいんです」


「お前、本当に知らなかったのか」


 田朔は答えなかった。


 沈徳昌はその沈黙で十分だった。


「知っていたんだな」


「仕事をしてください」


「田朔!」


「沈さん」


 田朔は帳場を指した。


「客がいます」


 沈徳昌は拳を握った。


 だが店を出ていかなかった。


 家も仕事も必要だった。


 自分の店だった場所で働くしかない。


 その時、奥から玉蓮が出てきた。


「田朔さん。少しいい?」


「何です」


「油商の趙家から、前の支払いの残りを今日中に払ってほしいと来ているわ」


「いくらです」


「180銭」


「払えます」


「でも、その前に帳面を見て」


 玉蓮は田朔を帳場へ連れていった。


「この180を払えば、次の油は前と同じ値で出してもらえる。でも別の商人へ替えれば、最初の仕入れだけ少し安くなる」


「なら安い方へ替えればいいでしょう」


「それだけで決めない方がいいわ」


「なぜです」


「趙家は役所へ納める時に、急な追加にも応じてくれる。安い方は現金でないと出さない」


 田朔は帳面を見る。


「では趙家を残す方がいい?」


「私はそう思う」


「分かりました。180払ってください」


 玉蓮が田朔を見る。


「私が決めていいの?」


「理由を聞いて納得しました」


「あなたが自分で払わないの?」


「奥方様の方が相手を知っているでしょう」


 玉蓮は少し黙った。


「主人は、私が口を出しすぎると嫌がったわ」


「俺は儲かるなら嫌がりません」


「本当にそればかりね」


「大事でしょう」


 玉蓮は口元を緩めた。


「大事ね」


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方。


 田朔は父の田順(ティエン・シュン)を店へ連れてきた。


 田順は門口で立ち止まった。


「ここか」


「そうだ」


「これがお前の店?」


「そうだ」


 中では何人もの従業員が働いている。


 帳場がある。


 裏には荷車が4台並び、その先には商品を積んだ倉がある。


 田順は倉へ入ると、積まれた油壺や麻袋を見回した。


「いくらで買った」


「買っていない」


「では借りたのか」


「取った」


 田順が息子を見る。


「誰から」


「ここを持っていた商人から」


「どうやって」


「3400貸した。返せなかったから担保を全部もらった」


「これ全部?」


「店、倉、土地、家、荷車、商品だ」


「3400で?」


「役所から入る予定だった5200も取った」


 田順は額へ手を当てた。


「待て。お前は3400貸して、5200受け取って、その上でこれも全部取ったのか」


「そうだ」


「それでは相手には何が残る」


「仕事は残した」


「誰の下で」


「俺の下で」


「元の主人をか」


「商売を知っているからな」


 田順はしばらく息子を見た。


「妻はどうした」


「家にいる」


「そりゃそうだろう」


「店でも働いてもらう」


「何をする」


「帳場も仕入れも分かる。かなり使える」


 田順は嫌な予感がしたような顔をした。


「お前、まさか」


「何だ」


「いや。何でもない」


「言えよ」


「言ったら本当にやりそうだからやめる」


 田朔は笑った。


 ◇ ◇ ◇


 夜。


 従業員が帰った後も、玉蓮は帳場に残っていた。


 田朔も今日受け取った5200銭と店の帳面を確かめていた。


「まだ帰らないんですか」


 田朔が尋ねる。


「明日からあなたが困らないように、支払日を書き出しているの」


「馬さんに任せればいいでしょう」


「福成さんは仕入れと人足を見るので忙しいわ。細かい支払いは私が見ていたから」


 玉蓮は紙を田朔へ渡した。


 仕入れ先の名前、支払う日、金額が並んでいた。


「これを全部覚えていたんですか」


「毎月見ているもの」


「沈さんは?」


「大きな商いと客の方が得意なのよ」


「奥方様の方が店を残すのは上手そうですね」


「今さら言われても嬉しくないわ」


「褒めています」


「主人から全部取った人に言われてもね」


 田朔は否定しなかった。


 玉蓮が帳面を閉じる。


