第9話(中編)――「貸すたびに増える担保」
384年9月中旬。
9月12日。
沈徳昌の店は朝から慌ただしかった。
役所から新しい注文が入ったためである。
油80壺、麻袋150枚、それに薪も必要になる。
納めれば売上になる。
しかし、品を揃えるには先に仕入れ代を払わなければならない。
田朔が店へ入ると、番頭の馬福成が帳場で仕入れ札を並べていた。
「田朔さん」
初めて会った時とは呼び方が変わっていた。
「沈旦那はいますか」
「奥でお待ちです」
商談部屋へ入ると、沈徳昌がすぐ口を開いた。
「頼みがある」
「銭ですか」
「900貸してほしい」
「前の1800とは別に?」
「役所から新しい注文が来た。今ここで仕入れを止めたくない」
「前の銭もまだ返していません」
「24日には返す」
「900を加えれば2700です」
「分かっている」
「では条件も変えます」
「利息はいくらだ」
「店を担保に入れてください」
沈徳昌の顔が強張った。
「今度は店か」
「店とその土地です」
「倉と土地を入れているだろう」
「それは最初の1800の担保です」
「十分すぎる」
「俺は追加で900を出すんです」
「なら利息を増やせ」
「利息だけでは嫌です」
沈徳昌が卓を叩いた。
「お前、人の足元を見ているだろう」
「見ています」
田朔は隠さなかった。
「困っていない人は、俺からこんな条件で借りません」
「よく平気で言えるな」
「嘘を言っても仕方がないでしょう」
「店まで取るつもりか」
「返せば取りません」
沈徳昌が田朔を睨む。
田朔は続けた。
「ここで900を借りなければ、役所の新しい注文を断りますか」
「断れない」
「仕入れ先に待ってもらいますか」
「前の支払いを待たせたばかりだ」
「では人を減らしますか」
「今減らせば仕事が回らん」
「それなら銭が必要です」
田朔が答えを出す必要はなかった。
沈徳昌自身が分かっている。
しばらくして、沈徳昌が言った。
「証文を作れ」
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
許玉蓮は新しい証文を読み、夫を見た。
「今度は店まで入れるの?」
「注文を取ったんだ」
「断ればいいでしょう」
「役所の注文を断れば、次から別の商人へ回される」
「でも倉も店もなくしたら、商売そのものができないわ」
「なくならん。24日に返す」
「本当に24日なの?」
「今までなら、それくらいで出ている」
「今までの話ばかりしないで」
玉蓮は卓の上に別の帳面を置いた。
「店を少し縮めて、今月は新しい仕入れを半分にすれば、900全部を借りなくても済むわ」
沈徳昌が顔をしかめた。
「注文を減らせと言うのか」
「全部取ろうとして、店を失う方が悪いと言っているの」
「今縮めれば、ほかの商人に客を取られる」
「来月取り返せばいいでしょう」
「商売はそんなに簡単ではない」
「私だって毎日帳面を見ているわ」
沈徳昌は黙った。
田朔は玉蓮を見る。
前編で見た通りだった。
この女は店の事情を知らずに口を出しているのではない。
仕入れ、売上、人件費まで見た上で、店を縮めて生き残ろうとしている。
「田朔さん」
玉蓮が田朔へ尋ねる。
「もし900ではなく500なら、条件は変わる?」
田朔は少し考えた。
「店を担保に入れないなら貸しません」
「なぜ?」
「俺が欲しい条件ではないからです」
玉蓮は田朔の目を見た。
「随分正直ね」
「隠しても証文には書きます」
「主人が困っているのを利用しているのね」
「はい」
沈徳昌が田朔を睨んだ。
「お前な」
玉蓮が先に言った。
「いいのよ。この人は最初からそういう人でしょう」
田朔は少し笑った。
「俺をよく分かってきましたね」
「分かりたくて分かったわけではないわ」
玉蓮はもう一度夫を止めた。
しかし沈徳昌は900を借りた。
店と敷地が新たに担保へ加わった。
田朔は900銭を渡した。
◇ ◇ ◇
9月15日。
田朔は陳貴を酒屋へ呼んだ。
「沈徳昌の支払いはどうなっています」
「まだだ」
「いつ出そうです」
「早くて27か28だ。検めが遅れている」
「24日には?」
「まず無理だ」
田朔は陳貴の杯へ酒を注いだ。
「29日まで出さないでください」
陳貴の手が止まった。
「何?」
「沈徳昌の分です」
「お前、何をする気だ」
「銭を貸しています」
「それは聞いた」
「返済期限があります」
陳貴が田朔を見る。
やがて顔つきが変わった。
「お前、返させないつもりか」
「返したければ、ほかから借りればいいでしょう」
「俺に支払いを止めろと言っているのか」
「陳さん1人で支払いそのものは止められないでしょう」
「当たり前だ」
「検める順番を後ろへ回すことはできますか」
陳貴は返事をしなかった。
田朔は100銭を卓へ置いた。
「少ない」
「では150」
「本当に嫌な若造になったな」
「前からでしょう」
「沈徳昌に恨みでもあるのか」
「ありません」
「では、なぜそこまでやる」
「店と倉が欲しいからです」
「それだけか」
「土地も欲しいです」
陳貴が呆れた顔をした。
「本人には絶対に言うなよ」
「言うわけがないでしょう」
田朔は50銭を足した。
「200です」
陳貴は銭を懐へ入れた。
「俺ができるのは、書類を調べる順番を後ろへ回すところまでだ。その後は知らん」
「十分です」
「支払いそのものを消すことはできんぞ」
「消されたら困ります」
