第9話(前編)――「返せると思う男」
384年9月上旬。
8月末、田朔の手元には現金で約4000銭が残っていた。さらに陳貴へ貸した500銭の札がある。
1月には母から100銭を借りなければ、草鞋20足すら買えなかった。
それから8か月で、田朔は役所へ飼葉や縄を納め、一度の取引で2000銭を超える利益を取るところまで来た。
だが、銭袋へ入れておくだけでは、4000銭は4000銭のままだ。
役所の大量買い付けも毎月あるわけではない。
田朔は次に、銭そのものを使って銭を増やす方法を考え始めていた。
9月2日。
田朔は長安城内の酒屋で陳貴と向かい合った。
「この前の油の話はどうなりました」
「まだ先だ。それより、お前に向いていそうな話がある」
「儲かりますか」
「そこから聞くのか」
「ほかに何を聞くんです」
陳貴は杯を置いた。
「沈徳昌という商人を知っているか」
「知りません」
「油、薪、縄、麻袋なんかを扱っている。役所や兵舎にも品を納めている」
「どのくらいの商人ですか」
「梁家ほどではない。だが、お前とは比べものにならん」
「それなら興味があります」
「30歳だ。城内に店が1軒、別の場所に倉が1棟ある。どちらも土地ごと本人の物だ。住んでいる家も持ち家だし、荷車も4台ある」
田朔の目つきが変わった。
「従業員は?」
「番頭、帳場、仕入れ、人足まで合わせれば20人を超える」
「借金がありますか」
陳貴が田朔を見る。
「なぜ分かった」
「俺に向いている話なんでしょう」
「役所へ納めた品の代金がまだ出ていない。それを当てにして、仕入れ先への支払いを延ばしているらしい」
「役所からいくら入ります」
「5200銭ほどだ」
「いつです」
「沈徳昌本人は今月下旬には出ると思っている」
「実際は?」
陳貴は周囲を見てから声を落とした。
「早くても月末近くだ。支払いの検めが遅れている。下手をすれば10月へ入る」
「沈徳昌は知っていますか」
「知らんだろう。役所から正式に遅れるとは伝えていない」
「今はいくら必要としているんです」
「2000ほど貸せる相手を探していると聞いた」
「2000だけですか」
「十分な大金だろう」
「足りないでしょう」
「何がだ」
「店と倉を持って20人以上を使っている商人が、2000借りただけで立ち直れるなら、そもそも借金を探し回るところまで困っていません」
陳貴は田朔の顔を見た。
「会うのか」
「その前に調べます」
「何を」
「持っている物と、払わなければならない銭を全部です」
◇ ◇ ◇
田朔は3日間、沈徳昌の商いを見た。
店は長安城内の南寄りにあった。
通りに面した間口は広く、軒下には油壺、麻袋、縄、薪の見本が置かれている。朝から小商人や職人が出入りし、裏の土間では人足たちが荷を積み替えていた。
番頭を務めるのは46歳の馬福成だった。
朝には馬福成が仕入れ先から届く品を確かめ、その横で帳場の男たちが木札と帳面を照らし合わせる。
荷車は4台あった。
2台が役所や兵舎への納品に使われ、残る2台が城外への仕入れに回っている。
倉は店から少し離れた場所にあった。
建物だけではない。
周囲に荷車を何台も入れられる空き地があり、品を積み替えたり、一時的に荷を置いたりできる。
田朔は倉より先に土地の広さを見た。
自分が使えば何ができるのかを考えた。
沈徳昌の家は店から歩いてさほど遠くない。通りに面して門を構え、家人を置けるだけの広さがある。
田家の粗末な家とは比べものにならなかった。
沈徳昌には24歳の妻、許玉蓮がいた。
夫婦に子供はいない。
玉蓮は家にいるだけの妻ではなかった。
田朔が店を見ている3日間に、玉蓮は2度店へ現れた。
1度目は帳場で馬福成と帳面を確かめ、2度目は仕入れた油壺の数を人足に聞いていた。
夫より前へ出るわけではない。
それでも店の者は、玉蓮から尋ねられればすぐ答えている。
田朔はその様子も覚えた。
◇ ◇ ◇
9月5日。
田朔は客を装って沈徳昌の店へ入った。
「油をお求めですか」
店の者に尋ねられ、田朔は値を聞いた。
いくつか話していると、沈徳昌本人が奥から出てきた。
上等な衣を着ていたが、袖口には薄い油染みがある。
「何壺ほどお入り用でしょう」
「今日は買いません」
沈徳昌の表情がわずかに変わった。
「では、何のご用で」
「沈旦那が銭を借りられる相手を探していると聞きました」
帳場にいた馬福成が顔を上げた。
沈徳昌の目が細くなる。
「誰から聞いた」
「貸す相手を探しているなら、俺が誰から聞いても同じでしょう」
「お前が貸すのか」
「条件が合えば」
沈徳昌は田朔の服を見る。
田朔は商人らしい衣を揃え始めてはいたが、大きな店の主人に見えるほどではない。
「いくつだ」
「18です」
沈徳昌が笑った。
「冗談ならほかでやってくれ」
「2000銭ほど必要なんでしょう」
沈徳昌の笑いが消えた。
「本当に誰から聞いた」
「2000で足りますか」
「何?」
「足りないと思います」
田朔は店の奥へ目を向けた。
人足が油壺を運び、帳場では札が積まれている。
「これだけ人を使って、役所への納めも続けるなら、今の支払いを済ませるだけでは足りません。次の仕入れでも銭が要るでしょう」
沈徳昌はしばらく田朔を見た。
「奥で話そう」
◇ ◇ ◇
店の奥には商談用の部屋があった。
沈徳昌と馬福成が座り、田朔はその向かいへ腰を下ろした。
「いくら出せる」