「あなた、最初から知っていたでしょう」


「何をです」


「役所の銭が29日に出ないこと」


「全部は知りませんでした」


「全部は、ね」


 玉蓮は田朔を見る。


「主人が借りるたびに担保を増やした。最後は未収金まで取った。偶然ではないでしょう」


「奥方様は俺を嫌いになりましたか」


「好きになる理由があると思う?」


「ありませんね」


「主人を罠にはめて、店も倉も家も取った男でしょう」


「そうですね」


「腹は立っているわ。でも、あなたが店を潰すつもりではないことも分かった」


「それでも俺の店で働く?」


「働くわ」


「なぜです」


「この店を潰したくないから」


 玉蓮は店の中を見た。


「福成さんも、帳場の人も、人足も、何年も一緒に働いてきた。主人が失敗したからといって、皆まで仕事を失う必要はないでしょう」


「それだけですか」


「私も食べていかなければならないもの」


「沈さんがいます」


「今の主人の給金だけで、前と同じ暮らしができると思う?」


「できませんね」


「だから働くの」


 田朔は笑った。


「やっぱり奥方様は使えますね」


「女に言う言葉?」


「美人ですね、と言った方がいいですか」


 玉蓮の手が止まった。


「急に何を言うの」


「前から思っていました」


「主人がいるでしょう」


「知っています」


「あなた、春華さんとも親しいって聞いたわよ」


 今度は田朔の顔が少し変わった。


「誰からです」


「陳家の侍女と話したことがあるの。あなたは思っているほど秘密にできていないみたいね」


「どこまで聞きました」


「そこまで教えると思う?」


 玉蓮が初めて楽しそうに笑った。


 田朔も笑う。


「奥方様も随分悪いですね」


「あなたに言われたくないわ」


 玉蓮は立ち上がった。


 帰ろうとしたところで、田朔が呼び止める。


「玉蓮さん」


 それまでの「奥方様」ではなかった。


 玉蓮が振り返った。


「何?」


「俺はあなたに店に残ってほしい」


「もう残ると言ったでしょう」


「仕事だけの話ではありません」


 玉蓮の顔から笑みが消えた。


「それは主人の妻に言っているの?」


「はい」


「主人から店も家も取って、その上で妻まで欲しいの?」


「欲しいです」


 田朔は隠さなかった。


 玉蓮はしばらく田朔を見ていた。


「本当に最低ね」


「よく言われます」


「私が断ったら、仕事を辞めさせる?」


「辞めさせません」


「家から追い出す?」


「それもしません」


「給金を下げる?」


「仕事とこれは別です」


 玉蓮は田朔の目を見た。


「そこまで言うなら、今夜は何もしないで」


「分かりました」


「随分素直ね」


「焦らして得する時と、すぐ取った方が得する時は分けています」


「女まで商売と同じなのね」


「それは違います」


「どこが?」


「玉蓮さんは、店より欲しい」


 玉蓮は言葉を失った。


 しばらくして頬を赤くし、帳面を抱えた。


「今日は帰るわ」


「分かりました」


「明日も店には来るわ。仕事の話は仕事としてきちんとする」


「お願いします」


 玉蓮は帳面を抱えて店を出た。


 田朔は追わなかった。


 今すぐ手を伸ばす必要はない。


 許玉蓮は沈徳昌とは違う。


 追い詰めて取ればいい相手ではなかった。


 自分から田朔を選ばせた方が、あとで長く使える。


 田朔は玉蓮がまとめた支払日の紙を手に取った。


 見やすく整理されている。


 店、倉、土地、家、荷車、商品、役所との取引、27人の従業員。


 そこまで手に入れた。


 さらに、商いを理解し、人を扱え、帳面を読める許玉蓮まで自分の側へ来れば、この店はもっと大きくできる。


 田朔は紙を折って懐へ入れた。


 1月には、自分の荷車1台すらなかった。


 9月の終わりには、30歳の商人が築いたものをほとんど奪い、その主人を自分の下で働かせている。


 それでも田朔は満足しなかった。


 梁景成は、まだはるか先にいる。


 384年9月が終わった。

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