「なぜだ」
「あとで俺が受け取ります」
陳貴はしばらく田朔を見た。
「お前、本当に丸ごと取るつもりだな」
「取れるなら取ります」
◇ ◇ ◇
9月18日。
沈徳昌の店で、さらに銭が必要になった。
新しく仕入れた油の代金を払わなければならない。
荷車の1台は車軸が折れて修理に回った。
従業員の給金日も近い。
沈徳昌は田朔を呼んだ。
今度は最初から玉蓮も商談部屋にいた。
「あと700貸してほしい」
「これで最後ですか」
「最後だ」
「前にも似たようなことを聞きました」
「今度は本当に最後だ。役所の銭さえ出れば全部返す」
玉蓮は夫の横で黙っている。
田朔が答えた。
「700出せます」
沈徳昌の顔が明るくなる。
「ただし、今までの証文は全部まとめます」
「どういう意味だ」
「1800と900、今度の700で元金は3400です。期限も延ばします。9月29日に3900返してください」
「29日?」
「24日では間に合わなくても、さらに5日あります」
沈徳昌は安心した様子を見せた。
玉蓮だけは違った。
「担保は?」
田朔は玉蓮を見る。
「これまでの倉と土地、店と土地。それに住んでいる家と土地を加えていただきます」
「家まで?」
「はい」
沈徳昌も顔をしかめた。
「さすがにそれは多すぎる」
「では700は貸しません」
「倉と店で十分だろう」
「俺が決める条件はこれです」
玉蓮が田朔を見る。
「あなた、初めから少しずつ増やしているわね」
「借りる銭も増えています」
「3900に対して、担保の方がずっと高いでしょう」
「返せば何も失いません」
「またそれ?」
「事実です」
「29日に間に合わなかったら、家まで取るのね」
「はい」
玉蓮は夫の袖をつかんだ。
「やめましょう」
「ここで700なければ油の仕入れが止まる」
「止めればいいのよ」
「役所へ納められなくなる」
「今の注文を全部こなすことより、店を残す方が大事でしょう」
「役所との取引を切られたら、その後どうする」
「それでも家も店もなくすよりましよ」
沈徳昌は妻の手を外した。
「5200入るんだ」
「まだ入っていないでしょう」
「29日まであと11日もある」
「その言葉を何回聞いたと思っているの」
田朔は2人のやり取りを聞いていた。
玉蓮の判断は正しい。
店を縮めれば、沈家は助かる可能性がある。
だから田朔は、その案を勧めなかった。
「もう1つ条件があります」
田朔が口を開いた。
「まだあるのか」
沈徳昌が睨む。
「荷車4台、店と倉に残る商品、それから役所から受け取る予定の代金も、返せなかった場合には俺へ渡してください」
沈徳昌が立ち上がった。
「ふざけるな!」
「では貸しません」
「3400しか借りないんだぞ!」
「3900返せば全部そのままです」
「役所から入る5200まで取る気か」
「返せなかった時だけです」
「そんな証文に誰が印を押す!」
「押さなくても構いません」
田朔も立った。
「困るのは俺ではありません」
部屋を出ようとしたところで、馬福成が戸口へ来た。
「旦那様」
「何だ」
「油商の趙家から人が来ております」
「何の用だ」
「今日中に600払わなければ、明日から油を出さないと」
沈徳昌は返事をしなかった。
玉蓮が夫を見る。
「だから、もう縮めましょう」
「今さら間に合わん」
「間に合わせるのよ」
「役所へ約束した品をどうする」
「違約の銭を払ってでも、今は店を残すべきよ」
沈徳昌は田朔へ顔を向けた。
「待て」
田朔は戻った。
「条件は変えません」
沈徳昌は卓へ手をついた。
「29日までに3900返せば、全部戻るんだな」
「はい」
「必ずだな」
「証文にそう書きます」
玉蓮が夫を見る。
「本当にやるの?」
「5200入れば済む」
「あなた」
「大丈夫だ」
玉蓮はそれ以上言わなかった。
怒ったのではない。
夫を止めることを諦めた顔だった。
◇ ◇ ◇
その夜、郭安の店で新しい証文が作られた。
元金は合計3400銭。
返済日は9月29日。
返済額は3900銭。
期限までに全額を返せない場合、沈徳昌が所有する倉とその土地、店とその土地、自宅とその土地、荷車4台、店と倉に残る商品を田朔へ譲る。
さらに役所から受け取る予定の未収代金も、田朔が受け取る。
郭安は書き終えると、田朔を見た。
「これでは払えなければ何も残らんぞ」
「妻は残ります」
「そういう話をしているんじゃない」
玉蓮が田朔を見た。
「冗談を言うところ?」
「俺は本気です」
「余計に悪いわ」
郭安がため息をついた。
沈徳昌は証文へ印を押した。
玉蓮は最後まで迷った。
「あなた。本当に大丈夫なのね」
「何度言わせる。29日までに5200が入れば終わる」
「もし入らなかったら?」
「入る」
「答えになっていないわ」
それでも夫が印を押した以上、玉蓮も証人として名を書いた。
田朔は700銭を渡した。
手元の現金は大きく減った。
だが、田朔は不安を感じなかった。
沈徳昌が返せなければ、店と倉だけではない。
土地、家、荷車、商品、役所から入る銭まで、自分の手に入る。
そして田朔は、沈家にはもう1つ使えるものがあると考え始めていた。
許玉蓮だった。
夫より早く危険に気づき、帳面を読み、店を縮めて生き残る方法まで考えた。
美しいだけの女ではない。
沈徳昌より、この女を残した方が役に立つかもしれない。
田朔はそのことを誰にも言わなかった。
384年9月中旬が終わった。