沈徳昌が尋ねた。
「その前に、何へ使う銭なのか教えてください」
「そこまで話す必要があるのか」
「返せない相手へは貸しません」
沈徳昌は顔をしかめたが、馬福成と目を合わせた。
「仕入れ先が3軒。合わせて1400ほどだ。人足と店の者へ払う銭が300ほど。残りは次の仕入れへ回す」
「それで2000ですか」
「そうだ」
「役所から入る銭は5200」
「そこまで知っているのか」
「いつ入る予定です」
「今月20日を過ぎれば出るはずだ」
田朔は顔色を変えなかった。
「なら返せますね」
「だから借りたい」
「1800なら出します」
「2000ではないのか」
「最初から全部は出しません」
「利息は」
「9月24日に2000返してください」
「200も取るのか」
「嫌なら、ほかで借りてください」
「高すぎる」
「担保があるなら貸します。担保を出さないなら貸しません」
「何を入れろと言う」
「倉です」
馬福成が田朔を見る。
沈徳昌の声も強くなった。
「1800で倉を抵当に入れろと言うのか」
「倉だけではありません。土地もです」
「馬鹿を言うな」
沈徳昌が立ち上がった。
田朔も立った。
「では失礼します」
「待て」
「何です」
「少しくらい条件を考えろ」
「考えた上で来ています」
「倉と土地は1800よりずっと高い」
「知っています」
「それでよく言えるな」
「返せば何も失いません」
沈徳昌は黙った。
「今月下旬に5200入るんでしょう」
「入る」
「なら2000返しても3200残る。倉も土地もそのままです」
馬福成が主人を見る。
「旦那様」
「何だ」
「明日までに李家へ払わなければ、次の荷を止めると言われております」
「分かっている」
「人足の給金も近いです」
「分かっていると言っている」
沈徳昌の声が荒くなった。
田朔は何も言わなかった。
困っているのは自分ではない。
沈徳昌が座り直すまで待った。
「証文はどうする」
「こちらで用意します」
「返せば破るんだな」
「元金と決めた利息を返していただければ、その場でお返しします」
沈徳昌は馬福成を見る。
番頭は嫌そうな顔をした。
「旦那様。土地まで入れるなら、奥方様にもお話しした方がよろしいかと」
「商売のことだ」
「倉は沈家の大きな財産です」
沈徳昌はしばらく考えた。
「明日の昼まで待て」
「分かりました」
田朔は店を出た。
帰る前に倉の方角をもう一度見た。
1800銭を貸して200銭の利息を取る。
それだけでも悪くない。
だが、田朔が欲しくなったのは200銭ではなかった。
◇ ◇ ◇
翌日。
田朔は郭安の店で証文を書かせた。
郭安は内容を読み終えると、田朔を見た。
「1800貸して、返せなければ倉と土地を取るのか」
「そうです」
「随分強い条件だな」
「相手は返せると言っています」
「お前は返せると思っているのか」
「本人には返すつもりがあるでしょう」
「俺が聞いたのは、つもりではない」
田朔は答えなかった。
「また何か知っているな」
「先生は証文を間違えずに書いてください」
「口の利き方は少しましになったのに、やることは前より悪くなったな」
「銭を貸すだけです」
「倉の方を見ながら言うな」
郭安は呆れながらも証文を書き上げた。
午後、沈徳昌は妻の許玉蓮を連れてきた。
玉蓮は淡い緑の衣を着ていた。
近くで見ると整った顔立ちをしている。派手な化粧はしていないが、目鼻立ちははっきりしており、立ち居振る舞いにも落ち着きがあった。
田朔は顔だけを見たわけではない。
玉蓮は証文を受け取ると、最初から最後まで自分で読んだ。
「あなた。倉だけではなく、土地も入っているわ」
「24日には返せる」
「役所の銭は、その前に必ず入るの?」
「入る」
「役所が必ずそう言ったの?」
沈徳昌が少し詰まった。
「今までなら、その頃には出ている」
「今までと同じとは限らないでしょう」
玉蓮の方が慎重だった。
田朔は黙って2人を見た。
「田朔さん」
玉蓮が田朔へ顔を向ける。
「あなたも役所へ品を納めていると聞きました」
「はい」
「役所の支払いは遅れることがあるの?」
「あります」
「どのくらい?」
「俺は10日ほど待たされたことがあります」
沈徳昌が眉をひそめた。
「今回はどうなんだ」
「沈旦那の支払いがいつ出るかまでは知りません」
正確な払出日は知らない。
その言葉自体は嘘ではなかった。
玉蓮は夫を見る。
「もう少し別の方法を探した方がよくない?」
「明日までに払わなければ仕入れが止まる」
「店の規模を一時的に小さくすればいいでしょう」
「そんなことをすれば、今までの客をほかへ取られる」
「でも倉を失うよりはいいわ」
「失わん。返せばいいだけだ」
沈徳昌は証文へ印を押した。
玉蓮はすぐには名を書かなかった。
「本当に返せば、この証文はなくなるのね」
田朔は答えた。
「約束した額を期限までに返していただければ、倉も土地もそのままです」
玉蓮はしばらく田朔の顔を見た。
それから証人として名を書いた。
田朔は1800銭を渡した。
沈徳昌はその日のうちに仕入れ先への支払いを済ませ、人足にも銭を回した。
止まりかけていた店は、また動き始めた。
田朔は帰り際、帳場に立って馬福成と話している玉蓮を見た。
夫が銭を借りる間にも、妻は明日の仕入れと人足の配置を確かめている。
田朔はその姿も覚えておいた。
384年9月上旬が終わった。




